第83話「退く者と起つ者」
ベルツァール王国南部諸侯連合は、崩壊したも同然の有様を晒していた。
すでに国境は遠くにあり、南部諸侯のほとんどは程度に違いはあれど領地の一部を敵の支配下におかれている。
もっとも被害を受けているのは、国境近くに領地を持っていたアレクサンダル・マクドニル子爵であり、彼の領地は完全に敵の支配下にあった。
未だに竜眠季の訪れぬ昼。
国境の平野部を追い散らされ、山道を辿り谷の間にある街、ヴァレスにまで逃げ延びた南部諸侯連合の軍は、疲弊していた。
徴集された兵の中には緒戦のありさまを見て脱走し、リンド連合だろうかベルツァールだろうが構わずに襲う夜盗になっているという。
「援軍は、援軍はまだ来ないのか! もう二週間以上も南部だけで戦っているのだぞ! 彼奴らは人の心をどこに置き忘れたのだ!?」
「怒鳴らないで欲しいマクドニル子爵。皆が疲れているこの場で、あなたの怒りを消すために世話をする者などいませんよ」
「なにを言うカリム城伯……、わしの領土はあの山々の向こう! わしの田畑が、財産が、今どうなっていることか!」
「それで相手が満足して講和なり休戦なりを申し出てくれれば、我々としては万々歳じゃないですかね」
「なんだと、貴様ぁ……!」
ヴァレスの迎賓館。
厳しい顔つきの老人と、疲れ果てた顔つきの中年の男が、終わりそうもない口喧嘩を始めている。
南部の迎賓館にはよくあるように、装飾は二匹の竜が肩を並べたものがあり、二国のかつての蜜月を反映するかのように豪華で広い。
その一室、会食などをするような部屋の中に、南部諸侯の面々は顔を並べていた。
誰も彼もが疲れ果て、薄汚れ、土と馬糞と汗の臭いを纏っていたが、誰もそれを清めようという余裕すらない。
剣は腰に挿したままで、椅子に座っている者はブーツの紐を緩めて少しでも楽になろうと勤めている。
「喧嘩なら外でやってくれたまえ。泥のように眠りたいというのに、部屋中に響く怒鳴り声が子守唄などどのような性悪の魔女でも思いつかんぞ……」
波打つ癖毛をたっぷりと肩まで伸ばした青年が悪態をつくように言えば、さきの二人は口をもごもごと動かしながら黙った。
白いシャツは汗と泥に汚れ、品の良いブーツはこびり付いた泥と馬糞で無残にコーティングされており、椅子にぐったりと座り込んでいる。
この長髪の青年こそが、ローベック・トリトラン伯爵である。
南部諸侯連合は、負けに負けまくり敗走を繰り返している。
緒戦においてさえ、諸侯最年長にして南部の良き相談役であったリー・バートン男爵と少なくない兵を失っていた。
その後の戦いはまさに悲惨というべきか、あるいはもはや惨めだと断言するべきだろうか。
国境近くに領地を持っていたアレクサンダル・マクドニル子爵などは、積み重なるストレスが原因で常に怒りを振りまいている。
怒れる老人を前にして、オスカー・カリム城伯は正攻法での戦いを諦め、まず講和、あるいは休戦をすべきだと触れ回り、老人の怒りに油を注ぐのだ。
その上、事実上南部の総指揮官であるローベック・トリトラン伯爵は、まだ三〇にもなっていない若者であり、これらの年長者たちの対処に慣れていない。
ただでさえ場の空気と勢いに流され気味で、勝手の分からぬ立場に追いやられたというのに、誰もそのことに関して気を配ってやることはないのだ。
唯一、最期の一時まで命を捧げてこの若者を気遣ってやったのが、真っ先に死んでしまったリー・バートン男爵であるというのは、悲劇でしかない。
その息子であるヒュー・バートンは男爵となり、領民ともども怒りに燃えて南部諸侯連合に加わっているが、所詮は民兵の域を出ない寄せ集めの集団だ。
そしてこの場にいない者が、すでに二人いた。
一人は国境沿いの山岳地帯に領地を持つパーラット・ヴォスパー子爵であり、もう一人はジョナサン・ロッカール男爵だった。
どちらも戦死したわけではないが、彼らはすでに兵までをも引き上げている。
パーラット・ヴォスパー子爵はヴァレスではなく、国境沿いの山岳地帯にある自らの領地に戻り戦いを続けている。
緒戦から果敢に戦い、自らも傷つきながらも矜持を投げ捨て夜襲に打って出て、そして破れた男は、それでもなお闘志を燃やし続けているのだ。
騎馬も失い、騎士達も傷つき、それでもヴォスパー子爵は己の領地とその守護という契約を守るために、この場から去った。
そうして、それと対照的なのはジョナサン・ロッカール男爵である。
彼は端的に言って、逃げたのだった。ヴォスパー子爵のように戦うわけでもなく、緒戦でリー・バートン男爵とその騎士達が殺される様を見て、逃げたのだ。
彼の軍はすでにヴァレスどころか、この近郊のカリム城伯の土地にもおらず、今頃は自分の領地で膝でも抱えて引き篭もっているに違いない。
「せめて父が健在であったなら、もう少しまともに渡り合えたのか……」
マクドニル子爵にもカリム城伯にも聞こえぬほど小さく、トリトラン伯爵は呟き項垂れる。
父はまだ六〇にもなっていなかった。まだまだこれからだと血気盛んにあちこちに馬で出掛けては、南部の基盤をさらに磐石にせんと奔走していた。
