第58話「還れ」
沈む、沈んでいく。
身体ではない、身体という意識すらなくなって、オレは沈んでいく。
暗い、闇の中なのに、不思議と心地よく、不安もなにもない。
なにも見えず、なにも聞こえず、なにも感じないけれども。
けれども、なにも見ず聞かず、なにも感じないことが不思議と心地よい。
目と耳を塞ぎ、口すらつぐんで、なにも聞こえず、なにも聞かず、なにも見ない。
ただ、暗闇の中に包まれて、墜ちたいところまで墜ち続ける。
ずっとずっとそうしていたかったような、そんな考えさえ浮かんできた。
見たくない、知りたくない、自覚していたくない。
オレは生きて生きて、考えて生きたのに。
現実は、それは努力じゃないと、そう突きつけてきたっけか。
愛もなく、報われることなんかなくて、そうして、オレは死んだのだっけか。
じゃあ、そんな現実をオレが愛する必要が、いったいどこにある?
オレはやった。やってきた、やったはずなんだ、頑張っていたんだ。
それが、それが報われない、意味がないと言うのなら、現実など意味が、―――。
『ようこそ、ベルツァール王国北方の要衝、辺境伯領タウリカへ』
―――暗闇の中、聞こえたわけでもないのに、声がした。
右手の中指に嵌めた加護の指輪が、暗闇の中でぼんやりと光る。
指輪が光ったことで、オレが実際には目も耳も塞いでいないことが分かった。
ただ、オレは暗闇の中を墜ちている。
そんな中で、オレには聞こえないのに、声がする。
ルールーの声が、タウリカの住人たちの声や、青空教室や『彷徨い猫の囁き亭』での馬鹿騒ぎの声が。
加護の指輪をぼんやりと眺めながら、オレは思い出す。
ああ、だめじゃねえかよと、腰に下げた布袋をぎゅっと握り締める。
中身は丸くてつるつるしていて、磨いた石のような感触がある。
その石の表面には、文字が彫りこまれている。
ドワーフに古くから伝わる地底文字、ドワーフの還り石。
掘り込まれている文字は読めないけど、意味は間違えようがない。
『石を主のもとへ還せ』
ああ、そうだよ。
還さなきゃならない。
アイフェルに、この石を。
こんなオレでも家族だと言ってくれた、あの小さい背中を、安心させてやらなきゃならない。
魔法使いで世間知らずで、孤立しがちなあのルールー・オー・サームと。
故郷の山を失ってタウリカで蹄鉄屋なんてやってるアイフェルのところに。
オレは、還らなければならない。
タウリカに、オレの生きた場所に、オレの居場所に。
守りたいと思った日常がある、オレの始まりの場所に。
ああそうだよ、目と耳を塞ぎ、口すらつぐんで、だと?
ふざけるな、こいつは異世界ファンタジーだぞ。
目と耳を塞いで口すらつぐんだら、負けに決まってるじゃねえか。
オレは繋がりの暖かさがあって、この世界で生きてこれたんだ。
それが《贈り物》の代わりだと言われようが、そんなことはどうだっていい。
オレはオレの繋がりを否定しない。するわけがない。してやるもんか。
オレに能力がないなら、能力がある奴に頼み込んでやる。
力でどうにもならないなら、あるものすべてを使って策を生み出してやる。
考えて考えて、考えることを止めず、口にしているのなら、オレはきっと『無能』じゃない。
「ざ、っけんじゃねえぞ……!」
全身に纏わり付く心地よさが一転し、嫌悪感が湧き上がる。
認めるか、認めてやるものかと、オレは全力で後ろ向きな暗闇に背を向ける。
オレは死んだ、オレ自身はそこで一度、終わったんだ。
ならば、やり直せないという道理はない。
一度終わったのならば、二度目の始まりがあり、二度目の終わりがある。
その二度目の終わりに至るまで、オレには何度でもやり直せるチャンスがある。
それに、オレはやらなきゃならないことがあるんだ。
ルールーの飯作って洗濯して、アイフェルの蹄鉄屋で働かなきゃならない。
そして、アイフェルに還り石を、持ち主に石を返さなきゃならない。
「こん、のっ………!!」
加護の指輪が光り輝くと、暗闇が晴れた。
目に見え、耳に聞こえ、口が動いて声が出る。
現実に戻ったが、オレは身体に妙な感触を感じた。
ハッとして見れば、生暖かいものが身体を這い回っている。
すでに背中から腰とか足とかはすべてそれに覆われているようで、身動きしようにもできなかった。
少女の形ですらいない、不定形の化け物が、オレを取り込もうとしていやがる。
ただ、不思議と嫌悪感はなく、むしろ心地よいとすら思えた辺りが本気で気持ちが悪い。
真っ黒なスライムのようなものは、間違いなくさっきオレに囁きかけてたあのミレアとかで間違いない。
両手が塞がってるときに足を掴むなんて、人間にゃたしかに難しいかもしれないが、スライムなら問題ないってわけか。
「んふふぅ……ああ、やはりただの転生者じゃないんですねぇ? その仄暗い心地よさから目覚めるだなんてぇ……ああぁ、加護の指輪のお陰ですかねぇ?」
「ふざけんじゃねえぞ! オレはまだやることがあるんだ! まだ、なにもかも諦めてやれるくらい、なにかをやったわけでもねえんだよ!!」
「あはぁ、そのなにかをやって成功すると本気で思ってるんですかぁ?」
「やってみなきゃわかんねえだろうが!!」
思い切り右手を振りかぶり、腹から上に這い登ってくるスライム目掛けて、オレは自分自身に思い切り拳を叩き込む。
「うっ……!!」
自前の腹筋があるとはいえ、ルールーから貰った指輪が腹にごりっとめり込み、激痛が走る。
それでも這い登ってきているスライムの感触が下がっていったから、オレはもう一度右手を振りかぶり、腹に叩き込む。
自分でやってることなのに痛くて痛くて、じんわりと涙が出てくるのが最高に情けなくて、八つ当たり気味に何度も殴る。
痛みがじんわりとした熱に変わって、痺れるような鈍い痛みに変わるのにそこまで時間は掛からない。
何度も何度も、這い登ってくるスライムを追っ払うように、自分の身体に拳を叩き込み、離れやがれと叫ぶ。
動物が必死でもがいて抵抗するように、形振り構わず力任せに、拳を叩き込み、そして、―――。
「か、は………ぁ?」
背中に押し当てられていた硬い感触が、押し込まれた。
痛みは感じなかった。ただ、自分の左胸から真っ黒な剣のようなものが、生えている。
べったりと鮮血を付着させた剣を眺めていると、水などないのに息が苦しくなる。
息を吸おうとして、吸い込むことすら満足に出来ず、息を吸おうとして、吐く。
「ご、ふっ……ぁ、ぇ……?」
口から飛び出したのは、胃液でもなんでもなく、血だった。
そこでようやく身体は視覚から得た情報を確認して、身体の異常を正常に認識したらしい。
左胸を背中から一気に貫かれた激痛が、オレの脳髄を焼いて体中の神経を焼け焦がした。