第136話「常闇の虚」
ただの独りになったロウワラの獣は、ちっぽけだった。
もはや彼に力はなく、溜め込んだ肉も切断されぶちまけられ焼かれてすっかりと痩せ細り、哀れにぶるぶると震えていて、どうしようもないほどに人間だった。
真っ白で不健康そうな肌に、骨が透けて見えそうなほどに痩せ細っている。それでいてギョロギョロと落ち着きなく茶色い瞳を動かしているので、不気味だった。枯草のような黒髪は乾ききっている上にそれぞれが好き勝手に伸びまくった結果、陸に打ち上げられて干物になったワカメのような具合になっている。手足の爪は伸びっぱなしで、鉤爪のように曲がっていた。どこからどう見ても人間で、はっきり言って暴力沙汰にはまったく向いていなさそうだった。
とはいえ、こいつが澱みだということに変わりはない。オレは腰に下げた剣を抜き、サトルも右手に撃鉄を上げた拳銃を持ちながら近づく。
周囲はルールーがぶっぱなした頭のおかしい威力の魔法のせいでところどころガラス化した地面がきらきら光っていたが、ロウワラの獣の周囲はさらにウィクトリアの炎竜の炎によって焼かれたために全体的に焦げていて、煤だらけだった。肉の焼けた匂いが鼻腔に入り込み、次いで何とも言えない異臭が突き刺さる。人の肉は焼けても肉が焼けた匂いで済むが、毛髪はそうはいかないのだと思い出す。それは単に構成要素の問題で化学の話になってくるから、オレは思考を切り上げて剣の切っ先を男に向けた。
「初めましてってところだが、自己紹介するほど好感を持ってねえから名乗らねえ。ジュネーブ条約はここにはねえからな。獣は獣だ」
「僕も自己紹介をしたいとは思わない。時間も取りたくない。本来なら今ここで慈悲もなく殺しているところだ」
だが、とサトルは眼鏡を外してポケットの縁に引っ掛け、左手を俺の項を握りこむ。それがちょっとこそばゆくて変な声が出そうになったが、全力で耐えた。
「お前の頭の中身はすべて見せてもらう」
そうして、身体の感覚が、痛みが薄れて、意識だけが引き出されているような感覚がした。
まるでどこかにゆっくりと落ちていくような、それでいて揺蕩い留まっているかのような、そんな感覚の中、生暖かい暗闇がオレたちを包んで堕ちていく。
―――ぐるぐると渦巻く螺旋の奥底、闇の溜まった深淵の底に。
―――
ちりんちりんと、鈴が鳴っていた。
何かがおかしいと思って周囲を見渡せば、サトルがいた。オレたちは暗闇の中にぽつねんと浮かんでいて、顔があって、身体があって、手足があった。視線を前に戻せば、ロウワラの獣の奴がいる。暗闇の中で不気味にまで白い肌が光り、ぎょろぎょろとした目尻が下がる。唇はぐにゃりと歪み、けっけっけという乾いた吐息が漏れていた。その吐息が笑い声だということに気づいたときには、獣の肩越しに青白い光を灯したランタンが現れていた。
ちりんちりんと、鈴が鳴っている。ランタンの青白い光がぼうっと広がり、薄い青色の鈴を持った影が露になる。ぼろぼろの黒いヴェールと体に張り付いたようなドレス、蝋のような色合いの肌、スレンダーな体つきを惜しみなく見せながら、彼女はしっとりと赤い唇で微笑んでいる。まるで疲れ果てた旅人を労う慈母のように、まるで獲物が罠にかかったのを見た狩人のように。
ああ、これはヤバいやつだ。本能で分かる。洒落になってないヤツだ。こいつは出会ってはいけないヤツだ。
「輪廻を巡りこの世に行きついた魂。その旅路に敬意と慈愛を持って、わたくし、常闇の虚は無償の愛を与えましょう」
脳髄に染みわたるような甘い声が、頭の中に直接響く。びりびりと脳が痺れて震え、なにかが湧きたつような感覚がしたが、それ自体を自覚しただけで体中に怖気が走る。見えない触手が頭の中で這い回って、脳を優しく愛おし気に撫でまわしているような気味の悪い感触。脳にはそんな機能はないというのに、そんな疼きが頭の中で蠢いている。
