第133話「怨嗟の終わりと報復の時間」
情けない肉片になってなお、ロウワラの獣は生きようとした。一つ一つの肉片がそれぞれ生きることを渇望し、こんなところで惨めに死ぬことを認めなかった。自分こそは転生者であり、認められ、愛され、称えられるべき存在であるはずだった。それがこんな惨めな形で、理不尽に、自分よりも劣った者に、数だけに頼るような連中に負けて死ぬなど、彼の魂が認められるわけがなかった。そんなことはあってはならない。そんな展開などあってはならない。殺さねばならない。貪り食わなければならない。死ぬわけにはいかない。なぜなら彼は、異世界転生者だからだ。
肉片が集まってまた新しい体を形作る。それはかつてどこかで食った冒険者の形で、大ぶりな剣も合わせて再現した。両目と神経がつながってようやく視界を得た彼は、新鮮な鼓膜が捉えた騒音がするほうに体を向けた。そこにいたのは、無慈悲に刃を振り下ろさんとする騎兵の姿だった。髭面の南部騎兵―――シモン・バドニーの顔には憤怒が浮かび、煌びやかな北部騎兵―――スクルジオの顔には侮蔑の表情が浮かんでいる。頭の頂点からサーベルで叩き割られ、胴体を戦斧で真っ二つにされ、彼は再びただの肉塊に戻ってしまった。
いかなる感覚も存在しない暗闇で彼は困惑する。なぜだ、なぜおれは負けなければならない。おれの邪魔をする者は殺し、貪ってきた。それがおれの糧となり、力となった。おれは強くなった。誰にも負けぬほど強くなった。死なぬように命を蓄え、死なぬように貪り食ってきた。やりたいことは望むままにやり、それを邪魔する者を殺せるだけの力を得たのだ。だというのに、なぜ、なぜおれはこんなにも追い詰められ、死のうとしているのだ。
彼は再び、新しい体を形作る。今度は屈強なドワーフの戦士、ロウワラで頭から食らってやったドワーフの王とその戦槌を形作る。がっしりとした手足に屈強な筋肉が編み込まれ、分厚い皮膚と髭が体中に張り合わされていく。両手に身の丈ほどの骨と血肉の戦槌を手にし、ロウワラの獣はロウワラの王として目を開き、そして見た。銀色のツインテールを微かに揺らしながら、少女にも見えるその女ドワーフは身の丈を超える戦槌を肩に担ぎ、歩いてくる。その瞳は見開かれ、口はなにかをぶつぶつと呟いている。まるでなにかに取りつかれたかのように、その女ドワーフはロウワラの獣の前にのこのことやってきた。
「………クひひヒ、馬鹿なドワーフめが。そんなに食われたいなら食ってやろう!!」
下卑た声をあげながら彼が叫び、びちゃびちゃとその左腕を肉の触手の集合体のように変化させ、その気味の悪い手を差し伸べる。
だが、女ドワーフは身じろぎすらしない。瞬きすらしない。じっと見開いた瞳で獣を見つめ、そして素早く手首を回して戦槌を一回転させると、左手を添えてそのまま大上段から振り下ろす。質量と運動こそは正義だと証明された。頭どころか、その一撃は腰までを見事に粉砕して獣の感覚すべてを再び消し飛ばした。鼓膜すらも叩き割られた獣に、女ドワーフ―――アイフェルの言葉は届かない。
ロウワラの獣が形作ったそのドワーフの戦士、ロウワラのドワーフ王とは、アイフェルの父であるドグヌールに他ならなかった。それを理解した瞬間、アイフェルは頭のどこかが爆ぜ、心の中のなにかがぷつんと切れてしまった。彼女は怨嗟とも憤怒とも無縁な、感情の濁流を超えた先にある静寂の中で、ただただ確信した。ふざけた野郎である。殺さねばならない、と。
そして彼女は、彼を殺した。我が父を殺し貪り食い、その栄光と名声と誉に泥を塗り、ロウワラのドワーフたち皆に苦難と屈辱を与えた化物を殺してやった。こやつがいまだに人間であったころを、少し前までは覚えていた。しかし今となっては、もはやそんな記憶は存在しない。ここにいるのは獣であって、人間に非ず。これは異世界転生という便利な代物が吐き出した不純物、その欲に溺れた末路が掃き溜めに転がり落ちた姿。哀れとすら思う必要のない、ただただ救い難い罪の寄せ集めだ。
「我が王、我が父は……このような俗物に殺されたのか。なぜだ、どうして……父は……わたしの、パパは………」
ドスンと戦槌がその手から滑り落ち、地面にめり込む。静かな呟きは泣き声に変わり、アイフェルは膝をついて両手で顔を覆った。
放っておいたらそのままその場で動かないであろうアイフェルと戦槌を、ドワーフたちが担ぎ上げて立ち去っていく。ドワーフの怨嗟は果たされたのだ。それがどれほど虚しく、救いがなくとも。怨嗟は果たされたのだから、ドワーフは祝杯を挙げるだろう。浴びるほどに飲み、真っ赤になって酔いつぶれ、嫌なことを綺麗に忘れ去るために。
「おいテメエ、親方を泣かせやがったな?」
そうして、片足を引きずりながら一人のドワーフがゆっくりとやって来た。
左手で杖をつき、右手に火縄銃を持ちながら、彼は眉間に皺を寄せてまた新しい体を形作ろうとしている肉塊に向けて銃口を向ける。火蓋は開いている。火縄もきっちり火が灯っている。黒色火薬も、鉛玉も、きっちりと装填されていることを確認済みだ。剣でも魔法でもないが、この銃がどれほどの威力を持つのかも十分に彼は知っている。
人の骨格が組みあがり、筋肉が編み上げられ、目玉が眼窩に嵌ってぎょろりとこちらを見る。それでも髭なしドワーフは後ずさりもせず、ただじっとその目を見つめ返して引き金に力を込め、人でなしの獣に言い放った。
「恨むならテメエの倫理観のなさでも恨みやがれ、ゲロ野郎」
引き金を引く。火縄が火皿の黒色火薬に押し込まれ、白煙と火花をあげながら激しく燃焼し、重々しい銃声が響き、純鉛の弾丸が獣の身体を貫いて骨格を、筋肉を、仕込みあげられつつあった神経をズタズタに引き裂いて背中に穴を穿ち、地面にそれらがぶちまけられる。それでもなお新しい体を形作ろうとする肉塊を前にして、髭なしドワーフは硝煙を棚引かせる火縄銃を背後の火縄銃士に手渡し、彼から装填済みの火縄銃を受け取り、火蓋を切りながらぼつりと呟く。
「気が変わったぜ。お話合いの前にお仕置きの時間だ、この人肉スライム野郎」
その言葉は、まだ鼓膜を張り終えていない獣には聞こえなかった。