第63話「バートンの突撃」
第二幕がはじまります。
この第63話は主人公であるコウ目線ではありません。
場所も王国北部の端であるタウリカではなく、反対側の王国南部、その国境地帯になります。
雰囲気がちょっと硬いかもしれませんが、どうぞお楽しみください。
敗走するベルツァール南部諸侯連合の軍勢は、もはや兵とも軍とも言えぬ様相を呈していた。
武器すら投げ捨て、着の身着のまま戦場より逃亡しようとする、ただの人間達の無様すぎる敗走だった。
その敗走の一番先頭を駆け走る騎兵の中に、トリトラン伯爵の白馬を見た老人は、溜息を吐いて単眼鏡を従士に投げ渡した。
計り知れないほど高価な単眼鏡は、老人が大事に持ち歩いていて、滅多に他人に触らせることなどない。
それを投げ渡された従士は、両手でしっかりと単眼鏡を受け取って、ハッとした表情で老人を見た。
白髪に白髭を蓄え、黒々とした戦衣装を纏った老人こそ、南部諸侯最高齢、バートン男爵、ヒュー・バートンだった。
爵位こそ低いが、もう長いことベルツァール南部のご意見番として国王にも名が通っている。
痩せぎすの長身の老人だが、未だに馬に跨るのを苦としない体力を持ち、今でもこうして戦場に立っている。
そのヒュー・バートンが、あのいつもの仕方がないなとでも言いたげな笑みを浮かべていた。
単眼鏡を投げ渡された従士だけでなく、後ろに控えた少数の騎兵と歩兵、そして弓兵たちもその意味を汲み取った。
ヒュー・バートンが領主となって後に産まれ、成人し、結婚し、三十路を超えて子までいる者の数を数えるには、両手両足では足りぬだろう。
領主らしからぬ清貧さと騎士道物語染みた性格は、その領民たちから見る領主の背中を大きく見せていた。
「トリトランの若造は戦下手も良い所だ……だが彼奴らに殺されていい男ではなかろう」
誰に言うでもなくヒュー・バートンがしわがれた声で呟くと、指示された訳でもないのに騎兵たちは従士たちから槍を受け取った。
この老人のすべきことならば心得ていると言わんばかりに、騎兵たちの表情は自信と決意と、覚悟に満ち溢れている。
そうした集団の先頭にあって、ヒュー・バートンはにこりと微笑み、歩兵と弓兵、そして従士たちを指差し、声を張り挙げて言った。
「騎乗しておらぬ者は足並み遅れ役立たず故、我が長子にして次期バートン家当主、リー・バートンの元へ馳せ参ぜよ!」
ざわつく歩兵と弓兵、そして従士たちを尻目に、ヒュー・バートンと騎兵達は馬に拍車をかける。
あんまりだ、そんなと、口々にヒュー・バートンの決断に声をあげる者がいたが、それも無視して彼らは小高い丘から駆け下りていく。
数にしてわずか四十足らずの騎兵は、揃いの黒の戦装束に身を包み、槍を掲げて馬を走らせる。
行く手には敗走するベルツァール南部諸侯連合の軍勢と、それを追い立てる波があった。
それは人の波であり、異様な熱狂と人間の暴力衝動が群体となってこの世に湧き出したかのようだった。
ヒュー・バートンですら、これほどまでの軍勢は見たことがない。
ある者は農具を持ち、ある者は槍を持ち、ある者は斧を持ち、揃いの戦装束もなしに私服のまま次々と逃げ送れた兵たちを虐殺していく。
南部諸侯が束になって戦おうとしても、長く権力闘争に明け暮れた者たちは戦を知らず、トリトラン伯爵などは無謀無策でこの有様だ。
だが、ここで見殺しにしてしまっては、南部諸侯の中核戦力であるトリトラン伯爵だけでなく、他の諸侯たちの撤退すら出来ぬだろう。
そのために、老いぼれと少しばかりの騎兵が捨て駒となって時間を稼ぐのは、悪いことではなかろう。
年若い頃を思い出しながら、ヒュー・バートンは騎兵突撃の先鋒を駆け走り、草原を横切って草地を踏み荒らしていく。