けっけっけと、男の乾いた笑い声が響く。ちりんちりんと、鈴が鳴る。
「あら、おかしな繋がり方をしましたね、グラットン?」
ぴくり、とロウワラの獣の肩が動く。グラットンと呼ばれた男のけっけっけという笑い声は聞こえなくなり、酸欠の魚のように口をパクパクさせるだけだ。ぎょろぎょろとした目は自らの背後にいるその女を見ようとほぼ白目を向いていて、オレにある事を確信させる。あの女をヤバいと感じているのはオレたちだけではなくなった。人でなしの獣になった男でさえ、あの女をヤバいと思うのだ。オレの本能は狂ってなどいなかった。そんな今更過ぎることが、オレの正気を保ってくれている。
「あ、ぁぁ……あ、ああ、ぁ……」
「可哀そうなグラットン。また独りになってしまったのね。国中でたくさんのお友達を手に入れたのに、それをすべて失ってしまうなんて……可哀そうなグラットン」
「ぁぁぁ……あぁぁぁぁ……」
グラットンが振り返り、女のドレスに縋りつく。助けを求めているようにも見えるが、その目は助けを求めている人間のそれではない。人を利用しようとしている下種の目だ。力ある誰かに縋りつき、それを自分の力として振るおうとする下種の目だった。その表情を、その落ち窪んだぎょろりとした目を見て、オレは愕然とする。このグラットンと呼ばれる男は、安直で、惨めで、それでいて確実に力を得て、それを躊躇いなく自分の力として振るったのだろう。それが、その末路が、オレたちの目の前にいるこの男の姿なのだ。文字通り、他者を骨の髄まで利用しつくし、それを己の力だと躊躇いなく振るってきた男の末路がこれなのだ。
話はできそうにねえなと思う。いつだって、どこであっても、かっこいい主人公たちは戦いながら感情をぶつけあって話ができるが、これはそういう類のものではなさそうだった。話が通じないのだろうなと、その目で分かってしまう。体中から剥き出しにしている敵対心や攻撃衝動のようなものが、オレの肌にひしひしと伝わってくる。
「わたくしの寵愛はあなたを強く、為したいように為すための力を与えましたけれど、それでも、また独りになってしまったのですね?」
こいつ最大の間違いは、頼る相手を完璧に間違えてしまったということだろう。頼る相手が人間の範疇に収まらない場合、そしてその思考が人間の範疇ではないと思われる場合、そうした相手を頼ることはあまりにも危険すぎる。妖精や竜との契約が危険であるのは、彼らの考えが人間のそれに当てはめるには異質すぎるからであるが、そもそもそうした存在よりもさらに上位の存在は、人間や妖精や竜といった個体を持つ生命体とはまったく違う認識をする。
そして、オレが懸念している通りに、常闇の虚その赤い唇に柔らかな笑みを浮かべて告げる。
「何度も独りになってしまうのでしたら、わたくしたちと一緒になりましょう?」
「あ、ぁ……?」
きょとんとするグラットンに対して、オレたちは周囲の闇が形をなして蠢き、グラットンの周囲に集まっていくのが見えた。それは触手かなにかの集合体のように悍ましく、気味が悪く、そしてそれ一つ一つがミミズのように脈動しながら進んでいく。その先端は、手があった。掌に口のある手が、何十と、何百と、グラットン目掛けて進んでいく。
その存在にグラットンが気づいたときには、もうすでにその手たちが彼に飛び掛かっていた。声にもならない魂の断末魔があがり、無数の手がグラットンを貪り食っていく。骨までも粉砕しながら肉を貪った無数の手は、腹というべきかその身体を膨れさせて常闇の虚の中へと戻っていく。ドレスの裾の下からずりずりと無数の手が潜り込み、入り込み、それらすべてが常闇の虚に取り込まれる。グラットンのすべてもまた、その腹の中に収まったのだ。