その父がリンドブルムの革命騒ぎに介入し、ラミリー湖畔での戦いで呆気なく死んでから、ローベックは分からないなりにやってきたつもりだ。
精一杯、父の背中に追いつけるようにやってきたつもりなのだ。
次期トリトラン伯爵として、南部の事実上の主として、その振る舞いや手腕をずっと、見続けて学んできたはずなのだ。
だからこそ、ローベック・トリトランは思うのだ。
だというのに、どうしておれはこんなところで泥とクソに塗れているのだ―――と。
肌寒い空気が迎賓館に入り込み、気力をなくしたカリム城伯が暖炉に薪をくべ、マクドニル子爵は苛立たしげにぶつぶつとぼやいていた。
窓の外を眺めてみれば、近場の教会の聖職者たちが駆け回り、包帯を替え鍋で食事を作り、汚れた身体を拭いて清め、死者に祈りを捧げている。
酷使された馬は主の手によって葬られ、解体され、食肉として兵達の糧として調理されている。
いったいどこまでこの戦いは続くのかと、誰もが思っていた。
疲弊し叩きのめされ、山を越えて汚れ切り、戦意は低くなっている。
そんな中、ヴァレスの街に二人の伝令が駆け込んできたのだった。
王都からの援軍の到着。
まずそれが一人目の伝令から知らされ、そして二人目の伝令が引きつった表情で告げた。
ヴァーバリア公国のユーダル独立砲兵連隊が、勝利したという報告であった。
―――
昼を過ぎたベルツァール南部の山々に、霧がうっすらと掛かっている。
それらを眼下に納めながら、豪奢な銀髪を風に弄ばれるままに、ローザリンデ・ユンガーは不敵に笑みを浮かべる。
まるで霧は地表を撫でるように風に運ばれていくが、しかし霧は真実を隠してはくれない。
小さな山道を隠してしまうほど積み重なっているのは、死体である。
手足がもがれたものもあれば、真っ二つになったものもあり、多数の鉛球で撃たれたものもある。
露によるものではない溜まりがあちこちにできており、風向きさえ変わればこちらにも濃厚な鮮血の臭いがしたことだろう。
「鉄と火薬の力によればこんなものだよ。 ―――まあ? 鉄と火薬が切れれば脆弱なものだがねぇ?」
くふふ、と笑うローザリンデ・ユンガーは続けて腹を抱えながら、あっはっは、とソプラノの笑い声を響かせた。
小さな体躯はドワーフか、はたまたファロイドかと思われたが、それにしては身体は華奢で幼さを色濃く残しているし、ファロイドほどの好奇心はその琥珀色の瞳にはない。
豪奢な銀髪と小さな体躯、幼さを残した未成熟な身体、耳に残るソプラノの声、ある種の欲がちらつくその琥珀色の瞳こそは、人間のもので間違いない。
背丈は一四〇ほどある程度で、その小さな体躯に灰色の整った衣服を纏っている。
その銀髪の形が崩れるのが嫌なのか、それともなにか理由があるのか、帽子は被っていなかった。
小ささから恐らく特注と思われる乗馬靴を履き、腰には片刃のショートソードのようなものが吊るしてある。
ヴァーバリア公国の吸血鬼絶滅に貢献し、その功績によって勲功爵となった者。
武勇から想像されるあらゆる想像妄想を覆して、齢にして十二ほどのニーニャ勲功爵ローザリンデ・ユンガーは、背後に砲列を従えながら破顔する。
砲を操るのは樽のような体躯に、誰もが胸も隠すほどの髭を伸ばしている者ども。
ドワーフだ。
到底、信じられることではない。
たかが十二歳の幼女が、あの岩のように頑固で融通がきかない、おまけに義理堅く家族主義をこじらせたドワーフを従えているのだ。
文句も言わずにドワーフたちは次々に慣れた手つきで砲身を洗浄し、すぐにでも装填できるように準備を整えている。
ローザリンデ・ユンガーは、その銀髪をばさりと棚引かせ、大手を広げて振り返る。
幼いからこそ瑞々しくきめ細かい白い肌には朱が差し、呼吸も少しばかり荒かった。
しかし、それがどうしたことかとばかりに、この幼女はドワーフたちに告げる。
「さあ、栄えある我らヴァーバリアのユーダル独立砲兵連隊の諸君! 汗水たらして砲車を押して回った、古参どもによる連隊諸君!」
おうよ、あいさ、と野太い声がソプラノの声に答えるように次々に上がる。
あるドワーフは斧を掲げ、あるドワーフは丸太のような両腕を掲げ、またあるドワーフはラッパ銃を掲げて吼えるように声をあげている。
腹にまで響く低音に、ローザリンデ・ユンガーは口端をにぃっと釣り上げて再び、言うのだ。
「我ら連隊の存在意義が向こうからやって来た! 私が良いと言うまで公国には帰らん! ベルツァールの王冠に楯突いたことを敵に後悔させてやろう!!」
応、応、応と。
ドワーフの力の篭った咆哮が、髭の下で笑みを浮かべたドワーフの咆哮が、山々に轟く。
すばらしい、とローザリンデは恍惚とした表情を浮かべ、静かに告げる。
「では諸君、やろうじゃないか。―――徹底的に、殺って殺られる戦争を!!」
答えは決まっている。
ドワーフの咆哮が轟く。
ユーダル独立砲兵連隊の咆哮が、山々に響く。
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