カオヤイのピー1
◇説明◇
ラッシュ……主人公の男性。リセッターズという組織に所属している。上司は“メガミ”。
メガミ……ラッシュの女上司。美人で強い。メガミは通り名。
リセッターズ……主人公達が所属している傭兵部隊。タイで活動中。隊員はラッシュの他に、ゾフィ、カメコウ、ロジーが居るが割愛。隊長はメガミ。
事務所はタイのヤワラート(繁華街)にある。今作では訓練の為、カオヤイに向かう。
「この小説、知ってますか?」
「知らんな……基本的に、本は読まないんだ」
机の上に置かれていた小説を手に取り、ラッシュはメガミに尋ねた。
場所はヤワラート、例の事務所である。誰かの私物か、それとも依頼の最中に入手したものか、いつからそこに置いてあったのかは分からない。ただ無造作に、机の上に置かれていた。
この日、早々に依頼が終了したリセッターズの面々は、午後から暇を持て余していた。
ラッシュとメガミは居残り。カメコウはまだ本調子ではない事から、ゾフィと共に帰宅していた。
「ベストセラーなんですけど、今、妙な噂で持ち切りでしてね。この作家さん、実はゴーストライターなんじゃないかって噂があるんですよ」
無関心なメガミを余所にラッシュは続けた。コーヒーを飲んでいたメガミだったが、本をチラリと一瞥する。
知らないと答えた彼女だったが、そういえば以前、書店で買ったものと同じ作者である事に気付いた。
とある休日の事だ。ひったくりを捕まえて、婦人からカノムブアンを頂いたあの日、購入したものと同じであった。
著者を見る限り、日本人の作家である。
「最初は、読者の間で囁かれていただけなんですけど、ほら……このページ」
そう言って、ラッシュはメガミに小説を手渡した。何気なく、メガミはそれを受け取る。
見開かれたページには縦書きで文章が列挙されている。日本語で書かれたものだった。本来ならば縦に読んでいくものだが、ラッシュに指し示された単語を横になぞっていくと、別の読み方が出来る事にメガミは気付いた。
「《た・す・け・て》……?」
メガミの言葉に、ラッシュが黙って頷く。横に読むと、「助けて」と読む事が出来る。
もしこれが真の意味でのメッセージだとしたら、著者からのSOSという事になる。しかし、偶然ではないだろうか。メガミはそう思った。
「よく気が付いたな。普通ならば見過ごしてしまいそうだが……」
「このページだけじゃないんですよ。他のページにも同じ単語がたくさんあって……でも、続編には無いんです。その単語が」
ラッシュからすれば、ただ会話の間を埋める程度の話題だったのかもしれない。
本人の表情からも、真剣な様子は伝わってこない。
「それで、何故、ゴーストライターかもしれないって話に繋がるんだ?」
「ええと、失踪したって噂があるんですよ。そうだ、丁度――」
ラッシュ曰く、著者のブログがあるらしい。毎週、日常的な内容を投稿していたようだ。
が、”タイに家族旅行へ行った”という記事の後、一切の更新が成されていない。著者のアカウントと思われるSNSも、以降は沈黙したままである。それ故、ファンの間では何かがあったのではないか、と危ぶまれているのだ。
それなのに、著者の小説作品は刊行され続けている。この<たすけて>という文言は作品の一刊だけ。続投のシリーズには見受けられない。
「つまり……今は別の人間が書いているのではないか、と」
「ええ。まぁ、あくまで都市伝説みたいなものですけど」
メガミは目の前にあったノートパソコンを広げると、調べてみた。名前はタヌマ、日本人。
著者について検索すると、すぐに件のブログが出てきた。そのページを閲覧したメガミが、沈痛な面持ちで口を開く。
「これは……死んでしまっているかもしれないな」
ブログに投稿されていた写真を見て、メガミが呻った。投稿された数枚の写真から、著者がタイに居た事が分かる。
背景には壮大な大自然が写っている。
「それは、どういう……?」
「写っている場所はカオヤイという所だ。“ピー”が出る、と言われている」
「“ピー”、ですか?」
「ああ、タイの言葉で、“妖怪”という意味だ」
勿論、そんなものは信じていないがな――と付け加えると、メガミはノートパソコンを閉じた。
タイには野生のトラやゾウが居る。中には猛獣に襲われ、喰われ……行方不明になったり、死んだりした者も居る。
昔の人々は畏れた。理解出来ないもの、分からないもの、それらを、妖怪のせいにした。
だが、或いは……本当に居るのかもしれない。
「丁度良い。今度、実地訓練も兼ねてカオヤイに行くぞ。全員強制参加だ」
――タイでは、年間数千万人の外国人観光客が来訪している。最新のデータによれば、その数は年間三千万人以上だという。
観光客が行方不明になってしまうという事件は往々にしてある事だ。
しかし、例えば年間数万人の行方不明者の中で言えば、極々小さな数である。
ある日、彼らは忽然と姿を晦ます。では何処へ消えたのか。――