幕間 王都の闇の中で
ベルツァール王国の首都、王都バンフレートは人間たちの都市国家の名残を大いに残している。
都市が大きくなる度に増築された城壁は木の年輪のようにも見え、もっとも古い城壁は雨風にさらされ老朽化が激しく半ば解体され、姿を残している部分にしても記念碑として王宮の一部と化しており、他のいくつかの城壁には貧民層のみすぼらしい住居がへばりついている。
増改築ごとに城壁の外へ貧民を追いやろうとしてきた人間たちの王は、いつしかその試みを止め、貧民は石と同じで無視していればいいと思うようになっていた。
故に、他の種族の都市などとは違い、ここバンフレートでは明確に『貧民街』と呼ばれる地区はない。
そのため、バンフレートは常に貧民問題に悩まされており、『火縄銃士組合』を含めていくつかの組合が自警団を組織し、夜に治安維持目的の見回りをする伝統が築かれた。
――と言えば聞こえはいいものの、その実体は治安維持の外部発注に他ならず、何度か組合の組織腐敗が原因で暴行事件や殺傷事件が起きている。
バンフレートの夜警が観光客らの間でしきりに話題になるのは、物珍しい存在であるからと、下手に関わると厄介事に巻き込まれるからという、二つの理由があるといわれるほどだ。
そんなバンフレートの一角、『火縄銃士組合』の扉を叩きながら、オーロシオ子爵家の長子、スクルジオは露骨に顔をしかめる。
貧民居住区からのすえた臭いが、あちこちに漂っている。
特徴的な銀の長髪を三つ編みに纏め、エルフのように整った顔と長身痩躯は社交界でも一目おかれている。
「はぁい、どちらさまー?」
鉄で補強された丈夫そうな扉をえいしょっと押し開けながら、黄色いドレスを着込んだ少女が顔を出す。
夕刻、まだ夜警に出るには早すぎる時間だからか、マスコットの少女が組合で遊んでいたのだろうとスクルジオは思ったが、すぐに愛想笑いができるほど器用でもなかった。無愛想な顔で彼は言った。
「オーロシオ子爵家、その長子のスクルジオだ。お嬢さん、組合長に取り次いでもらえるだろうか?」
「はぁい。義父さーん、オーロシオ子爵家ってところの、スクルジオさんだってー」
「んぇっ……!? ス、スクルジオ様!?」
なにやら空き瓶が割れる音や転がる音と、素っ頓狂な声が聞こえたものの、スクルジオは無視する。
火縄銃士組合の組合員は大抵が下級貴族か、あるいは貴族家の三男四男といった跡継ぎ候補から外れた者たちだ。
以前は趣味の狩猟に火縄銃などを用いていた長子などもいたそうだが、現在ではそういった人間はもういない。
どたどたと慌しい足音がし、扉が勢い良く引き下げられる。
そこにいたのは酒臭い、ぱっとしない中年の男だった。
年功序列で組合長になったような男だということをスクルジオも知っていたが、はっきりといって今すぐにでも名誉職について後進に組長を譲った方がいいような人材だ。
こいつが役に立ったところを見たことがない上、話だけはやたらと長い。
「これはこれは……今日はなんのご用件でしょうか?」
「単刀直入に言おう。新式の銃ができたと噂で耳にした。いくらになる」
「へ、あいや、あれはまだ取り扱いしておりませんでして……」
「できるのか? できないのか?」
「えぇ、あぁ、うぅん……本格的に生産はしてませんでして……」
「できるのか?」
「あぁ……」
「できないのか?」
「えぇ……」
「どっちなんだ?」
「えぇっと、そのう………」
単刀直入という言葉が理解できないのか、組合長はしどろもどろになっている。
こういう手合いがスクルジオは好きではない。べたべたと馴れ馴れしくする割に、実利が伴わない手合いが。
もともと、スクルジオの騎士然としたその性格は社交界でも受けが悪い。
ベルツァール王国の北部を治めていた大公殿下が御隠れになられ、ノールラント公爵家を初めとする北部諸侯たちはその発言力を日に日に増しており、オーロシオ子爵家もわざわざ王都バンフレートまで馬車を走らせ、社交界の催しなどに足を運ぶようになったが、スクルジオにとっては良い迷惑だった。
宮殿を遠目に見ながら料理を食い肥え太るよりも、騎馬を走らせ鎧を着込み、剣を帯びて属州ノヴゴールの治安維持に勤めていた方が世のためになるのは明らかだ。
そのためには、武具がいる。
オーロシオ子爵家、もといスクルジオの私兵たちは、彼の理念によって少数精鋭の重装騎兵として育て、鍛え上げられ、属州ノヴゴールでは半ば伝説と化している。
その伝説をさび付かせぬ為にも、スクルジオは優れた武具を探し、集めている。
それがこの無能のせいで妨害されるのは、腹が立った。
いつまでもわけのわからない相槌のようなものを吐き出す男を黙らせるため、スクルジオは咳払いをする。
男はすぐに黙った。最初からそうしていればいいのにと彼は思った。
「そのホイールロック式、そしてライフルという技術だが、拳銃にはできるのだろう」
「は、はい……ですがその、精度を出すには算術で計算したり、なんだりとありまして……、機構も複雑で火縄銃の三倍以上はしますし、なにより壊れ易いものでして………それに技術の権利関係に関してもしっかりと特許が取られていて、抜け穴がなく……」
「金は問題にしていないが」
「あー、いえ、そのぅ……権利関係さえなんとかなれば、もっとお安くできるんですがぁ」
「………お前では話にならんな。他の奴はいないのか?」
溜息を吐きながらスクルジオが組合長をねめつけると、組合長は肩をびくっと揺らして、
