第116話「腐った異世界」
空になった席が並び、机の上にはなにもない。
天幕の下にいるのはただの二人のみで、それを嘲笑うように肌寒い風が吹き抜けていく。
それと対照的に熱を持ち痛みを発する間接を指先で撫でながら、オレはサトルを見る。
髪質の硬そうなぼさぼさの黒髪に、眼鏡と意志の強そうな黒い瞳。
腰のベルトにはホルスターがいくつも釣り下がっていて、戦時ともなればそこには拳銃が収まっているに違いない。
彼は片手で椅子の背もたれを弄びながら、じっとこちらを見下ろしていた。
「髭なしドワーフのコウ……君が転生者なのは目星がついてる。僕は、君がどういう男なのかを確かめたい」
「ちょうどいいところだな。オレもお前がどういう目的をもって、革命なんかやらかして戦争を始めたのか知りたかったんだ」
「……革命なんか、か。まあ、良い。君たちからすればそう言えてしまってもおかしくはない」
顔を顰めるでもなく、少し落胆したような表情を浮かべ、サトルは椅子に座り眼鏡を外し、それを机の上にコトリと置いた。
「そりゃ、当事者じゃないからな。それでどうするつもりだ? 昔話をするなら早くしないと、陽が傾いちまうぜ?」
「問題はないよ。なにも僕らが話し合う必要はない」
「……ならどうするってんだよ」
「大丈夫さ」
そう言ってサトルは瞳を開く。
黒い瞳がじっとオレを見つめ、じっとじっと瞳がオレを覗き込み、オレは瞳を覗き込む。
黒がぼんやりと広がり渦を巻き、オレが瞳を覗き込むのと同じように、オレはサトルを覗いている。
誰の言葉だっただろうか。
深淵を覗く時、深淵もまたお前を見返しているのだと。
あれはたしか、ニーチェの善悪の彼岸だったか。
「―――この革命は僕の頭の中にある」
ぼんやりと、サトルの声だけが響いている。
「だから君にはそれを知っておいてもらいたい。今後のためにも」
身体の感覚が、痛みが薄れて、意識だけが引き出されているような感覚があった。
「《侵食心神》、これが僕のギフトだ」
どこか懐かしい感覚だ、とオレは思う。
まるでどこかにゆっくりと落ちていくような、それでいて揺蕩い留まっているかのような。
生暖かい暗闇がオレを包んで堕ちていく。
―――
始まりは月並みに、目に見える差別と貧困からだった。
リンドブルム公国は古く魔法国家〝レグス・マグナ〟との戦いから、軍事力を司る貴族階級の影響力が増加し、さらには福祉を司る教会も増長した。
教会の増長は公爵家によって諌められ、徹底的に不心得者の排除が行われたが、一方で貴族階級の影響力は年々強くなっていた。
リンドブルム公爵家の当主争いも激化し、毒殺と暗殺が入り乱れる状態に陥り、国は疲弊していた。
公国を治める王は有力貴族に選り好みされ、選ばれなかった当主候補たちは次々と教会や墓地に送られていった。
農奴は最低限の生活を保障される代わりに厳しい農作業と軍役に努めなければならず、子供は字も読めず、資産を持つことは禁止されている。
農奴は人間ではなく、それは所有物だった。
痩せた田畑にこれまでもそうしてきたからと、土地を休ませもせずに種を植える農奴たちを見た。
土と汗で汚れた農奴を見なくていいようにと、ステンドガラスを嵌め込んで酒を煽る貴族を見た。
転生者は知識がある、だからこそ重宝される。
けれども、なまじ知識があるからこそ、耐えられないことがある。
理不尽な権威主義、型にはまった階級社会、かくあれかしと決められたならば、そうあるしかない社会。
―――これを見ず、聞かず、なにも言わずに過ごせば特権が約束された腐臭の香る小さな世界。
有力貴族の下で甘い汁を吸う転生者もいた。
知識があることをひけらかし、助言者のように振舞うことで寵愛を得る転生者がいた。
そうして国はさらに歪に、理不尽に増長し、貧富の差が広がり醜く変形していったのだ。
自らの啜る蜜に関係ない農奴は恩恵の外に置かれ、転生者たちは貴族たちの中に取り入っていって腐っていく。
ハーブが栄養を吸い上げて周囲の花々を枯らしていくように、彼ら彼女らは農奴たちを搾取しぬくぬくと育っていく。
中世を暗黒時代と評することがあったように、リンドブルム公国は怠惰で腐敗した暗黒の時代を迎えていたのだ。
―――しかし、助けを求める声を、諦観の溜息を、誰かの泣き声を聞かぬふりもできない。