敵の数は数万、それに対して南部諸侯連合は根こそぎ掻き集めて一万に足りるか否か。
さて、この大差をいったい誰がひっくり返してくれるだろうか。
それを見れぬことだけが心残りだわいと、ヒュー・バートンは鬨の声を上げながら追撃に夢中になった敵の横腹に突入した。
大振りのサーベルを振りかぶって、碌な防具も着けぬ民兵どもをなで斬りにし、騎兵たちは槍で串刺しにし、騎馬によって踏み潰し、吹き飛ばし、粉砕した。
一瞬で恐慌状態に陥った民兵の壁を、黒の戦装束の騎兵は槍の切っ先と化したように貫き、暴れ回る。
しかし、その衝撃と畏怖は徐々に速度を失い、勢いを失うと敵中の只中に取り残され、孤立してしまう。
それでも十分に訓練された騎兵達は巧みに馬を操り、槍を失えばサーベルを抜き、稚拙な武力を振りかざす民兵達をなぎ払っていく。
時間は稼げただろうか、ここまで敵が動揺しているのならば脱出できるやもしれぬと、ヒュー・バートンが考えた矢先、
「ぬぅっ………!?」
ズパァンと、なにかが爆ぜたような音がした。
そして左肩がなにものかに無理矢理もぎ取られたような痛みが老人の身体を貫き、左腕の感覚が消えうせる。
ヒュー・バートンは左腕など見る必要などないと理解した。それは失われたのだ。
瞬間、騎兵だけでなく敵である民兵までもが静まり返り、動きを止めた。
鍬を持った男が居り、金槌をぶら下げた男が居り、中にはただの棒切れを持った少年の姿さえあった。
そうした雑多な民兵たちの波が、左右に割れた。
どくどくと左肩が脈動し、生暖かい液体が戦装束に染みていく感触だけがあった。
右腕にしっかりと握り締めた大振りのサーベルを握りなおし、ヒュー・バートンは波を割って現れた者に焦点を合わせる。
その者は炎龍の鱗のように濃い赤髪を棚引かせ、硝煙を燻らせる拳銃を片手に、ヒュー・バートンを見つめている。
赤髪とは正反対の、海原のように蒼い瞳だった。
乳白色の肌は磨かれた大理石のように美しく、色の薄い唇もあいまって作り物めいて見えた。
着込んだ服の色合いは地味だが、それらは民兵の服と違って仕立てもよく、汚れも少ない。
その者は女であった。
年頃というには若すぎ、幼いというには年を取っている。
難しい年頃だと言えば、その通りだろう。
どこかで見た覚えがある、とヒュー・バートンは思った。
彼女は撃ち終えた拳銃を隣に控える男に渡し、別の拳銃を受け取った。
そして気品すら漂う所作で撃鉄をあげ、銃口を向ける。
「……ほぉ、あのお嬢さんか……そうか、そうきよったか………」
銃口の先には、皺だらけの顔をくしゃっと苦笑で歪めたヒュー・バートンがいた。
炎龍の鱗のように濃い赤髪と、海原のように蒼い瞳、老人は記憶の中から二つの色を見つけ出し、これは困ったなと思った。
そう思うのと、引き金が引かれ、銃口から飛び出した鉛玉がヒュー・バートンの心臓を射抜いたのは、ほぼ同時だった。
主を失った騎兵たちは、目的は果たされたと信じ、武器を置いた。
だが彼らは武器を置いても、敵である民兵たちは武器を手にし、彼らに襲い掛かった。
騎馬の腹を突き、貫き、落馬した騎兵たちをひたすら殴って蹴飛ばして、それが動かなくなっても振り上げた拳を、振り上げた足を、振り下ろし続けた。
熱狂の波のただなかを、赤髪の女は静かに歩いていく。
率いる軍勢は誰もが彼女に敬意を抱いているようだった。
だが、彼女の隣に控えている男に関心を向ける者は、誰もいないのであった。
読者の応援が作者にとって最上の栄養剤になります。
感想、ツッコミ、キャラクター推しの報告、このキャラの描写を増やしてほしい増やせこの野郎などの声、心よりお待ちしております。
感想が増えても返信いたしますので、よろしくお願いいたします。