幕間 巫女
長い銀髪をその華奢な指に絡ませながら、少女はにたぁ、と不気味に笑う。
まるで蝋人形の口端を無理に持ち上げたような、不自然で破綻した笑みだった。
少女の下で横たわっているのは、オーロシオ子爵の長子、スクルジオである。
彼はずっと囚われている。
身体的な意味ではなく、意識が彼にはもうない。
バンフレートの路地で彼はその意識を取り出され、それよりこの身体に彼の意識が戻ったことはない。
少女は笑みを浮かべたままその指先でそっと鍛え上げられた胸筋、そして腹筋を撫でていく。
まるで大事な玩具を愛でるような手つきで、少女は彼の身体の隅々を撫で回して弄り廻す。
少女は笑いながらとても楽しそうに指先を動かし、身体を揺らし、やりたいことを思う存分に楽しんでいる。
少女とスクルジオはなにも纏わず、オーロシオ子爵家の屋敷の一室で、天蓋付きのベッドの上でずっとそうして過ごしている。
いつものスクルジオならばありえないことだが、誰もそれを咎めるものはいなかった。
なにせ、スクルジオの目やオーロシオ子爵の目が、いつもよりも空虚で薄暗く、不気味なものになっていることにこの数ヶ月の間、誰も気付かないでいるのだから。
「んふふ……良いですねぇ、良いですねぇ………あなたの身体は此方のよりもずっとずっと固くて熱くて、しっかりしていて、とてもとても良いですねぇ……?」
「ぁ………ぁ……」
「んー? やっぱり此方の《加護》だと人形を作るくらいしかできませんかぁ……他の巫女たちはもっともっと激しい愛をぶつけあっているのにぃ……勿体ないですねぇ、こんなにもたくましくて雄々しいのにぃ」
乳白色の裸体を晒しながら少女が言葉を紡ぐ。
されど、スクルジオはその目をぼうっとどこかに向けたままで自分からなにかをしようとはしないでいる。
華奢で小さく、けれど抱き締めれば程よく柔らかく、蠱惑的な少女がそこにいることさえも認識していないかのように、その口からは呻き声のような音が時折鳴るだけだ。
顔も身体も体液も何もかもが愛おしかったのに、意識だけは手に入れられなかった。
その結果が、この抜け殻。ただの人形。意識の無い肉袋。
けれど、少女はそれでも満足している。
少女が持ちえる《加護》は限られていて、その限られた中でやりくりしなくてはならない。
すべてを露見せずに行うとなれば、手中に収めるのはスクルジオだけでは足りない。
いくつかを贄に捧げて数を減らしたものの、それでも少女が少女という外見を保持しながら、スクルジオと愛し合うことはどうしてもできない。
それには《加護》が足りないのだから。
「んふふ……でもこれも一つの愛ですよねぇ………?」
そう呟いて、少女はそっとスクルジオの唇を奪う。
無抵抗な舌に舌を絡ませて、唾液と唾液を混ぜあい、その身体をそっと抱き締める。
愚直で正義に染まった騎士気取りの貴族と、汚れ爛れ澱みに墜ち、もうすでに"人間ですらなくなっている"自分が交わっていることがより一層、少女を昂揚させる。
その昂揚が皮膚を波打たせ、少女の実像が揺らいでしまうが、それを見たとして、今のスクルジオが反応しないのは明らかだった。
「………不潔」
誰も反応しないはずだというのに、ぼそり、と暗闇から声が漏れる。
まるで中に骨などないような動きで、少女は暗闇に目を向け、口端をさらに持ち上げた。
それは人間の笑みではなかった。人間に似た、獣の笑みだ。
「んふふ……入ってくるならノックをしないとダメじゃないですかぁ、此方と愛しいしとは愛し合っているところでしたのにぃ」
「それを愛とは言わない。それで、なに、あれ? 役にも立たない人形ばかり増やして、《常闇の虚》は呆れてる。澱みの魔法使い――破砕のミレア」
「あなただってぇ、よくも分からない《黒炎》とやらにすべてを費やして時間を浪費しているじゃないですかぁ……澱みの巫女のエルシアさぁん?」
