第122話「命令は簡潔に」
ミヌエは、湖に面した人口三〇〇人程度の小さな村だった。
その湖に名前はなかったが、ミヌエはその湖の御蔭で細々とながら生活を営んでいた。
交易路から外れた村であっても、人がいて家族がいて、数百のそれぞれの生活があった。
そして、ルールー・オー・サームはその痕跡がもはや存在しない、と断言した。
南部諸侯付きの魔法使いたちから魔力を貰い、観測術式を展開した彼女はそれどころか、ミヌエの湖とその周辺には生物の気配すらないと言った。
そこにあるのは黒く汚らわしい≪澱み≫の気配だけであり、その惨劇の痕跡は轍のように一直線にある場所に通じている、と。
「だが、ルールー・オー・サーム、……貴殿はジョナサン・ロッカールが………≪澱み≫の信徒、だと?」
「現状を鑑みるに、そう考えるしかありません。≪澱み≫に堕ちたのがミヌエだけではないのは確かです」
「……ロッカールにあてた伝令のミヒャエル・ゾロターンがまだ帰還していないと、ケール城塞に確認が取れました」
「カリム城伯、それは本当か?」
「確かです、ローベック・トリトラン。ミヒャエル・ゾロターンは私の従弟で信頼できる男でした」
ルールー・オー・サームが≪澱み≫の大軍を感知し、それを南部諸侯たちに伝えると、場は騒然とし始める。
ローベック・トリトランは額に冷や汗を浮かべて、さきほどケール城塞からの連絡を受けたばかりのカリム城伯から目を背けた。
信頼できる血族を知らぬとはいえ敵地に送り、そしてその帰還が絶望的であると知ったカリム城伯の心境は、彼の落ち着き払った表情からは読み取れない。
「リンド連合との停戦協定中だぞ……!? ここで≪澱み≫が襲って来てみろ、まるで我らが手引きしてリンド連合とマルマラ帝国をハメたようはないか!!」
「落ち着いてください、トリトラン伯爵。もしかすると≪澱み≫の狙いはそこかもしれません。リンド連合と南部諸侯を争わせ、ベルツァール王国内部にに誘引したところで襲い掛かる。そして―――」
「そしてベルツァール王国は、生贄となって異端の烙印を押され、マルマラ帝国に蹂躙される、と」
「その通りです、カリム城伯」
「そんなことになれば王国は、どう転んでも不安定化するだけではないか……!!」
ルールー・オー・サームとカリム城伯の言葉に、トリトランは激昂する。
マルマラ帝国による支配、あるいは傀儡王朝、あるいは再独立、あるいは自治区。
そのどれもが、ベルツァールという地域そのものの不安定化につながっている。
―――そう、すべての道筋がその一点で繋がっている。
いくつにも分かれているはずの未来への道筋が、その一点だけ同じ地点を通るのだ。
数々の種族が住みつく地、それゆえに統治の難しい地でもあるベルツァールの不安定化と、―――崩壊。
「いや、そうか、そういうことなのか?」
王国が不安定になればこそ≪澱み≫の、奴らの隠れ蓑の≪救身教≫はその信徒を増やしていくだろう。
教会ではなく真に貧困と向き合い、手を差し伸べる者たちとして、異端と断じられてなお、あの邪教は人々に広まっていく。
なぜなら貧困は、根本的な問題として、心のみによって救われることなどないからだ。
彼らが必要としているのは、誰かの慈愛と慈悲、そして庇護である。
王が与えられなかったその庇護を、その不安定な時代において信仰という皮を被り≪澱み≫は与えるだろう。
誰もが愛し愛される世界、そしてその愛を否定する者たちに対する、同化と殺戮をもたらして。
「それならば、すべてに説明がつく」
一見、すべてが突発的で繋がりのない≪澱み≫の登場に目的を見出すならば。
だがそれは的が大きすぎるが故の、児戯感覚で放った矢の一本だったのではないか。
ローベック・トリトランは天啓を受けたような気分になると同時に、地面に叩きつけられたような深い絶望を味わった。
