思えば遠くに
「思えば、遠くへ来たもんだな」
ぼそり、人間は喋りはじめた。
「草木も、花も……この湖だって。こんなに綺麗な景色に囲まれるなんてさ、昔の俺じゃあ考えられなかったよ」
まるで夢でも見ているようだ。
と、おおげさなことを口にする人間に「フツーの景色じゃないの」とアタシは突っ込みを入れる。
すると、あいつはくすりと笑った。
「俺の故郷にはなかったの」
そんな寂しい場所があるものか。
つぶらな瞳を斜め上に動かして、植物も水辺もない景色を想像してみる。だけど、永らく豊かな森のなかで生きてきたアタシには、いまひとつそんなイメージは沸いてこなかった。
「よくわかんないけど……ずいぶん、へんてこな所に住んでいる人間もいるのねー」
「まあな。俺は旅に出て、まだ半年そこらなんだけど──」
人間は、片手で首筋を触りながら言った。
「とにかく、いまは目に見える世界が全部面白いんだ。書物でそれなりの知識は身につけたけど、実際にこの目で見て、手で触れるのじゃ大違いだからな」
「ふぅーん」
「あ、特に妖精の里には驚かされたぜ? あんな馬鹿でっかい樹なんて、本にだって載っていなかったんだ。きっと世界中のどこを探したって他に存在しないだろうよ」
その言葉に、アタシは「そうね」とだけ答えた。
(やっぱり、千年樹はこの世界でたった一本だけか……)
もしも妖精族が、森の外でも生きられるのなら。
千年樹から離れて生きてゆけるのなら……。
裁判の時、アタシは女王様にそう進言してみた。でも、女王様の言うとおり、しょせんは夢物語で終わってしまいそうだ。
人間に気づかれないよう、そっと小さくため息を吐いた。
「結局さ。知らない世界に飛び込んでみないと、自分の物語ははじまらないよな」
いくらか、声のトーンに明るさが戻っている。人間は、自身の肩にとまるアタシへ、少し顔を傾けて言った。
「ウェンディも、そう思うだろ?」
「えっ?」
「妖精の里から出て、知らなかった人間の世界を目にして……俺が言うのも変だけど、まぁ、悪くないなーとか、思ったりしないか?」
ちょっと気恥ずかしそうに、彼は言った。
こっちは突然投げられた質問に、それはそれは戸惑った。
「そ、そんなこと……急に言われても……!」
適当に答えようにも、はぐらかそうにも。
妙に真剣味のある表情を前に──あと、さっきの暗い顔の時の同情も余って──無視を決め込むわけにもいかず、なんとか思いつく言葉だけで声を出そうとした。
「に、人間の世界って言っても……まだちょこっとしか見ていないから……! たしかに変わった食べ物はあるし、面白いものは見れるし、マシな人間もいるし、もらった花は綺麗だったけれど……え、えーと……その……」
アタシ、わからない。
思ったことが、そのまま口に出てしまった。
……数秒後、ハッと我に返る。
「バカなこと訊かないでッ!」
背中の羽をぴんと立てて、人間に向かって声を上げた。
「アタシは物見遊山で、ここまで来たんじゃないのッ!」
うぅ、ダメだダメだ! 余計な考えを吹き飛ばそうと、小さな頭をぶんぶん振りまわす。
「っはぁー、危なかった! うっかり人間のペースに乗せられるとこだったわ。あんたが、あんまりにもなよっちい顔をしてたから、ついアタシの心の広さを見せちゃったけど──」
「ウェンディ?」
肩から降りて、アタシは再び宙へ浮かんだ。あいつの真正面に移動してから、その間の抜けた顔に指を突きつけやった。
「何度も言うけれど、これは大事な使命なのよ。それを忘れちゃダメだからね!」
半分は自分に言い聞かせて、いま一度強く決心した。
身を翻して、突きつけた指を今度は星の瞬く夜空へと向ける。離れた妖精の里と、女王様と、ついでにカールのことを思い出して、アタシは熱い決意を口に出した。
「妖精族を救うために! 大昔、大樹へ呪いの剣をぶっ刺した忌々しい人間の血筋を引く者を探す! そして見つけ次第、縄で縛ってとっ捕まえて……あんたが抜けなかった剣を、今度こそ引っこ抜かせるんだからッ!」
それで万事解決だ。
