第125話「ドワーフの怨恨とちっぽけな勇者」
腐敗と死と闇の軍勢がミヌエに通ずる道を、ゆっくりと行軍している。
汚泥か、あるいはタールに塗れたようなかろうじて人の形を成しえているモノどもが、ゆらりゆらりとこちらに向かっている。
この世の終わりを言い伝える聖なる書でさえ、このような終わり方を予言することはできなかったということだろうか。
一番巨大な影はまるで蜘蛛とサソリが合わさって、全身に腫瘍ができたようなグロテスクなものであった。
ゆらゆらとまるで夢遊病かのように八本の細長い足を忙しなく動かし、巨大な尻尾を天に向けてぴんと伸ばし、黒々とした両腕をしきりに地面に叩きつけている。
闇の軍勢は人馬が混じり合ったものであるとか、人と人を適当に継ぎはぎしたようなものや、面妖な肉塊までさまざまだった。
しかし、遠くにあるその軍勢を遠眼鏡で見る者は誰もいない。
肉眼で目を凝らすだけでも、その冒涜的な姿は分かってしまうものなのだ。
あらゆる生きる者に対しての冒涜、そんな恐ろしくも憐れな姿は。
二つの騎士修道会の軍勢の先頭にあって、騎士団長ジークムント・フォン・カタリアは恐怖よりも憐れみを覚えた。
あのような姿をした醜い存在は、どれほどの業と罪を抱えているのかと、彼は考えずにはいられなかったからだ。
剣を持つ者は剣によって死す、敬虔な信徒であるからこそ、それでも剣を取り信仰の護り手として生きてきた彼には、死を前にして覚える恐怖などもはや存在しなかったのだ。
彼はもごもごと髭に半ば覆われた口を動かして、歌う。
教会に伝わる讃美歌を、聖なる歌を、厳かにして信仰を紡ぐ言葉を。
地響きすら感じ取れそうなほどの黒い軍勢を前に、騎士たちは歌う。
職業軍人ではない徴集された兵たちの動揺をよそに、信仰のために誓いを立て、節操を守り、独身であることを選んだ者たちが歌う。
剣を鞘に納めて盾を地面に突き立て、それぞれが持つ十字架を手にしながら、この世の終わりのような軍勢を前にして歌う。
まだ七つの封印は解かれず、四人の騎士は現れず、この世の終わりを知らせる七つラッパは鳴らず。
なれば、これは黙示録にあらず。
眼前にあるのは試練であって、我らの終わりではない。
この軍勢は信仰の果てにある黙示録ではなく、試練なのだ。
なれば、我らの信仰は試練を乗り越えるであろう。
なればこそに、謡うのだ。―――このような黙示録ではなく、試練を与えたもう存在に。
ならばこそに、願うのだ。―――我ら剣に生き剣に死ぬ運命に、栄えある最期をと。
―――畏み申す、王妃、憐れみの母よ
我らの命、喜び、希望の母よ
王の子らはこの旅路からあなたに叫ぶ
嘆き苦しみながら涙の谷にあなたを慕おう
我らのために執り成す母よ
憐れみの目を我らに注ぎ
いと尊きあなたの王の道を
旅路の果てに示したもう
おお、賢明な母
おお、慈悲深き王妃
希望の聖女よ
三〇〇〇名近い騎士たちの歌声が、低く厳かに響き渡る。
信仰心を持つ男たちの歌声が、目の前にある具現化した闇を前にして祈りを紡ぐ。
聖王アルフレートの王妃、‶癒し手〟メルリを歌う讃美歌だ。
白魔法使いの始祖にして原初、そしてベルツァールにおいて魔法使いが排斥されなかった理由の一つ。
魔法使いでありながら諸種族との宥和を掲げ、ベルツァール統一運動においてアルフレートと並ぶ功績を挙げた聖女。
あらゆる邪な呪術を無効化し、毒や病を遠ざけ、傷を癒し心を清らかにする、慈悲と賢明と希望の象徴。
そしてその歌声に感化された、というよりも、感化されやすい種族どものドラ声が響き始める。
戦列の左翼に展開するヴァーバリア砲兵連隊、五〇〇人のドワーフたちとその主、連隊長ローザリンデ・ユンガーだ。
彼らの扱う百二十ミリ砲は優秀で、今までの戦いでその有効性と火力を存分に発揮してきていた。
砲の重さはおよそ六三〇キロほどで、車輪付き砲架を付けると一二〇〇キロほどになるらしい。
一個の砲あたりの砲員は最低でも四人で、四キロの榴弾、丸砲弾、葡萄弾をそれぞれ使用できる。
有効射程は仰角五度で一四八〇メートル。それ以上の長距離はより大型の砲が必要になる。
ローザリンデの率いるドワーフの砲兵たちは、二輪台車を二つ連結させた補給馬車をラバに曳かせている。
その馬車を操るドワーフも声をあげて、ドラ声を低く三叉路に響かせているのだ。
ヴァーバリアのドワーフたちの中には、ロウワラの惨劇を生き延びた者もいた。