満足そうに微笑む常闇の虚は、ちりんちりんと、鈴の音を響かせながら、こちらを見つめる。
「お初にお目にかかりますわ、輪廻を巡りこの世に行きついた魂―――転生者の方々。わたくしは常闇の虚、イドを愛する者、あなた方が澱みと言う存在すべての母」
かつんかつん、と足音を響かせながら、彼女はグラットンなどここに最初から存在しなかったかのように、にっこりと笑みを浮かべながら続ける。
「グラットンを倒した、神々の遺骸の祝福を受けた転生者の方々ですもの。ご安心ください、わたくしはあなた方を殺したりはしませんわ」
オレは剣を握りしめて、恐怖で引き攣る顔面を強張らせる。
これはマズい。マズいとしか言いようがない。この空間そのものが常闇の虚とやらの支配下にあり、オレたちはそこにグラットンを通して《侵食心神》で入り込んできてしまった。殺したりはしないと言いはしたが、それはただ殺さないというだけであって、オレたちの精神や魂だとか、あるいは五体や五臓六腑に至るまでの安全を完全には保証していない。こんな相手がこんな場所で殺さないと言っても、そんなのはまったくもって安心できない。
ここから逃げ出す方法はないかとサトルに目をやれば、彼は臆することなく拳銃を引き抜き、常闇の虚に銃口を向けていた。
「僕の意志ではここから出られないらしい。これもお前の力と言うわけか、常闇の虚」
「グラットンの記憶に繋がろうとあなたは試みたようですが、わたくしの眷属にそれをするとイドに繋がってしまうのですね。ご安心ください、グラットンを倒したその武功に免じて、わたくしはあなた方を精神においても魂においても傷つけることなく、しっかりと出して差し上げますわ」
「イドだと?」
「ええ、わたくしはイドを愛する者。この世の地獄の深淵にて堕落し死に腐れた者たちを愛する者、望むものを与え、求める者を救う、ただそれだけの存在」
「その者たちが暴虐と悪をなし、欲望のままに不幸と悲劇を振りまくとしてもか?」
「それがわたくしの愛故に。愛故に与え、愛故に助け、愛故に守り、愛故に耐え、愛故に乗っ取り、愛故に食らい、愛故に真実を語り、愛を囁き、愛を説く。それがわたくしなのですわ」
「ならば、僕らはお前の存在を消し去ってやるまでだ」
クスクスと彼女は笑う。何も知らない子供を傷つけないように、それでも笑いを抑えきれないような仕草で、彼女はオレたちを笑う。
オレもまた剣の切っ先を彼女に向け、両足でしっかりとこの闇の中に立ち、声が震えないようにと祈りながら声を張り上げる。
「それが澱みとお前らが広める救心教ってやつなら、その本拠地があるのは地獄ってことかよ!?」
こんな相手にも口先回して本拠地をポロらせようなんて考える自分自身を全力で呪いたくなるが、口走ってしまったもんはしかたがない。
今にも全身が震え出して膝から崩れ落ちそうになるのを気合で堪えながら、オレはその黒いヴェールの彼女を見る。目が合い、その赤い唇からちろりと舌が見えた。舌なめずりをされたのだ、と気が付いた瞬間、心臓を鷲掴みにされたような恐怖を感じた。心臓に感触はないというのに、胸が苦しく、痛み、息が浅くなる。
まるでそれを楽しんでいるかのように、常闇の虚は微笑みながら言葉を返す。
「いいえ、わたくしたちは穢れた地にして始まりの聖地、ノヴゴールの賢人墳墓におりますわ。聖王アルフレートがかつて魔王アズワードを滅した先にある最奥部、イドの底と呼ばれるそこにわたくしはおります」
あっさりと自分たちの居場所を吐いた彼女にオレたちが驚愕していると、彼女は続けて言った。
「あなた方がわたくしの破滅を願うのでしたら、どうかアルフレートがそうしたように、最善を尽くし全力を持っていらっしゃってください。歓迎いたしますわ、《神々の遺骸》をその身に宿した転生者さま方」
ちりんちりんと、鈴が鳴っていた。