どれだけ自分が、そしてこの諸侯たちの視野が狭かったことか。
たかだか邪教の跋扈、おとぎ話の悪者役たる≪澱み≫の噂話。
そう思えていたのはニルベーヌ・ガルバストロを始めとする宮廷の情報統制と、≪澱み≫の最終目的が不明だったからでしかないのだろう。
今、こうして各地の諸侯がこのヴァレスにいる中で、≪澱み≫や≪救身教≫の話をまとめてみるがいい。
数にしては少なくないが、気にするほどでもないと思っていたことが、王国全土で均等に発生しているのだ。
王国全土でその数を合計した時、思ったよりも多いな、と葡萄酒を口にしながら胸の内で呟くほどに。
そのすべてを管理し、情報を取り締まっているニルベーヌを問い詰めてみればいい。
≪救身教≫の貧困層への浸透だけでなく、家畜の盗難事件やあちこちの領地で起きる行方不明事件が増加傾向にあるに違いない。
なぜならば、自身も操られ片腕を失い、少なくない犠牲を払ったオーロシオ子爵スクルジオがそう語っていたのだから。
「………このタイミングを≪澱み≫が狙い、我々を一網打尽にするつもりだったとしたら?」
「だとしたら、我らにできることはただ一つ。死ぬまで足掻き、三国の者どもに我らが生きざまと死にざまを見せつける他にあるまい」
馬に乗り駆けてきたスクルジオが、ローベック・トリトランの言葉を遮るように言う。
隻腕の騎手は一寸の疑念も困惑も写さない、まるで宝石のような瞳がトリトランを、そしてカリム城伯を、ルールー・オー・サームを見つめている。
ざっくばらんに切られた銀髪さえ様になっているスクルジオは、揺るぎない覚悟を持ってローベック・トリトランに言葉を向けた。
「ローベック・トリトラン。我らベルツァール王国諸侯は国王と諸侯間の契約により、王冠とその持ち主に忠誠を誓った者たちの末裔だ。高貴なる玉座に汚泥を投げかける者あれば、我らはその高貴さと高潔さを王に代わって真っ先に示さねばなるまい」
「だが……、それで帝国は納得すると思うか?」
「納得させるには死ぬ覚悟を持って戦うしかない。我が左腕、あの髭なしのドワーフはもう出陣を決めた。ロンスン・ヴォーンも戦列に立つ」
「パラディン伯までもがか!?」
「時間さえ稼げれば良いのだ。ゼノポリス大主教、ミトリダテスの口から魔法使いたちの楔を解くと言わせるために」
「なぜだ、そこでどうしてミトリダテスが出てくるのだ? 奴は、あの髭なしのドワーフはなにを考えている?!」
「なに、容易いことだトリトラン卿。我らに出来うることはただ一つだ」
隻腕の騎手は言う。
「我らは≪澱み≫が王国の敵であると骨肉を持って示すのだ。死ぬまで足掻き、三国の者どもに我らが生きざまと死にざまを見せつける」
「ベルツァールが決死の覚悟で抵抗し、出血をもって帝国に忠誠を示すというのか!?」
「違う。我々は王国の敵に対して、我ら自身の契約に従い各々の忠誠を示すだけだ。帝国に忠誠を誓うわけではない。我々は我々の王国に忠誠を誓っている」
「………それで、あやつは、コウはなんと命令を下した?」
剣の柄に手を添えながら、スクルジオは朗らかに笑いながら告げた。
「兵をかき集めろ。時間が要る。死ぬまで戦え。オレがなんとかする。―――それだけだ!」
どうやらこのスクルジオは、死んで来いと言われてよほど嬉しかったようだとトリトランは額を抑える。
とはいえ、どれほど考えに考えたところで、妙案や良案が浮かぶわけではないというのをトリトランは知っている。
自分は父と違ってそれほど能力が秀でているわけではないのだ。
今、ローベック・トリトランに出来ること。
それはとても簡単で、覚悟さえあれば誰にでも出来ることだ。
兵をかき集め、時間を稼ぎ、死ぬまで戦う。
―――髭なしドワーフがなんとかする。