古い道をたどってⅡ
「知ってるか? これは俺の先生が話してくれたことなんだけど――この世界には、古い歴史を記録した文献があまり残されていないんだってさ」
なんでも、精々ここ百年間の歴史しか、人々の間には伝わっていないのだと。
だから、若造の俺はもちろん、多くの人々が古の時代になにが起きたのかを知らない。人間という種族のはじまりも、世界の誕生すらも。
『みな、忘却の彼方に去っていった』
先生の言葉をそのまま借りて、俺はウェンディに言った。
ちょっとだけ振り向いて、妖精の顔をうかがう。見れば、彼女は眉を寄せて、小難しそうな表情をしていた。理解に難ありといった様子だが、少なくとも俺の話に耳を傾けてくれているようだ。
「各地を統治する王族や権力者達が、軒並みに古い書物を燃やしちまったらしいぜ。まぁ、自分達の幅を利かせるためには、不都合な過去を葬ったほうが民は動かしやすいからな」
いまもなお、書物は稀少品だ。幸い、先生の書庫には多量の蔵書が揃っていた。俺もその恩恵を預かって、色々と知識を蓄えることができたというわけだ。
喋りながら――俺は過去を思い出していた。
大部屋の、四方の壁一面に埋まった蔵書の数々。並んだ本の背表紙のばらばらの高低を目で追いながら、一冊一冊のタイトルにアイスブルーの瞳を光らせたものだ。
紙とインクの匂いにまじって、さらさらとペンを動かす音のほうへ顔を向ければ――石材の書斎机に向き合う、あの人の後ろ姿が見えた。
(もう、すっかり遠い場所になってしまったけれど……)
妖精について書かれた本も、その書庫のなかに収められていた。著者は不明、内容は小難しい文献でなく――思えば、彼の書庫には珍しい部類だ――可憐な妖精の挿絵がふんだんに盛り込まれたおとぎ話の本であった。
「…………」
ちらり。俺は横目でウェンディを見た。
(やっぱり。絵と実像とじゃ、まるで見た目がちがうのな)
彼女の頭から足先まで、視線を上下に動かして眺めていたら……深緑の瞳とぶつかった。
「むむっ。なーんか、いま失礼なこと考えていなかった?」
「ううん、べつに……」
そう言って、俺はさっと顔を反らした。まったく、変なところで勘の働く妖精だこと。
「あ、もしかしたら、あの剣も百年前に突き刺されたものかもしれないな」
半ばごまかすように、俺は強引に話を続けた。
「女王様の言う――人と妖精が、互いに争っていた時代。それは百年よりも古い時期の出来事なんだろうな」
「んー、そうかもね。アタシやカールが生まれる前から、あの遺物は千年樹に刺さっていたから……」
妖精族は、非常に長寿らしい。ウェンディやカールといった、いま生存している妖精は若い世代であるが、すでに数十年は生きているという。
(古い時代について詳しいことを知っているのは、妖精の女王様しかいないのか……)
しかし、あの詩は女王の言うこととは真逆のことを示している。
いったい、真実はどちらなのだろうか……。
* * *
街道は、次第に本格的な山道へと変わっていった。
「ハァハァ……」
少し息を切らしながら、先の見えない山道を俺は淡々と登っていく。傾斜はよりきつくなり、また木々が深まるにつれてモンスターが現れてきた。
「また出たよ!」
ウェンディの合図で、俺は足を止める。茂みから飛び出して、目の前の道を塞いだのは数匹のモンスターだった。
ぷるぷるしたゲル状のモンスターと、赤い目をぎらつかせた大きなネズミのモンスターだ。主にこの二種類と、俺達は戦闘を繰り広げていった。
家畜や野生の動物とちがって、モンスターと呼ばれる生物は好戦的で凶暴な生き物である。村間を行き来する通行人を襲うことはもちろん、時には人間の住む集落そのものに襲撃をかけて甚大な被害をもたらす。
人間にとって、モンスターとは災厄だ。
「今日はこいつの出番が多いな」
荷物を脇に置くと、俺は腰に下げていた自分の剣を抜いた。研がれた刃を光らせて、鋭い切っ先を正面の敵に向ける。
全長七十センチのショートソードだ。戦力として特別強力な代物ではないが、最低限の護身用として冒険者の相棒を任されている。
「やぁっ!」
飛びかかってきた一匹の大ネズミに、俺は怯むことなく、構えた剣を横に薙ぎった。金切り声を上げて一匹が地面に倒れると、残りのモンスターが少し後退る。
剣を構え直して、俺が一歩距離を詰める。すっと目を細めて、もう半歩踏み出そうとしたその時、じりっと地面の砂が軋る音が聞こえて――モンスターは逃げていった。
ガサガサと茂みを走る荒い音が遠くなって……消えたところで、俺はようやく剣を下ろして息を吐いた。
「ふぅ……」
モンスターが出る。
と言われて、俺はこの前のウッズウルフのような厄介なモンスターを想像していた。しかし、どうやらこの道に出るのは、小柄で力の弱いモンスターばかりのようだった。
(廃れた古い街道とはいえ、一応は人里に近いからかな?)
近年、モンスターはぐっと数を減らしたという。永らく人間達の間で、討伐対象にされ続けたせいだろう。それは同時に、人間の社会が発展して、多方面に勢力を伸ばしている証でもある。
俺はさすらいの冒険者を名乗っているが……かつて憧れた冒険話なんてものは、案外いまの世界じゃ現実的でないのかもしれない。
手ぬぐいを取り出して、刃についた血と脂を拭きながら思った。
(そうなると、妖精族もいつかは……)
同じ道をたどるのだろうか。
呪いの滅びを避けたとしても、そのうち森が開拓されて人目に見つかって。
人と共存できない種族は、いずれ――。