「我はロウワラのバジンの息子、ギンリなり!!」
「我こそはロウワラのドムリの息子、ジムリである!!」
そして歌う。郷土の山と家族と、そして四千年経ても薄れぬ怨恨と、ドワーフの矜持を持つ歌を。
―――干潟を抜け かの山を見よ
ドグヌールの山 暗い輝きのロウワラを
地の底へ潜り 知の頂へ至れ
我ら青光る魔の銀を探求せり
我らは潜らねばならぬ
ドグヌールの山 暗い輝きのロウワラへ
我らの怨恨は果たさねばならぬ
ドグヌールの山 暗い輝きのロウワラで
我ら決して忘れじ
我ら決して許さじ
山に誓い 一族に誓い 我らに誓い
怨恨は果たさねばならぬ
仲間の悲鳴を聞き
鍛冶場が燃えるのを見たならば
果たさねばならぬ 我らの仇を
干潟を抜け かの山を見よ
我らは坑道に滅びの音を聞き
死が降り積もるのを見ていた
ドグヌールの山 暗い輝きのロウワラで
槌音の鳴らぬ山を見よ
二万の帰らぬ我らの御魂を悼め
虚ろな冠と玉座は誰がものか
死は無口なれど怨恨は多弁なり
我ら決して忘れじ
我ら決して許さじ
山に誓い 一族に誓い 我らに誓い
ロウワラの獣を討たねばならぬ
断じて 断じて 断じて
我らは怨恨を果たさねばならぬ
それはドワーフの一族が、山ごとに持つ郷土歌の替え歌だった。
山が滅びた時、その怨恨は生き残りだけのものではなく、繋がりのある山々のものとなる。
怨恨はより深く、より重く、より尊く彼らの胸に刻み込まれる。
「「「「ヴァーバリアの黄鉄山、牙砕のベルニーヌ王はロウワラを忘れじ!!」」」」
轟々とドワーフの雄叫びが木霊する。
火薬を詰め、弾を詰め、砲門を向け、武器を掲げる。
その傍らにいるのは、連隊長ローザリンデ・ユンガー。
彼らの轟きに呼応するように、ベルツァールの兵たちも鬨の声を上げた。
恐怖を払拭するための行為、この声にはそういう効果があるのだと自覚していても、その場に歩いてやって来た髭なしドワーフのコウは体が震えるのを抑えられなかった。
これが武者震いかと、驚くしかなかった。
けれども次に響いた声に比べれば、その驚きは些末なものであった。
「我は錬金のドグヌール王が娘、ロウワラのアイフェル!!」
その名前にハッとしてコウが視線を向ければ、身の丈を超える金槌を傍らに、よく知るアイフェルがいた。
コウにとっての姉貴分その二で、仕事場の親方で、家族も同然な女ドワーフ。
その彼女が、ツインテールを風になびかせ、ヴァーバリアのドワーフたちに叫んでいる。
「父の形見、この戦槌に誓って牙砕のベルニーヌ王に感謝を申し上げる! 闇が山肌を覆うとも共に怨恨を果たそう!!」
「姫の決意は我らが決意! ジムリと共にこのギンリ、闇に終わるなら皆共に呑まれようぞ!!」
「「「「我ら決して背は見せじ!!」」」」
暑苦しいを越してドワーフたちは闘士を溶岩のように滾らせ、唾を吐き散らしながらウォークライを上げる。
そんな中でただ一人、ポカーン、とアホ面を晒しているなんとも冴えない、髭すら生えていない青二才のドワーフがいた。
他でもないコウである。そんな様子のコウの傍らに、隻腕の貴公子たるスクルジオが苦笑しながらやって来た。
「その顔はどうしたのだ。まさかアイフェル女史がロウワラ王ドグヌールの娘だと知らなかったのか?」
「そんなん知らんかった……」
「私はてっきりすべて知ったうえで、彼女を頼って来たのかと思っていたぞ。ドグヌール王の五人の子の中で、惨劇から唯一生き残ったのだからな」
「もしかしてオレの評価の一因にアイフェルの存在があったとか……?」
「当然だ。……そのアホ面に嘘はなさそうだな。どうやら我が左腕は、知らずの内にドワーフの王族に取り入っていたらしい」
「マジでそんなん知らんかった……」
身近にも謎というものは転がっているものだなぁ、と独り言ちながら、髭なしのドワーフは杖を突きながら前へ前へと歩いていく。
まるで老人のようなその足並みは決して褒められるような姿ではなかったが、それでも、こんな時であっても彼は前へ進むことを選ぶのだとスクルジオは口元を緩める。
「スクルジオ、一緒に行かないのか?」
「行くに決まっている。お前が行くのなら、どこへでも」
冒涜的な恐怖の軍勢を前に、まるで散歩でもするかのように前へ進むような者は、いつの世であっても‶勇者〟と呼ばれるに値するのだ。
人生で初めての無職期間に入ったので初投稿です。