「しょ、少々お待ちください!」
と言って中に戻っていった。
最初からこうすればよかったのだとスクルジオは再度、溜息を吐く。
ただでさえ昨今のベルツァールは諸侯や貴族が治安維持を疎かにしつつあり、情勢もあまり芳しくない。
このままではダメなのだという確信がスクルジオにはあった。
たかが貴族の長子一人でどうにかできるなどとは思っていないが、やるべきなのであればやるしかないという覚悟も彼の胸には息づいている。
しばらくスクルジオが路上で組合長を待っていると、あちこちに転々としている貧困窟から出てきたのか、見るからに肉も筋肉もなさそうな華奢な身体の者たちが暗がりから路上にふらふらと出てきた。
盗人かとも思ったが、いくら学がないとはいえ夜警として良くも悪くも名高い『火縄銃士組合』の前で、そんな凶行に移るとは考えにくかった。
だから、スクルジオは自分がその貧民たちに囲まれていることに気付いたとき、彼は即座に左腰に差していた剣を抜いた。
「世の淵にても、常闇は我らを救い給う」
「世の淵にても、常闇は我らを救い給う」
「世の淵にても、常闇は我らを救い給う」
「世の淵にても、常闇は我らを救い給う」
「世の淵にても、常闇は我らを救い給う」
貧民たちの目は正気のように見える。
少なくとも熱狂的研究心を宿した魔法使いの目よりは、正気を保っているように見えた。
ただし彼らは口々に同じ祈りの言葉を呟きながら、スクルジオににじり寄り、詰め寄ってきている。
「組合長! 扉を開けろ!!」
貧民たちの波に向けて剣を向けながら、スクルジオは扉を左手で何度も殴りつける。
しかし、答えはない。
「組合長! 聞こえているのか!? っ……是非もないか!」
唖然とする暇もなく、スクルジオは舌打ちし、左肩から思い切り扉に身体を打ち付けた。
鉄で補強された丈夫そうな扉は、見ての通り頑強で、左肩が壊れるような勢いで身体を打ち付けてもびくともしない。
この騒ぎに気付いていないわけではないだろう、あの男がいくら無能とはいえ、そこまで鈍くなれる男ではないのだ。
故に、スクルジオは振り返り、貧民たちを睨みつける。
「この私を嵌めおったな……! オーロシオ子爵家長子、スクルジオを!」
彼が苦虫を噛み潰したような表情をしながら言えば、貧民の中から黒い外套に身を包んだ者が現れた。
他の貧民のように肉付きの悪い身体の線は外套越しにもよく分かるが、それよりも目に付いたのは腰のくびれだ。
男ではない、とスクルジオは思い、しかしその者がこちらに向けて手を伸ばしてくると、躊躇なくその腕を切り落とした。
剣は皮膚と肉を裂き、骨を砕いて腕を切り落とした。
蝋人形のように白く整った腕が石畳に転がる。
が、スクルジオは吐き気を覚えた。腕の一本や二本など見慣れているが、剣を握る手から感じた感触が、異様だった。
その感触はまるで、まるで人間ではなく、腐りきった死体を切り裂いたかのような、気味の悪いものだった。
しかし、アンデット特有の死臭や腐臭はしない。こいつらは人間のはずだと、スクルジオは剣を握る手に力を込める。
「――痛いじゃあないですかぁ」
くすくす、と笑いながら腕を切り落とされた黒い外套の者が鈴が鳴るような声で言う。
やはり女だったかとスクルジオは思ったが、それでなにか思い浮かぶわけでもない。
彼は、一片の血すらついていない、銀色に煌く剣を、その者に向けながら応えた。
「女、私は性別なぞで遠慮する愚か者ではないぞ」
「いやあ、それでこそですよぉ。此方はあなたのような人間を探していたのですからぁ……ふふ、昂ぶりますね昂ぶりますねぇ……あなたでしたらきっと良い信者になれますよぉ」
「そこの人形どのものようになれと言うか」
「いえぇ? 操り人形になっていただきたいのですよぉ……此方たち、《救身教》の、そして《澱みの信徒》としてぇ」
「っ……貧民を中心に出回っている異教か! いったいなにが目的だ!」
「んふふ、言うと思いますぅ? いやぁ、あなた此方の好みですから愛玩用途にも尽くしてもらいたいですねぇ……んふふ」
「貴様ぁっ……!!」
スクルジオは激昂し、叫びながら渾身の力を込めて剣を振り下ろす。
戦いなれた彼は適格に女の肩目掛けて剣を切り込ませるが、剣はまるで水か油を斬ったような感触を残して女の身体を通り抜けた。
踏み込み、今度こそ完全に唖然としながらも、スクルジオはその女を見つめ、剣を持つ手の震えをなんとか押さえようとする。
だが、無理だった。
冷や汗が噴き出し、手足が震える。
底知れぬ『なにか』を覗いてしまった、見てしまったのだという直感がスクルジオの意識を支配する。
そうした『なにか』に直面したとき、人間一人の力などないに等しいということを、スクルジオは知っている。
恐怖が壁となって、彼の心を押し殺していく。
女は切り裂かれた黒い外套の淵を手で弄び、白い肌を恥ずかしげもなく晒しながら、貧民たちの波の中に消えていった。
「世の淵にても、常闇は我らを救い給う」
「世の淵にても、常闇は我らを救い給う」
「世の淵にても、常闇は我らを救い給う」
「世の淵にても、常闇は我らを救い給う」
「世の淵にても、常闇は我らを救い給う」
貧民たちの波がスクルジオに迫っていく。
彼はそれを見ていることしか出来なかった。剣はもはや無力だった。
そして彼は、深く、墜ちていった。
羊水に浸かったような、そんな心地よい闇の中へと。