第97話「独り、朕を前に」
ベルツァール王国の実質的舵取り役、宰相たるニルベーヌ・ガルバストロ宮中伯でも頭を下げることはある。
綺麗に整頓され、赤い絨毯が新たに敷かれた応接間の中央で、目つきの悪いエルフは傍らに魔法使いを伴い、宙に浮いた鏡面を前に膝をついていた。
魔法通信の向こう側にいるのは、細かな金色の装飾がなされた重厚な座に腰を据え、紫色の法衣を羽織った青年だった。
ゆとりのある法衣に革のサンダルを履き、いくつもの指輪を嵌めた指は肘掛けをトントンとリズミカルに叩いている。
長い茶髪は三つ編みにまとめられ、それが肩にかかって垂れ下がっていた。肌は白く、白いがために赤い瞳が際立って鋭く見える。
ベルツァールの国王たるジグスムント四世とは、また別の覇気を感じるのは、ガルバストロの気のせいなどではない。
『宮中伯の申するところ、王冠の祝福を受けし四人目のジグスムントは、朕に助けを求めている、と』
探るような、それでいてその言葉を舌の上で転がして吟味しているかのような声で、青年は言う。
この男のそういうところが嫌いで、実に手強いとガルバストロはここ十年ほどの記憶を思い返しながら胃の痛みを無視した。
マルマラ帝国皇帝、難攻不落、絶壁と評される堅牢な《ドラガゼスの城壁》を有する帝都ゼノポリスの主―――皇帝レオン二世。
皇帝とは言うが、歳にしてわずかに二四だ。
八歳にして即位し、今は亡き老獪な摂政に仕込まれた陰謀係数は天の才というものを認めざるをえない。
ガルバストロにとって、宰相としてマルマラ帝国と付き合うようになって一番やりにくい皇帝、それが今の皇帝、このレオン二世だ。
「その通りでございます、信仰の守り手にして祝福を受けし二人目のレオン陛下……我らの敵は共通、異端との闘いを蔑ろにし、我ら同士で血を流す道理はありますまい」
『卿の言葉は何時いかなる時も真実であることを朕は期待しておる』
期待しておる、とは、随分と厳しい言い方だとガルバストロは身構える。
だがそれに対してレオン二世が見せたのは、尊厳者たる者の微笑みだった。
その微笑みがどれほど怖いものか、ガルバストロには分かっている。こいつは眼だけが笑っていない。
『故に問うが、卿は朕になにを求める? 朕は卿になにを求めればよい?』
「―――リンドブルム公国を統べる、リンド連合と我らベルツァール王国との講和を、取り持ってもらいたく存じます」
『ほう。卿は朕に見も知らぬ連合とやらに、声をかけよと言うのか』
「連合とは言いますが、代表者はかのリンドブルムの名を引く者。名はウィクトリアと」
『では、フロリアンが娘にしてやられたというところか。たしかに、そうであれば朕も見も知らぬとは言えぬ』
「ならば―――」
『して、ニルベーヌ・ガルバストロよ』
ガルバストロの言葉を遮り、レオン二世は睥睨する。
底の知れない赤い瞳が、まるで赤い宝石のような瞳が、じろりと獲物を見つけた猛禽類のように光る。
たかが二四歳の男が、どうしてここまで恐ろしい目をできるのか。
『朕は卿になにを求めればよい。富か、土地か。それとも血か、信仰か』
「恐れながら、ベルツァールが陛下にお渡しできるものは、僅かばかりの富かと」
『王国の富よりも、朕は卿が東部で行っている事業の方に興味がある』
「………」
『謙遜することはない。エルフの東部貿易、なかなかに甘い蜜と思う。卿よ、朕の目は誤魔化せぬ』
「陛下の慧眼の及ぶところ、まことに広いと存じます」
『ベルツァールが復古し一〇〇周年に起きたエルフの大反乱……騎士王ウィリアム二世が死に、九五年の歳月が流れておる。卿ほどの男が、東部を荒れ地のままにしておくわけもあるまいよ』
冷汗が流れるのを自覚しながら、ニルベーヌ・ガルバストロは舌打ちを堪える。
エルフの大反乱と、ノヴゴールの反乱が連鎖した《五年戦争》で、東部諸侯のほとんどは断絶し、残った者たちは荒れ果てた領地を教会に寄進しノヴゴールへ移った。
残された荒れ果てた土地は教会が扱いに困り、僅かばかりの修道院と商人たちの商館があるだけで、今も決して恵まれているとは言えない。
だが、大地とは常に先へと続いているものだ。