呪いで弱っていた妖精の女王様も、お元気になられるだろう。カールも、妖精のみんなも──きっと救われる。
「これで、妖精族の未来も安泰ってわけよ。フフン!」
「ははっ、真面目だな」
「む? なーに他人事だと思って笑ってるのよ」
呑気に笑っている連れの人間に、アタシは振り返って口を尖らせた。
「あんたも頑張るんだからね。そうすれば、妖精の里に侵入した罪もお咎めなしになって、またさすらいの旅とやらを続けられるんだから」
命の代わりに、記憶を消されることもない。
だのに、人間はどこまでも呑気に「はいはい」と答えた。いま一つ覇気が足りないと、アタシは腕を組んでそっぽを向いた。
ふと、そっぽを向いた先、湖面が目にとまった。
昨夜とおんなじ、冴えた月明かりの夜。その明かりの下で、静かな湖面はそっくりそのまま逆さまの世界を写し取る。
深さは測れなかったが、不思議と怖さはない。ぽちゃん、と魚が跳ねた音が聞こえた。
「里にも池はあるけど、こんなに大きな水辺ははじめてね」
なんとなく、アタシは喋った。
夏の暑い時季は、水遊びが人気だ。ただ里中の妖精達が集うとなると、里の池は少々手狭である。しかし、この湖ほどの広さならば争いは起きないだろう。
ちょっくら湖の中心まで飛んでみようかしら。と思ったけれど、向こう岸で松明の明かりが見えたのでやめにしておいた。
「そりゃ、外の世界も面白いとは思うけれど」
さっきの人間の質問。やや遅れてから、ようやく素直に言葉に出来た。
「やっぱりアタシ達は妖精だもの。あの森の外では生きられないのよ、女王様の言うとおりにね」
「…………」
無言の人間に、アタシはくるりと振り返った。
「ね、アレを出してちょうだい」
「アレ?」
あいつは一瞬きょとんとするも、ああと頷いて懐からそれを取り出した。
一本の小枝。
里から旅立つ時に、女王様が妖精チェルトを通してアタシに渡してくれた大切なお守り──千年樹の小枝である。
「ふぅ、定期的に触れておかないとねぇ」
アタシは小枝を掴み、身体にマーナを補充していく。常に手元に持っておきたいところだが、移動の邪魔になりそうなので代わりに人間の懐に仕舞っているのだ。
小枝をぶんぶん振り回す私に──振ったほうが、なんとなく補充が早い気がするため──連れの人間が、ちょっと眉を寄せて訊ねてきた。
「……やっぱり、その枝に触れていないと調子が出ないのか?」
「んー……」
片方の手の人差し指を口元に当てながら、アタシは考える。
「べつに。いまのところはなんともないわね」
「そうか……」
「でも、だからこそ忘れずに、千年樹に触れていないとね。じゃないと──」
身体が崩れてしまうのだ。
あの青灰色の葉っぱのように。
「青灰色……」
ふと、アタシはあることに気づいた。小枝を手に掴んだまま、きょろりと辺りを見まわしてみる。
少し夜風が出てきたようだ。湖面にひだ状の波の立ち、人間が背もたれにしている樹から、さやさやと葉っぱの音が聞こえてくる。
その音を耳に、アタシは頭上を見上げて、ぽつりとつぶやいた。
「森の外には……青灰色の葉っぱはないのね」
「ああ。おまえもそれに気づいたか」
いつになく真剣な声に、アタシは顔を下ろした。
しかし、意味を問う前によっこらせと人間は立ち上がる。
「ま、この話は長くなるから、明日にするか」
風が出てきたから宿に帰ろうと、人間は歩きはじめた。その後ろをアタシは慌てて飛んで追いかける。背中から飛びついて、なんとかあいつの肩にしがみついた。
「ね、ね! もったぶらずに教えなさいよ」
「今日は疲れた。明日のこともあるんだ、さっさ休もうぜ?」
「なに言ってるのよ。期限は七日、明日は三日目よ? 一秒足りとも無駄にできないんだから。これだから人間ってのはー」
「人間、人間言うけれど、俺にはちゃーんとした名前があるんだけど」
「ふーん、なんだっけ?」
「ノシュアだよ。さすらいの冒険者ノシュア」
「自分でも、その肩書きはダサイって思わない?」
「い、いいんだよ、気に入ってるんだから!」
他愛もないやりとりをしながら、二人は宿に戻っていった。
……そして、二日目が終了する。