第145話「二四人目のエルフ」
地図を写し終える頃には日もすっかりと暮れており、村の人々は夕食を食べて寝入りについた後だった。
青年に礼を言って礼拝堂から出れば、静かな自分の領地が感じられる。寝ずの番の見張り三人、松明を傍らに柵の外と中を見張っていた。
寝ずの番に三人は村の規模からすればなかなかなものだが、伐採場が繁忙期を迎える竜眠季前、人手が手元にある頃なのだろう。
そう思いながら騎士の居城へと足を向けると、暗闇の中で金糸のようなきらめきが起こり、そこからすぅっと人影が現れた。一瞬、幽霊かと思って心臓が跳ね上がる。
「我が主」
悲鳴が喉元まで出かかった瞬間、その人影が声を出した。
なんてことはない、ザナの声だ。とはいえ、先の一瞬で感じた驚きと恐怖に跳ね上がった心臓が早鐘を打ち、足が震える。
そんな状態のオレを見て、ザナは不思議そうに眼を丸くした。
「我が主?」
「ちょっと待って、幽霊かと思ってびっくりして心臓がバクバクで足もガクガクだから……」
「ああ、申し訳ない。しかしエルフならこれくらいは容易いのだ。慣れてほしい」
「が、頑張る……。それで、声をかけたってことはなにかあったのか?」
「ドワーフたちがドングンの墓穴を見つけた。それくらいだ」
「さすが親方たちだな。あとは地図の写しを見せれば掘り始められそうだ」
写したばかりの地図を自慢げに掲げれば、ザナは不思議そうにこちらを見て、首を傾げる。
暗闇の中で金糸のような髪の毛が何本かはらりと揺らめいて、それが僅かにある松明の火や月光で煌めいていた。
エルフは美しい種族だと、書物は言う。この世において唯一完成された種族こそエルフであると。
ガルバストロは激務のせいか目つきが悪いのと、中身が転生者ということもあって直感的にそうとまで感じなかったが、こうしてザナというエルフを見ればさもありなんと言わざるを得ない。
「髭なしのドワーフは、ザナが見てきた他のドワーフとまるで違う」
そんなザナが、首を傾げながら言ってきた。真顔で。
まるでお前はドワーフの中ではなかなかに変人だぞと言われているようで、返す言葉に困る。
とりあえず苦笑しながら頭を掻き、いろいろと考えた末に、言った。
「転生者の山なしドワーフだからな。たぶん、それでだ」
「……なるほど。おかしなドワーフもたまに来ると面白い」
「それは誉め言葉なのか?」
「ザナは誉めているつもりだ」
「そっかぁ……?」
「そうだとも。ドワーフとは、エルフを前にすると口と耳を紡ぐものと言われている。そうじゃないのは珍しい」
頬を緩めながらザナは言い、頭巾を捲り顔を上げ、村の分だけ刳り貫かれた夜空を見上げた。
周囲を森に囲まれ山を背にしたモンパルプの村の夜空は、綺麗だ。肌寒く夜風は冷たいが、空気が澄んでいて星がよく見える。
そういえば、とオレは写した地図に書いてあったことを思い出した。モンパルプの記録、東部から逃れてきたエルフの一団。
ふっとザナを見れば、オレの視線の変化に気づいたのか、彼女は夜空からこちらへ向き直る。
「どうかしたか、我が主」
「モンパルプの記録を読んだ。東部から逃れてきたエルフの一団っていうのは、ザナを含んだエルフたちってことか?」
「そうだ。ザナを含めて二四人のエルフが東部の根拠地から伝手を頼り、この地に逃れた」
「二四人か」
「もうザナしかいない。みんな死んだ」
「……そうか」
「ザナはこの地に残る最後のエルフだ。でも、だからと言って気を遣うことはない。ザナとみんなは庇護を求め、庇護を受けた。オーロシオ子爵とモンパルプ勲功騎士は、代替わりしてもその誓いは守った。これは、容易いことではない。その恩義は裏切らない」
「ザナたちが誓約したのはウィリアム三世の時代だから……だいたい六十年くらいか」
「エルフにとっては、たったの六〇年だ。人間たちは死に、ドワーフは老いる。だがこの土地の人間たちはたった六〇年でも、契約を違えなかった。それは本来、もっと誇るべきことだ」
「オレもその人たちに並べるよう、頑張らないといけないな」
「……ザナは、エルフの言葉で奮起するドワーフを初めて見たかもしれない」
「その変人を見るような眼はやめてくれないかなぁ……」
苦笑しながらそう言いつつ、オレはモンパルプの村を見る。
小さい村だとやはり思う。領地は広く見えるが、そのほとんどは人の住んでいない森なのがこのモンパルプだ。
空を見れば、刳り貫かれた夜空に星が散りばめられている。月が青白く輝き、冷たい夜風が肌を撫で、木々の葉が揺れる音が囁く。
ここに来れてよかったと、心から思う。硝煙と地と泥の匂いから離れ、日常に戻ってこれたのだと実感できるこの新しい故郷に。
「―――良い土地だ」
オレが村と夜空を見てどう思ったかわかっているかのように、ザナはそよ風のように小さく言った。
夜の暗闇の中でその声は不思議と優しい音色のように響き、よく通った。
「ああ、良い土地だ」
「みんなも最後にはこの土地が好きになっていた。東の森が焼かれた時、ザナたちは安住の地を永遠に失ったのだと思ったが、思い違いだった」
いつもよりも饒舌なザナは、村と夜空を一瞥し、再度こちらに向き直る。
「人間やドワーフは滅びを唄うが、ザナたちはそうではない。なぜお前たちがそうなのか、森を焼かれ、ようやく理解できた気がする」
そう続け、一人のエルフは小さく礼をした。
彼女は現れた時のように暗闇の中に消えていき、夜風が静かに吹く。
嫌われているわけではないんだな、とオレは安心して、明日からまた仕事だと首を回し、関節が痛まない程度にゆっくりと居城に向かった。