第118話「革命に至る病」
最初に見えた光景は、薄暗い牢屋の中だった。
鉄格子の先には何か月前に収容されたのか分からぬ、焦点の定まらない中毒者が壁に向かって延々と話しかけていた。
出される食事は石のように固いパンと冷めたスープで、食事というよりは飢えを思い知らせるように与えられているような気さえした。
あらゆるものが冷たく、凍えるような寒さを感じる。
けれども寒さを防ぐための服ははぎ取られ、今あるのは襤褸切れが数枚だけ。
寝床は干し草の上で、そこにはいつだって自由の身になれる溝鼠が何匹が暖を取っていることさえあった。
―――これは誰の記憶だっただろうか。
一日目はその牢獄に閉じ込められて終わった。
二日目は馬上鞭を持った騎士に尋問という名の拷問を受け、心身ともにずたぼろにされて終わった。
それから先のことは、あまりよく覚えていない。
何日、いや何週間か、そこにいたようだというのは記憶にある。
寒さと飢えが身体をじわじわと侵食し、怒りや憎しみの炎さえ掻き消されてしまいそうな惨めな時がただただ過ぎていく。
しばらくしてからか、従士二人に引き摺られるようにして再び牢獄に叩き込まれ、その騎士はにたにたと笑みを浮かべながら言った。
「そろそろ正直になれよ。てめえは忘れているかもしれないが、フロリアン様はてめえが竜の王冠に盾突こうとしてたのを知ってんのさ!」
その声は歓喜で震えていたのかもしれない。
でも僕には―――、いや、この記憶の持ち主には、狂気としか見えなかった。
そうして、≪彼≫は茫然自失として牢屋の隅で天井を眺めた。
全身がズキズキと痛み、打たれた痕が熱を持ち始め、尋問室の中で浴びせかけられた罵声と暴力を思い出して、涙が出てくる。
大英雄なんて夢のまた夢もいいところだった。死にたくない。こんなのもう嫌だ。
そもそも、英雄とはなにか、という疑問が、≪彼≫の中で湧き上がった。
―――答えは、出ない。
冷たい牢獄の中にあっては、≪彼≫自身も、そしてその頭脳もなにもかもが冷たく凝固していく。
まるで生ける屍のように出されたものを食い、歩き、鞭で打たれ唾を吐かれ殴り蹴られ、牢屋に放り込まれる。
そのまま時間は過ぎる。慰み者として扱われ、すべての尊厳を踏みにじられても、≪彼≫は死ねなかった。
この記憶の持ち主たる≪彼≫が欲したのは、己の生存ではなかった。
冷たく腐臭の立ち込める牢獄にあってもなお、≪彼≫はただ一つの事柄だけを欲していた。
即ち、
―――≪革命≫を。
友の掲げたその理想を。
理不尽の打破、健全たる世界の建設を。
≪侵食する革命≫の思想は複数の指導者を生み、何人もの指導者が投獄されては獄中死した。
しかし時にはフロリアンやその取り巻きの気まぐれで恩赦され、珍しい弁論を吐くとして飼われることもあった。
両足の腱を切られて自らの意思に反し、腐敗の只中に投げ込まれても、指導者たちは革命の弁を振るい続ける。
そうした献身的努力があっても、リンドブルム公国における革命組織の樹立は、第一王女ウィクトリアの協力があっても難しいものだった。
農奴は無学で飢えていてあらゆる闘争において使い物にならず、数少ない自営農民の中で革命など起こそうとする人間は皆無だった。
自営農民は自らの農地を持ちそれを商売にしているために、不当な税や作物の徴収には反発するが、公国にはそうしたことは起きていない。
必然的に、革命組織の樹立は前世のロシア革命のように公国の首都などの大きな街で行われるようになる。
またこれらの革命組織の樹立に関わり最大の功労者となったのが、かつてリンドブルム公国の運営から摘まみ出され大粛清を受けた教会だった。
彼らは弱り切りわずかな土地を運営するだけの弱小勢力だったが、堕ちるだけ堕ち大粛清を乗り越えた結果、ある意味で膿を出し終えていた。
「私欲のために教会に入ろうなどという愚か者は、もう居りませんでな」
寂し気に語る大司教の髭に覆われた顔が、記憶の中にこだまする。
教会と教会が運営する土地は革命の根拠地として機能し、次に劣悪な環境で貴族に使役される採掘ギルドが加わった。
そこから貴族たちが足蹴にしている各ギルドのメンバーたちが加わり、武器の備蓄や軍の創設が密かに始まった。
道のりは長く苦しいものになると誰もが思い、考えていた。
ロシア革命では革命の種子が落ち、それが真っ赤な花を咲かせるまで二〇年もかかったのだ。
だからこそ、この〝リンドブルム革命〟は正直に言ってしまえば、まったくの準備不足の内に始まってしまったのだ。
しんしんと雪の降り積もる祝日の一月七日に、それは起こった。
この革命は〝血の降誕祭〟―――フロリアン・ギー・リンドブルムによる、炎竜バルザックの致傷事件から始まる。
真っ白な雪に包まれた静寂が、ゆっくりと血の赤に染まっていく。