荒れ果てた大地を木々が覆い隠し、わずかに残ったエルフたちがその地を森番として収めるようになる。
そのエルフたちが遥か異郷の者たちと出会い、独自に貿易を行っていたとしたら。
そしてその貿易は、貴重な香辛料や茶などの代物だったとしたら。
ニルベーヌ・ガルバストロが、その手腕だけで宰相に成り上がったわけではないとしたら。
―――エルフの東部貿易による富は、この地域において無視できないものになる。
深い森と荒れた大地はそれらを隠し、森深くに引きこもったエルフたちには教会も商人も手を付けない。
ドワーフが鉱山を手に入れ、ファロイドが人と生活圏を共にし、半獣人たちは好きに縄張りを張り、人間は版図を広げる。
完全に時代に取り残されたエルフたちはそれでも、己の生活のためにそれを隠し続けていた。
その東部貿易に富と実力で、ニルベーヌ・ガルバストロは成り上がった。
それを見抜かれ、目をつけられ、平静でいわれるわけがない。人間ならば。
だが、ニルベーヌ・ガルバストロはエルフだった。エルフであるからこそ、その地位にあるからこそ、平静でなければならない。
『税として、収益の一割を朕に納めよ。例外も遅延もなくだ』
「しかと胸に。必ずお納めいたします」
『朕の恩を忘れるでない。―――して、卿が言った《三国十字軍》だが、異端どもの轡を外せということだな?』
「……一部だけでもと」
『よい。東部貿易の収益をさらに二割、そしてベルツァールの王冠の統べる諸侯らすべてに、朕への不可侵を誓約させ、文書にしたためよ』
「必ずや」
合計三割が王国から、マルマラ帝国に流れることになる。
これまで財源のあてにしていた東部貿易から三割分が消えるとなれば、王国の財政も少し締め上げねばならないだろう。
しかし、それでも王国が亡ぶよりはマシだ。遥かにマシだ。
国が亡ぶということは、基盤の崩壊を意味している。
危ういバランスの中で存在しているベルツァールが亡べば、王国は二度と今の形にはなるまい。
それこそ、かの聖王アルフレートがどこからともなく再び現れない限り、亡んだ王国は元には戻らない。
多民族国家、まるでオーストリア=ハンガリー二重帝国や、ユーゴスラビアのようだ。
一度落として割れてしまったグラスが二度と元には戻らないように、この国も割れてしまったらそこで終わりだ。
壊れたグラスは二度とは戻らない。もう二度と、その杯に美酒を満たすことはない。
それだけは、認められない。
ベルツァールという器を、人間もエルフもドワーフもファロイドも、それらを受け止めるこの器を。
壊すなどということを、ニルベーヌ・ガルバストロは認められない。
胃の痛みに耐えながら、ガルバストロは鏡面の向こう側のレオン二世を見つめた。
変わらぬ笑みからはなにも読み取れず、それが勝者の余裕のものなのか、仮面なのか判断がつかない。
それでもこの男は、皇帝なのだ。マルマラ帝国皇帝、レオン二世なのだ。
『さて、朕は卿の嘆願に心動かされ、朕への不可侵の誓約のみで、これをよしとした。それを努々忘れぬことだ』
「ありがたきお言葉、感謝いたします」
『全権委任大使をそちらに向かわせよう。そちらに着くまで、一週間はかかる。到着を待つがよい』
その言葉を最後に、鏡面は輝きを失って一つの手鏡に戻る。
ゆっくりと立ち上がり、少しばかり痛む腰を叩きながらガルバストロが振り返れば、魔法使いが中空に浮いた手鏡を手に取り、懐にしまった。
「貴様の名前はなんだったか」
「サーラット公爵付魔法使い、デッド・マンハッドですが」
「そうか。お前は―――」
「半年に一度、半日の禁書庫閲覧権限さえもらえればなにも言うことはありません」
「……分かった」
「レオン二世が慈悲深いお方で大変喜ばしいです」
無表情を崩さずになんとも言えない棒読みでそう言い切ったマンハッドは、灰色のローブを目深に被り、そのまま退室していった。
あとに残された形になったガルバストロは、ため息をつきながら思ったのだった。
まだ魔法使いたちの方が、遥かに扱いやすい、と。
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