ぼぅ、っと暗闇の中に仄暗い色合いの炎が現れ、澱みの巫女のエルシアの姿を照らし出す。
白い絹の布を起伏の少ない体に巻き付け、血のように赤い瞳で彼女は少女、澱みの魔法使い――破砕のミレアを睨みつけている。
「私は《黒炎》にすべてを費やしているわけじゃない。生前の復讐を、人間たちすべてを焼いているだけ」
「んふふ……元貴族のお嬢様がそんな格好でぇ、そんなあぶなぁいことなんかしちゃってるなんてぇ………世も末ですねぇ?」
「元より、この世こそは調律の狂った世界だと《常闇の虚》は仰っていたじゃない。だから私たちのような澱みの巫女がいて、騎士たちがいて、そして《常闇の虚》がいる。今までが綺麗過ぎたから、今までが手放しすぎたから、今からは《澱み》が来たる、って。――ああ、近寄らないで、ミレア。不潔が伝染ると大変だから」
スクルジオから離れ、エルシアに近付こうとするミレアを彼女は手で制する。
その手には仄暗い色合いの炎が燃えており、おそらくはそれが《黒炎》なのだろう。
熱くもなく冷たくもなく、身を掻き毟りたくなるような怖気の走るその炎は、常人の持ち物ではない。
少女の皮を被ったミレアもそれには歩みを止め、蛇のように長い舌で自分の唇を舐めながら甘ったるい声で言った。
「あらぁ……残念ねぇ、あなたの影に隠れているもっと不潔な騎士さまのお相手がしたかったのにぃ」
「あなたとクーニグフトがそれをしたら、混ざり合ってどこまでがどっちなのか分からなくなるでしょう?」
「んふふ……よぉく分かってるのねぇ? こんなに綺麗な身体に綺麗なお顔をしてるのにぃ、あの騎士さまにはどんなことをしてるのかしらぁ? なにせぇ、当て馬にされて焼き殺された、ただの貴族の小娘だったあなたを救った騎士さまですものねぇ?」
地鳴りのような音が鳴るとともにエルシアの背後の暗闇が一つの像を成し始める。
黒く煤けた、竜の表皮のような形の甲冑に身を包んだそれが、獣のような唸り声をあげた。
甲冑はところどころが襤褸布で補修されており、そのどれもが汚濁が滲んでいる。
その騎士を見たミレアは恍惚とした表情を浮かべ、さらには顔面という形状すら取れなくなるほどになった。
「クーニグフト、出しゃばらないで」
が、エルシアが振り向きもせず呟くと、その騎士は再び暗闇に溶けていなくなってしまう。
ドロドロになった顔面を再構成して怒りの表情に変えたミレアは、しかしエルシアの言葉にその手を止める。
「《常闇の虚》が貴女に命じた」
怒りで顔面を沸き立たせるミレアを見ても、エルシアは表情を変えずに告げる。
「北の地、タウリカで騒ぎを起こせとのこと」
「タウリカぁ……? なんであんな王国の端で騒ぎなんか起こさなきゃならないのぉ?」
「同じく南部でもロウワラの獣が動いてる。私たちは北方諸王国。それと、ただの騒ぎじゃダメ。私たちのような《澱み》がやったと分かるような騒ぎを起こせと。《澱み》がおとぎ話ではないということを知らしめてやらなければならないと。その方法や手段に関してはあなたに任せるそうだから、そこの人形でも使って遊んでくればいいんじゃないかしら?」
軽蔑するような冷笑を浮かべてエルシアがそう言えば、彼女の手にする炎がその身体を包み込んでいく。
「それじゃ、不潔な魔法使い――」
炎はあっというまにエルシアの身体を包み込み、すべてを飲みつくして消える。
本当に消えたのではなく、どこかからなにかしらの方法で姿を現していただけなのだろう。
無論、ミレアもそのことを理解していたが、少女の見た目をしたこの魔法使いにとっては、それよりもエルシアが浮かべた最後の冷笑が尺に触ったようだった。
魔法使いはその夜、少女の姿をやめて久々にただ喰らい、ただ殺し、ただ楽しむことにした。
その夜、巫女と魔法使いの会話を知らぬ者が知りえたことは、
オーロシオ子爵の領地の農民の一家族がその日、五人全員どこかに消え去ってしまった、ということだけである。