第119話「血の降誕祭」
記憶が走馬灯のように流れ去っていく。
氷のように冷たい監獄、罪人の証として焼き印を刻まれる瞬間の肉の焼ける痛み、革命のための準備が進む。
雪が降り積もる公国中で革命の炎は静かに音もなく広がっていき、その拡大はいくら弾圧しようとも抑えることが出来なくなっていた。
そうして生れたのがサトルを中心とした≪革命評議会≫と、≪南部結社≫≪北部結社≫という組織だった。
≪南部結社≫≪北部結社≫は名こそ結社というがその実情は準軍事組織であり、武装蜂起の際には各地の教会の鐘楼に一斉に篝火が灯る手はずとなった。
教会に所属する者たちもまた、大司教の言葉を受けて秘密裏に武装を始めた。
「天の定めし自由のための死ならば、剣を持ち剣により死ぬことこそは、殉教でありましょう」
武装蜂起の準備は年単位がかかると見込まれ、武器の生産に必要な鉄を確保するのには危険が伴った。
こちら側についた貴族の中には鉄の確保に奔走していたところを野盗に襲われ惨殺される者も出たが、その野盗がフロリアンの私兵だということは誰もが確信していた。
幾多もの熱情と、その熱情に反するほどに緻密な革命の計画が、記憶の濁流となって流れて行った。
そして、その情景が現れた。
肌が焼けそうなほどに熱い洞穴の奥、金や銀で彩られた巨大な台座の上に丸まる、赤い竜。
その竜こそは魔法国家≪レグス・マグナ≫の侵略を初代リンドブルム公と共に退けた、炎竜バルザック。
分厚い鱗は身じろぎすると鎖帷子のような音を上げ、吐息はちりちりと火花が混じる。
巨大な爪は白亜のように白く艶やかだが、その爪の一撃を受ければ人間などひとたまりもないだろう。
炎竜バルザックはじろりと、胡乱気に来訪者を眺めている。
「……なにかな、シャルル」
「私はフロリアンです。バルザック」
「………そうだった。シャルルはチフスで死んだんだった。四〇年前に」
「六五年前です」
「……………人は儚いな、フロリアン」
「そうかもしれませんな」
まるでボケた老人とその息子のような会話だが、そうではない。
フロリアンが後ろ手に名状しがたき形状の禍々しい短剣を握っている。
捩じり狂い曲がりくねり、しかし剣と形容できる鋭さを感じさせるその短剣は、おそらくは見てはいけない類のものだ。
生理的に直感的に、オレと記憶の保持者は吐き気を覚える。
その短剣を見ているとぐにゃりと視界と思考そのものがねじ曲がっていく気がして、頭がおかしくなりそうだった。
だがオレと記憶の保持者はそれに耐え、次に起こった情景を見ることができた。
フロリアンが短剣の切っ先をバルザックに向け、身の毛がよだつ冒涜的な呪文を唱える。
硬質的な光を帯びているにもかかわらず、その短剣はまるで触手のように蠢き、わなわなと刀身が自らの意思を持っているかのように震える。
ぎろり、とバルザックの碧い瞳が鋭く細められ、全身の骨が振動するほどの咆哮が上がるのと、短剣が生物のようにバルザックに襲いかかったのはほぼ同時だった。
―――べちゃり べちゃり
生物のように身をよじって、短剣の刃の一つがバルザックの左目を抉り取った。
左目を抉り取られたバルザックは両腕を振るって刃を粉砕し、残った右目でフロリアンをにらみつける。
なにもないところからバチバチと火花が飛び散ったかと思えば、フロリアンの右手が、そして右手に持っていた剣が瞬時に溶解した。
「ああ、本当に……。人は儚いな、フロリアン。リンドブルムの子がまさかおれに刃を向けるとは」
「くひっ、ひひ……老いぼれたフリをしていたか、炎竜バルザック。魔眼まで健在か」
「老いぼれたフリ? 笑わせる。定命の種の時の流れになぜおれが合わせねばならない。リンドブルムに愛着はあるが、お前に執着はない」
「貴様のその傲慢と高慢が、害悪だということにすら気づけないか? 正教の謳う救いや天の国、そんな嘘っぱちに惑わされる者共の愚鈍さを知ってもまだその態度でいられるか?」
氷のようなフロリアンの表情が、ぴしりと音を立てて歪んでいく。
溶け落ちた右手を失った痛みに藻掻くでもなく、彼は右肩から不定形の黒いタールのような液体と無数の蛆虫を垂れ流し、その液体は蛆の巣くう触腕となった。
黒い触腕はうねうねと人間の腕のような形態を取ろうとしたが、それをあきらめたのか今度は鋭い槍のような形に変わる。
それを見たバルザックは、己の抉られた左目と左目の傷跡を焼却ながら大きく火の粉交じりの溜息を吐く。
左目の傷跡から滴っていた血は止まり、痛々しい焼き固められた傷跡が残った。
バルザックは隻眼でフロリアンを見つめ、ぎりぎりと唸り声をあげて言葉を紡ぎ出す。
「おれに教鞭を振るいたいのなら、あと五倍は年を取ってからするべきだな。愚かなフロリアン、お前はいったいなにに魂を明け渡したのだ。汚泥のような黒く濁ったその魂は、おれの業火と言えども滅却しきれぬだろうよ……」
「竜との盟約などよりも、もっと人に近きものだ! この世ならざる外なる神、人の業にもっとも近き信仰に!!」
「それがお前たちに死と退廃をもたらすと知っていてか。なんともバカバカしい話じゃないか」
