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十二月、雪明かり(下)

「その節は誠にありがとうございました」


 マスターは深々と頭を下げる。


「子供の気まぐれだよ。気にしないでくれ。……俺の方こそ、(ないがし)ろにして済まなかったな」

「いえいえ、人間の世界を長年見続けていた割にそういうところまで気が回らなかったのは私の不徳の致すところです」

「……ひとつ教えて欲しいんだが、時間はまだ大丈夫か?」


 デザートのショートケーキに手を伸ばしながら寺岡が尋ねると、マスターはこくりと頷いた。

 寺岡はケーキの上に乗っていたイチゴを口へ放り込んでずっと疑問に思っていたことをぶつけた。


「どうして俺に何度も懐かしいモンを食わせてくれたんだ?」

「あぁ、それはですね……」


 言うか言うまいか悩む素振りを見せるマスターに構わないから話してくれと合図を送る。


「奥様と別れられてから、食生活が乱れておられるように思いましたので……。

 私がかつて食料を恵んでいただいたように、寺岡さんにも何か良いものを召し上がっていただきたいと思ったのです」


 マスターの話を聞いて、寺岡はそこまで見られていたのかと苦い顔をした。


 たしかに、妻と別れた後の料理ができない寺岡の夕食は飲み屋へ行くかコンビニ弁当やカップラーメンを買って済ませていた。

 それですら面倒な日は食べずに布団に潜り込むこともあった。


 そのせいか健康診断の数値は目に見えて悪くなっていたが、歳のせいだと言い訳をしながら目を背けてきていた。

 今さら料理を覚えようなどという気概は寺岡にはなかったのだ。


「……そうか、そうだったのか」


 ため息交じりに呟いた寺岡はポリポリと額を掻いた。


「マスター、もう心配しなくていいよ。年明けからまたあいつと一緒に暮らすことにしたんだ」

「そうなんですか!」


 マスターは目を丸くし、身を乗り出してくる。

 自分のことのように喜んで綻ぶ様子はまるで無垢な子供だ。


「それの準備でバタバタしててあの後も顔を出せなかったんだけどな。妻と復縁できたのはマスター、あんたのおかげだよ」


 言ってからじわりと恥ずかしさがこみ上げてきた。

 マスターが出してくれた来々軒のまかないセットを食べたおかげで昔のことを思い出し、筑前煮を食べた時のマスターの一言で「妻」という存在は料理ができて当然の人間ではないのだと気付かされた。


 そして、その日の夕食で初めて寺岡は「美味い」と妻に伝えられたのだ。

 妻は大層訝しげな顔をしていたが、そこからゆっくりと二人の関係は修復されていった。


「籍は戻さないつもりだけどな」

「籍なんて人間が作った決まりでしょう? そんなものよりお二人の関係が良い方向に向かったのなら、私がそのお力添えができたのなら、それほど嬉しいことはありませんよ」


 マスターの尻尾がパタパタと揺れる。

 思い出の味をそのまま再現したものだから、ショートケーキのスポンジはパサパサでクリームの偏りもひどい。それでも、それももう残りは一口になってしまった。


「……これを食ったらお別れだな」


 寂しそうに寺岡が零す。

 マスターは静かに頷いた。


「最後にさ、名前を教えてくれないか?」

「名前……ですか。そんな大層なものはありませんよ」


 ふふっと力なくマスターが笑った。


「所詮はケダモノですからね。

 ……さあ、そろそろストーブの薪が燃え尽きてしまいそうです」


 それは最後の別れを宣告する言葉だった。

 寺岡はもう少しマスターと話していたかったが、それはどうやら受け入れてもらえないらしい。

 渋々コートを羽織り、店を出る。


 ドアが閉まる瞬間に聞いたベルの音は、いつもより悲しい音色だった。

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