ベルツァール王国の南部諸侯と、マルマラ帝国との貿易による利益はそれほどに大きかった。大きすぎた。
魔法国家という強大な敵のために生まれた軍事偏重、貴族偏重の社会構造は、国王の権利を著しく制限し、上からの改革は不可能となっていたのだ。
かといって貴族階級は王と教会から奪った既得権益を手放すはずもなく、夢見がちな理想主義者は大抵、後継者争いの最中に死ぬのがお決まりのやり口だった。
それは王族とて同じことだ。
狂ってしまったことにして城の塔に幽閉し生涯をそこで過ごさせる手や、手っ取り早く毒殺することまである。
客品として呼ばれた舞踏会の席で、赤毛の可憐な少女が毒殺されたのは、その手のやり方を目にする最初の機会だった。
深紅のビロードの敷かれた式場に掲げられたのは、剣に巻き付く赤い竜の国章。
炎竜バルザックと竜たちと手を取り、竜と人との共存を掲げて立ち上がった英雄の国の国章だ。
その下には煌びやかな服に色とりどりの勲章をぶらさげた、赤毛の痩男、フロリアン・ギー・リンドブルムが薄ら笑いを浮かべて着席している。
舞踏会の中盤、どす黒い血を真っ白いテーブルクロスに吐血し、銀の皿が床に転がる音だけがやけに大きく響いたのを覚えている。
真っ白い肌は見る見るうちに青白くなっていき、喉を掻きむしる手はやがて止まって、焦点のあっていない生気のない瞳がシャンデリアを映していた。
彼女の名は、ウィクトリア・ギー・リンドブルムといったはずだ。
舞踏会を主催したその父、フロリアン・ギー・リンドブルムは立ち上がりこそすれ、吐血し苦しみ息絶えた実娘をただじっと見つめていただけだった。
フロリアンが舞踏会の参列者たちを見回すような素振りを見せると、場内で踊り楽しんでいた者たちは一斉に王と死体から目を逸らして沈黙した。
不気味な時間が流れていく。暗殺の場に居合わせたというのに悲鳴一つなく、ざわつきすらもない完全な沈黙がその場を漂っていた。
「アメリア」
その沈黙を破ったのは、一人の少女の言葉だった。
炎龍の鱗のように濃い赤髪を棚引かせ、彼女はどす黒い血を吐き出して死んだ少女の傍らに跪く。
乳白色の肌をした細い指が、死した少女の頬を撫で、虚ろな瞳に瞼を下ろす。
「アメリア……私の最愛の友、私の影、私の半身」
豪奢な衣服が血に汚れるのもいとわずに、彼女は少女の死体を抱えて立ち上がる。
赤髪とは正反対の、海原のように蒼い瞳だった。
乳白色の肌は磨かれた大理石のように美しく、色の薄い唇もあいまって作り物めいて見えた。
サトルは理解した、影武者が死にウィクトリア・ギー・リンドブルムは救われたのだと。
そして命を救われたと同時に、彼女は自らの決断で最愛の友と、自らの半身を失ったのだと。
ウィクトリア・ギー・リンドブルムの心は傷付き、友を失った悲しみはその青い瞳を濡らしている。
「ウィクトリア、〝それ〟を処分しなさい」
だというのに、フロリアン・ギー・リンドブルムは冷淡に言い放った。
その瞬間にウィクトリアは静かに振り返り、父の能面のような顔を見つめた。
感情の濁流と言葉の奔流が、この記憶の中に渦巻いている。
己の半身、分身、そう思っていた唯一無二の存在が、身代りに死んだというのに、世界はどれほどのことをしたのか。
我が半身、我が分身、鏡写しの私、それが死んだときに、私はどれほどの感情を抱けただろうか。
なにも、すべてが足りなかったのではないか。彼女の死に対して、世界は、なんの感情も抱かずに進み続けている。
ウィクトリアとアメリアは、六歳の頃から付き合いのある親友だった。
王室の長女の影武者として親元から引き剥がされた、ウィクトリアの影として生きることを宿命ずけられた命だった。
共に成長し、まるで鏡を見るかのように背丈は伸び、互いに互いを刺激しあって笑い、泣き、感情を共有した姉妹のような存在だった。
「………はい、父上」
震えるその声には、感情がいっさい籠っていない無機質なものだった。
その存在を失い、彼女は、ウィクトリア・ギー・リンドブルムは、世界の歪みを決定的に許せなくなった。
そしてサトルもまた、自分がこの異世界でなにをしたいかということを理解し、強く思ったのだ。
―――こんな世界は、間違っている。
と。
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