カオヤイのピー2
◇◇◇
来てみたものの、俺は少し後悔している。
カオヤイは避暑地として有名なのだが、今はタイの冬季。鳥肌が立つ程の涼しさだ。
車でバンコクから三時間。実地訓練の名の下に、メガミ、ゾフィ、ロジー、カメコウ、それから俺。全員参加だった。
最初、キャンプのようなものを想像していたが、その実は高度な戦闘訓練で。足場の悪い森林や、空気の薄い高山で丸一日動き回った。
件の小説のファンだった俺は、何か発見があるかもしれないと淡い期待を抱きながら、たまには観光も良いものだと達観していた。
だからホテルで一泊するのかと思っていた。が、野営だと知らされてガッカリさえした。
厳しい訓練にカメコウが脱落し、次にロジーが音を上げた。その二人はテントの設営をする事となり、ゾフィが手伝っている。三人でのテント設営は非常に楽しそうである。
俺もそちらに加わりたかったのだが、メガミに追加の訓練と称され、川の近くで組手をやらされる。
「もっと重心を落とせ!」
「す、すみません……ちょっと休憩……」
「駄目だ」
教官と言えようこの女は、手加減を一切してくれなかった。
何度「すいません」と口にした事か。日本の伝統<土下座スタイル>も試してみたが、アメリカ出身の彼女には通用しない。「何だそれは。アルマジロの真似か?」とまで言われ、鼻で笑われた。
俺は憎い。国境が。そして、ジャパニーズ・ニンジャ、サムライ、スシ、テンプラしか伝わっていない日本の文化が。
「ここってどこなんです? 随分離れちゃいましたけど」
こうなれば時間稼ぎだ。質問して、その間休憩を取る事にしよう。
国立公園にはビジターセンターがあった。云わば案内所であり、入り口である。
しかし現在地はそこからかなり離れていて。最早、ここが何処なのかも分からない。そんな場所で、俺は先程から滝のような汗をかき、地面に突っ伏している。
「さぁ、どこだろうな? 適当に登って来てしまったが……」
山奥まで進んだ事もあり、携帯電話のGPSはあまり機能していない。通常、登山用のGPSがあり、それを使うと良いらしい。が、時既に遅し。
森、山、川……見渡す限りの大自然。カオヤイとは現地の言葉で「大きな山」という意味だとか。
その一部が国立公園として、世界遺産に登録されているらしい。
目下、観光用のルートを外れている。一応の登山コースではあるのか、しかし遊歩道は整備されていない。
川に掛けられているのはボロボロの橋梁で、修繕されておらず、所々朽ちている。
「そろそろ、戻りませんか?」
日も傾き始めていたので、そう提案する。
川の水に触れてみれば、かなり冷たかった。火照った体を冷やすには丁度良いと、俺は顔を洗った。
「そうだな。そろそろ……ん? お、おい!」
何やらメガミの焦ったような声が聞こえる。その時、顔を上げると眼前の水面が膨れ上がった。ザバッという音を立てて、何かが姿を現す。牙、赤い肉、ウロコ。
上下に大きく開いた口……ワニだった。
一瞬「へぇ、タイって野生のワニが居るんだなぁ」とか悠長な感想を抱いたが……
これ、結構ヤバくね?
「うわわわッ!!」
咄嗟に体を後ろへ反った。勢い余って尻餅を付く。そのまま無我夢中でワニを蹴り飛ばす。一発、二発、三発。
「このッ! この野郎ッ!」
俺の足が何発かワニの頭部に命中した。危うく噛まれかけたが、死に物狂いで抵抗する。
すると観念したのかワニは顎を引っ込め、ズブズブと水中へと潜っていった。
まさに間一髪……。魚影というか、ワニのシルエットが遠ざかっていくのをはらはらしながら見守る。
だが今度は、嫌な音がした。ベキベキ、という音だ。
俺の足元。木で作られた足場が緩やかに歪んでいく。
「おい、マジかよ!?」
橋が割れる。その直後、全身を冷水の感触が襲った。
脳が全力で警鐘を鳴らしていた。近くにはワニ。急いで陸地に上がらないと……これは洒落にならない。
こんな時にメガミは何をしているんだ? 分からないが、これは相当マズイ。
喰われる。嫌だ、死にたくない。
陸へと這い上がり、振り返る。ワニはもう居ないようだった。
……が、安堵したのも束の間だった。
前を見たら、動く物体が。
推定、体長ニメートル以上。黄色と黒の模様が入り混じった大型の動物。逞しい四肢に、猫のようなヒゲ、顔面。
今度はトラが居た。
――トラは役目を終えると、ゆっくりと後退していった。その先には一人の人間。老人である。
トラは近づき、老人へと擦り寄った。そして頭を撫でられ、気持ち良さそうに喉を鳴らす。――