第48話「化け物」
たとえば、熊に出会ったとする。
その熊は自分よりも少し離れたところにいて、こちらを伺っているようにじっと見つめている。
それは必然なわけでも仕組まれたわけでもなく、完全な偶発的遭遇だ。
逃げるか、逃げるか、逃げてしまおうか。
まず、自分だったらそう頭に浮かんでしまって、そこから、いや死んだフリとかかなと、思いつく。
どうしたって一般人のオレは、そうやって逃げることが頭に浮かぶのが当たり前なのだ。
当たり前のはずなのに、と、オレはなんの躊躇いもなく持ち上げた銃口を、いまだに下ろせないでいる。
下ろさないではなく、下ろせないのだ。
体が、頭が、きっと本能や身体に刻まれた記憶とやらが、オレにそうさせているに違いない。
「エアメル、こいつ……」
「言うな、髭なしよ。あっしもこいつはヤバイと思っておるんじゃ。他の連中もそうじゃろうて」
「シャアァァァ……」
リンや半獣人たちが武器を抜き、冒険者たちは矢を抜いて弓に掛け、オレも銃口を少女に向けていた。
少女から放たれるオーラというか雰囲気が、まるで獲物を見つけた捕食者のそれだ。
その対象がオレたちなのだと、少女の視線を受ける度に背筋がぞわぞわと粟立つのを感じる。
「健気ですねぇ……しかも新鮮で勇気もあるなんて、此方は皆さんの純粋な感情に体が波打つような感動を覚えちゃいますよぉ」
「タウリカ辺境伯は、……どうした?」
震えそうになる声を喉元で再構築しながら、オレはなんとか平静を装いながら言う。
自分でもびっくりするくらいに普通の声に聞こえたし、手足も震えずしっかりと立てている。
上出来だ。でも、上出来だからといって、相手の少女がそれを汲み取るわけもない。
少女はにたぁ、と笑みを浮かべ、その視線を彷徨わせる。
まるで品定めをしているような視線なのに、その目は虚ろでなにを見ているのか分からない。
真っ黒で、空虚で、吸い込まれそうな黒い瞳が半月状に細められる。
「タウリカ辺境伯、ですかぁ……? ああ、あの樽のような熊みたいな辛うじて人間な物体ですねぇ? あれなら今頃、此方の子たちと楽しく遊んでいるんじゃないですかねぇ?」
「そこの執事以外に、誰も殺してないだろうな」
「今のところ誰も死んでないんじゃないですかねぇ? ところで、此方は不思議に思ったのですよぉ……どうして此方が質問されているのですかねぇ、あなた、此方に質問できる程の人間なんですかぁ? それとも口の利き方を教わらなかったんですかねぇ? んふ、でもそんな減らず口も良いかもしれませんねぇ。そうでなければ、転生者など意味ありませんもんねぇ?」
にたにた笑いをしながら、その目はしっかりとオレに向けられていた。
分かるわけがない、転生者だからって見た目が特殊なわけでもないし、オレはなにより《贈り物》がない。
魔法も使えず、剣の才能だってない、おまけにあれだけ期待してきた樽砲を持ち込んでさえいない、ただの髭の無いドワーフなだけなのに。
それなのに少女の目はオレを見つめている。
ひっかけかと、オレは考える。発言者がオレだから、視線がこっちに来るのは当然だ。
だから、なにかものを言ってくるのはこのごたごたの当事者で、転生者のコウだと。
ちぃと、これは不味いかもしれん。
なにせ今回のごたごたの当事者かつ、冒険者達の契約元がバレたわけだ。
契約上、オレが死んだら支払い能力もなくなるので、冒険者達は逃げる、かもしれない。
そこは信用商売の信用ならないところで、逃げるかもしれないし逃げないかもしれない。
どっちにしろ、そんなのはオレが死んだ後の話なのでどうでもいいっちゃいいのだが。
問題はオレがコウであることがバレたなら、真っ先に殺される可能性が出てきたってことの方なわけで。
そしてそれを避けるためのブラフをかけるか、かけないかと悩む。
いや、それだけじゃない。さっきっから悩みまくりだ。
でも悩んでばかりいても仕方がない。
喉元でひっかかり、そのまま奥に引っ込みそうな言葉を引き摺り出す。
ここで黙り込んじまうのは格好がつかない。おまけに、相手から情報も引き出せない。
へらへらと質問をしまくって、答えるだけ答えてもらうほうがいいのだ。
「お前、なにを言ってるんだ。そんなのどうだっていいだろうが」
「あら、どうだっていいんですかぁ」
気に触るにたにた笑いが返ってくるが、オレは無視することにした。
「辺境伯を先に殺さないってことは、目的が他にあるってことだろう。そっちの方が重要だ」
「そうですねぇ、此方の目的はあんな熊みたいな人とは別のところにありますねぇ……それにしてもあなた、面白いですねぇ。こうやって此方から情報を聞き出している気分になっているんですねぇ、とても賢しくて愚かで健気で可愛らしいですよぉ……なので此方は特別に目的を教えちゃいますよぉ」
「なん、だと……?」
「此方の目的はですねぇ……」
よたよた、と千鳥足で何歩か歩いて、少女は笑った。
「うっ……!?」
その笑みの端は歪み、口角さえぐにゃりと曲がって壊れている。
笑ったことを破顔と言うが、これは違う。顔が壊れている。顔が破壊されている。
両目の高さや眉の高さはバラバラで、口は糸のように伸びきっていてぶちぶちと唇の皮膚が切れていた。
鼻はぶよぶよと気味の悪い水袋のように波打って、顎はぶくぶくと膨れ上がっている。
陶器で出来た人形のような美しさが、内側からなにかが蠢いてどんどんと壊れていく。
ぶちぶち、ぶくぶく、びりびりと、蠢く水っぽい音と皮膚が破ける音が耳に残る。
「あはっ、怖がってくれていいのですよぉ……だって此方の目的は―――」
ばりばりと、小さく細く白い脚が内側から引き裂かれて、なにかべちゃっとしたものが脚として生えた。
虫の足のように細長いそれは、千切れた皮膚を引き裂いて投げ捨て、膨らみ、そして分裂して脚の本数を増やした。
内側から膨らましたような醜い造形となった顔面が弾けたのは、その瞬間だった。
ぱんっ、という音と共に弾けた顔面からはタールの塊のようなものが噴き出して、すぐに収まった。
流れ出したどす黒い液体は顔へと逆流して収縮し、新しい顔を形成して、実体化する。
白い皮膚をあちこちにこびり付かせ、黒い襤褸を纏った四本足の化け物の顔は、醜い蛇。
「恐怖と、理不尽、そして死を撒き散らしながら、いっぱいいっぱい、殺して殺しまくることなのですからねぇ?」
―――少女の細い腕はそのままに、それは喋った。
二股に分かれた舌をちろちろと出しながら、少女のような声で喋った。
それは間違いなく、化け物だった。
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