「助けにもならない火を祀ったところでなにになる! 我らは我らの中に、火を見出した! 真理に近く天に勝る緑の篝火を!!」
「篝火につられて燃え落ちる羽虫になったか。―――ならばリンドブルムの血は貴様を滅却する」
バルザックが唱えた瞬間、フロリアンの全身から火の手が上がる。
まるで体の中から火が迸っているかのように、口から、耳から、目から、火柱があがる。
だというのに、声帯もとうに炭となっただろうというのに、フロリアンの高笑いが洞穴にこだまする。
ケタケタと耳障りに響く笑い声は、人間のものとは思えぬほど異質でひび割れた音をしている。
ごぽごぽと腐臭を放つ黒い液体が体中の穴という穴からあふれ出し、火柱は不気味で冷たい輝きを持つ緑色の炎に変わる。
フロリアンはもはやフロリアンではなく、人間ですらなくなっていた。
それはこの記憶の保持者の精神を、徹底的にまで砕いてしまった。
震える細い手が拳銃を構え、撃鉄を上げてぶくぶくと不気味に肥大化するどす黒い蛆の巣くう、緑の炎を吐く化け物に銃口を向ける。
鉛玉程度でこの化け物が死ぬとは到底思えないが、しかしそうしなければ心が、信念が壊れてしまう。
そして彼女は、ウィクトリア・ギー・リンドブルムは父の背に向け引き金を引いた。
いずれ革命によりフロリアンを害さなければならないという覚悟はしていた。殺さねばならないという覚悟もしていた。
けれど、けれども。
この手で殺すとき、せめて父は人間であってほしかった。
理不尽な世界に君臨する冷酷な王として、最期まで父には父であってほしかった。
父殺しという大罪を背負うのなら、せめて、せめて―――あの思い出の中にある父親の姿を殺したかったのだ。
「ぅ、く、ぁ……ぁぁぁああああああ!!」
絶叫と共に放たれた鉛玉は、蛆の湧いた肉塊の中心を射抜く。
ずぶり、という不気味な音と共に黒い液体が飛び散り、肉塊の中からぼたぼたと人間の内臓が、五臓六腑がこぼれ落ちていく。
もうそれは完全に、完璧に、人ではない。人でなしだと、ウィクトリアは涙で歪んだ視界の中で理解する。
「父殺しを図るか、出来損ないのグズが」
ごぽごぽと泡立つ声の主が振り向き、父、フロリアンの目をした蛆の湧いた肉塊がこちらを見ていた。
死と退廃がそこに濃縮されたようなおぞましい化け物の視線からは、もはや一縷の感情すらもくみ取ることはできない。
それでも、ウィクトリアは硝煙の棚引く拳銃を手にしながら、自分は死ぬのだろうと悟った。
あの腐臭を放つ黒い液体に塗れた、蛆の巣くう肉塊につぶされて死ぬ。
王族として生を受け、王を憎みこの国の在り方を憎み、革命にさえ手を染めた自分の命は、ここで終わるのだと。
しかし、それでいいのかもしれない。
もう、ほとほと疲れ果ててしまった。
もしかすると心が、精神が、もうなにかを感じることさえできないほどに壊れてしまったのかもしれない。
そうならば、ここで終わってしまう方が楽で、いい。
「ごめん、サトル……」
壊れてしまった心の中に、一つだけ浮かぶ顔がある。
革命の共犯者、大罪を共に背負うと言ってくれたあの青年の横顔が。
ああ、死を前にして、それがどれほど大切でかけがえのない存在かに気づくとは。
けれども、死の瞬間は訪れなかった。
おぞましい肉塊と化したフロリアンを、巨大な影が覆う。
それはバルザックの影だった。咢から憤怒の炎をちらつかせる、王の如き威厳を持つ竜の影だった。
「おれの友の血を愚弄することは許さんぞ、化け物め」
そう炎竜は叫び、叫んだだけで肉塊の表面が瞬時に炭化する。
表面を焼け焦がされ動きの鈍った肉塊を、バルザックはなんの躊躇もなく、喰らった。
丸呑みにされたフロリアンの絶叫が、咢が閉ざされた瞬間に消える。
ぶるり、とバルザックは身震いし、ぐったりとその場に座り込んでしまう。
あのおぞましい存在を腹の中に入れたのだから、それは当然だろう。殺しても死なないような存在なのだ。
だというのに、バルザックは慈愛ともとれる優しい光を瞳にうつし、ぺたりと座り込むウィクトリアに告げた。
「この化け物はおれが腹の中で永劫に焼き続けてやろう。お前は、お前がすべきことをするが良い」
お前はあのリンドブルムの子なのだから、と炎竜は言った。
震えも涙も、死に対する恐怖もすべてが収まり、通り過ぎていた。
右手に拳銃を持ちながら、ウィクトリアはゆっくとり立ち上がる。
すべきことは分かっている。
なさねばならないことも、知っている。
その道のりを共に歩んでくれる者の名も、姿も、声も、すべて知っている。
―――そうして、雪の降り積もる祝日の一月七日。
炎竜バルザックを害したフロリアン・ギー・リンドブルムは消えた。
ウィクトリアは≪リンドブルム公国≫の公爵として戴冠すると同時に、貴族制の見直しと王政の将来的な廃止を宣言する。
そしてその宣言と同時に、教会の鐘楼に篝火は灯された。
革命の灯が爛々と雪の降る街で、村で国中で光り輝いた。
積雪の上に血が染み渡る中で、歌声と歓声が次々とあがっていく。
―――武器を取れ 市民らよ
隊列を組め
進もう 進もう!
汚れた血が
我らの畑の畝を満たすまで!