プロローグ Ⅱ
「おじいさん」
「うむ、なんじゃね?」
「この斧、ちょっと借りていくよ」
地面に突き刺さっていた斧を引き抜くと、俺は森の奥を見すえた。
森を見つめる視線の意図に、おじいさんもはっと気づいたようで、となりから「ううむ……」とうなり声が聞こえてくる。
「もしや、森の奥に入るつもりかね?」
「うん。おじいさんはこの辺りの――森の入口付近の木はあらかた切ってみたんだろ?」
「そうじゃのう。ほとんどの木がさっきのように奇妙な青に変色しておったわい。これでは次の年までに薪が用意できるかどうか……」
だったら。
と、俺は斧の切っ先を森の奥へと向けて、こう言った。
「俺があの森の奥へ入って、薪木になりそうな木を探してきてやるよ。この周辺の木がダメなら、たぶん……もっともっと奥のほうへ進んでいけば、まだ青灰色になってない木があるんじゃないかな」
「なんと……! い、いや、旅人さんには危ないことはさせられんよ。ましてや――」
白い眉に埋もれた年寄りの目が上下に動いて、俺の頭から足先まで眺める。
「君のような、まだ年若い子には……」
「ははっ、大丈夫だって!」
枝木を積む背負子を装着し、俺は斧を腰のベルトに提げた。準備は万端だ。俺は改めて木こりのおじいさんに言った。
「こう見えても俺、これまでいろんな修羅場をくぐってきたからさ」
皮肉まじりに、不敵に笑ってみせた。
それでも、おじいさんの顔から不安の気は晴れることはないようだが。
(昨日、俺はこの木こりのおじいさんに助けてもらった)
旅の種銭を稼ぐべく、珍しい薬草でもつんでいこうと――たまたま、とおりがかったこの森に足を踏み入れたのが事のはじまりであった。
人里から離れた深い森のなかは、俺がにらんだとおり、薬草の宝庫であった。しかし採取に夢中になるあまり、なんと俺はうっかり帰り道を見失ってしまったのだった。
(あの時は本当……今度こそ、儚い人生の終わりと思ったもんだ)
幸運なことに、日が落ちる寸でのところで、俺は一軒の小屋を見つけることができた。それが、この木こりのおじいさんの住まいなのである。
事情を話すと、おじいさんは親切に迎え入れてくれた。だからこれは、世話になった人へ恩を返せるチャンスでもある。俗に言う、一宿一飯の恩義ってやつだ。
「――いや、いかんよ」
やはり、森の奥は危険じゃ。
と、おじいさんはかたくなに首を振った。
「道にも迷いやすくなるじゃろう。それに……魔モノに襲われる危険も考えられる。
おまえさんのその気持ちだけで、ワシは十分じゃよ。だから悪いことは言わん、森の奥だけは……」
それなら問題ない。俺は自信たっぷりに答えようとした。
(今度はきちんと木に目印をつけて進むし、魔モノだったら何度か倒してきた経験はある。だから――)
けれど、俺が口を開く前に、おじいさんはより神妙な顔つきになって話の続きをつけ加えた。
「それに……なんでも『森の奥で、妖しい緑色の光を見た』という噂もあるんじゃ」
おじいさんの言葉に、俺は目をぱちくりさせた。
「妖しい……緑色の光?」
「そうじゃ。なんでも人の頭よりもひとまわり大きく、ふよふよとこう……宙を漂っているらしいんじゃ」
ふよふよ宙を漂う、妖しい緑色の光。
その説明に、俺の脳裏にて古い記憶の一ページがめくられた。
――壁一面、本棚で埋められた大きな書庫。
書庫の隅っこ……目立たない位置に収められていた、古ぼけた一冊の本。題名の文字は潰れていて読めなかったが、幼いころの自分はよくその本を手に取って開いていた。
文字は少なく、代わりに美しい挿絵に彩られていた。幻想的な生きものばかり描かれていて、そのなかに淡い緑色の光に包まれた――さる絵があった。
あれはたしか……蝶に似た羽を背中に生やし、小さな人の姿をした美しい生きもの――。
「もしかして、妖精かな?」
「……ようせい?」
俺のつぶやきに、おじいさんは不思議そうに言葉をくり返した。はっと、思い出から我に返った俺は「な、なんでもないよ」と笑ってごまかした。
「とにかく! 万事、俺にまかせてくれれば大丈夫だって!」
緩くなった頭のバンダナをしめ直そうと、いったん布をほどく。ゆれる銀色の髪は、浅黒い地肌とのコントラストでよく目立った。……べつに、隠しているわけじゃない。ただバンダナを着けているほうが――冒険者っぽい気がするのだ。
「この、さすらいの冒険者ノシュア」
俺は高らかに、その名を口にする。
「おじいさんのために、すっごい立派な木を見つけてきてやるからなっ!」
アイスブルーの瞳をキラリと光らせて、俺は自信たっぷりに笑ってみせた。
* * *
そう。思えば、すべては小さな仕事からはじまった。
それでも、いまの自分にとって、誰かの役に立てることほど喜ばしいものはない。木こりのおじいさんの制止を振り切って、俺は意気揚々と森の奥地へ足を突っ込ませた。
これがまさか、大きな冒険の開幕になるとは――。