幕間『ジョナサン・ロッカール』
ミヒャエル・ゾロターンは馬上で散々に凍えた身体を温めるように、暖炉に近づきながらハーブティーを飲み込んだ。
パチパチと小気味よい音をたてながら燃える薪をじっと見つめ、ふと振り返って部屋を見渡せば、今、南部諸侯が危機にあるということすら忘れそうになる。
ジョナサン・ロッカール男爵の屋敷の応接間は、仄かに暗い光を放つ銀に似た金属の装飾がなされ、豪奢なシャンデリアが室内に明かりを灯していた。
壁に飾られた絵画はほとんどが風景画か裸婦画で、珍しいことにロッカール男爵家の肖像画はジョナサン・ロッカール本人のものだけだった。
ロッカール男爵家ほどの諸侯であれば初代当主から始まり、現当主たるジョナサン・ロッカールに終わる肖像画の列があっても不思議ではないというのに。
事実として、ミヒャエル・ゾロターンの主であるカリム城伯は、初代カリム城伯からオスカー・カリムに至るまでの肖像画を屋敷の応接間に飾っている。
まあ、飾る場所が違うだけかもしれないなと、姿見の鏡を見ながらミヒャエルは乱れた髪を整え、あくびをかみ殺す。
疲れで少しばかりぼんやりとする頭を動かし、ミヒャエルは机になされた装飾をじっと見つめ、ノヴゴール由来の金属の暗銀だろうか、と考える。
暗銀は聖王アルフレートがノヴゴール遠征で持ち帰った財宝の一つで、その再現にはあの魔法使いとあのドワーフが手を組んで、鉱山都市ロウワラを生み出すに至った金属だ。
もっとも、鉱山都市ロウワラが悲劇に見舞われ、住民のほとんどが死に絶えた時に、暗銀再現の研究資料や武具、手法といったことごとくが失われたのだが。
装飾用に売られた暗銀は今でも高値ではあるが、ミヒャエルが今こうしているように名と歴史のある諸侯の屋敷で見ることができる。
が、暗銀の武具と言えばほぼ現存しておらず、もし現存していたとしても、ほとんどがあの忌々しい魔法使いたちによって回収されているのだ。
暗銀の武具を見たいというならば、ロウワラ出身のパラディン伯、ヘレン・ロウワラの盾を見るのが一番早いだろう。
「………我が家の応接間の居心地はどうだい、ミヒャエル卿?」
びくっ、と自分の身体が強張るのを恥ずかしく思いながら、ミヒャエルはゆっくりと振り返った。
針金のような髪質の金色の髪は短く整えられ、どこを見ているのかよく分からないぼんやりとした鳶色の双眸が、じっとこちらを見つめている。
背丈はそれほど高くはない中肉中背の男―――、ジョナサン・ロッカールは、派手さの欠片もない教会の修道士のような恰好をしていた。
「よい居心地です、ロッカール男爵。ヴァレスとは大違いですとも」
「ははは……手痛い言葉だな。オレが逃げ出したことを咎めてるのか?」
「いえ、失礼いたしました。しかしロッカール男爵の兵が今こそ必要なのです」
「となると次は、カリム城伯の居城であるケール城塞か」
あそこであれば防備も堅い、とジョナサン・ロッカールが椅子に座り足を組む。
ミヒャエルは苦笑しながら、この男爵は戦況を何も知らないのだと自分に言い聞かせて声をあげて笑いそうになるのをこらえた。
ジョナサン・ロッカールは国境線近くの戦いでヒュー・バートンが決死の突撃を行った時、すでに逃げ出していたのだ。
「バンフレートからの救援と髭なしドワーフの采配がなければ、恐らくはそうなっていたでしょう」
「………なんだと?」
「我ら南部諸侯軍はバンフレートからの救援とともに、いまだにヴァレスで持ちこたえております。ロッカール男爵の兵が加われば、リンド連合の奴らを追い返せるかもしれません」
「ひ、髭なしドワーフ……ぶ、ば、ヴァレスで、持ちこたえて、いる?」
「ええ、パラディン伯ロンスン・ヴォーンの参謀として、髭なしドワーフ、転生者にしてモンパルプの領主のコウが、ペルレプで夜襲を成功させたという話です」
私も参陣したかったものですよ、とミヒャエルはハーブティーを飲みながら、カリム城伯の騎士であるためにペルレプでの戦いに参加できなかったことを悔しがった。
曇り空の中を馬で駆けてきただけあって、体はすっかりと冷え切っていたから、ミヒャエルはカップを手にしながら暖炉の温もりに当たり、帰りのことを思って気落ちした。
せめて、昔話の魔法使いのように瞬間移動など出来れば、冷え切った体で鞍にまたがることもないのだろうに。
燃え尽きた薪が真ん中から真っ二つに折れ、火の粉が少しばかり舞った。
心地よく美しい炎は赤煉瓦で作られた立派な暖炉と合わさって、この寒い季節にはぴったりだった。
この戦が終わって領地に帰ったら、煉瓦積みでも覚えて少し立派な暖炉を作るのも良いかもしれないと、ミヒャエルはその想像をして口元を緩め、妻から言われる小言について想像していた。
「ててて、転生、しゃ、者……もも、モ、モンパルプの、り、りょ、領主ぅ……」
「ロッカール、男爵……?」
吃音のようなどもりと、ごぽごぽとした水っぽい音がして、ミヒャエルは振り返った。
ひっ、と引き攣った喉がか細い悲鳴を発し、反射的に腰の剣に手が伸び、中空に放られた陶器のカップが音を立てて砕け散る。
ジョナサン・ロッカールの体は、内側になにかが蠢き、這いまわっているかのようにぐねぐねと形を変え、頭部の穴という穴からどす黒い汚水が滴り落ちる。
「ば、化けも―――」
「喰っていいぞ、ミレア」
「ぎ」
剣を振り上げたミヒャエルは、己の頭部が丸ごと汚泥の塊のような化け物に噛み砕かれた瞬間、おかしな音を発して事切れた。
―――
糸の切れた人形のように、成人男性の首なし死体がごろりと応接間に転がった。
ごぽごぽとした音の中にため息のようなものを混じらせて、ジョナサン・ロッカールのようなものは椅子に座り、足を組んだ。
首なし死体が切断面から血液をピュッピュと吹き出しながら、ビクンビクンと最後に下された命令を律義に守ろうとして、バタバタと五月蠅く動いている。
あとで料理するか、とジョナサン・ロッカールのようなものはぐぷぐぷと口から腐敗臭のする液体を唾のように吐き捨てる。
天井の暗闇からはパキボキと頭蓋骨を破砕する音が響き、次にその中身をすするはしたない咀嚼音と、魚の骨でも捨てるように、頭蓋の欠片が石ころのような音をたてて床に落下した。
いったい誰が掃除すると思っているのかと忌々しそうな眼をロッカールが向ければ、腐肉の塊のようなものが天井から床に落ち、べちゃりと潰れた。
「ミレア、脳髄だけ喰うなよ。オレが好きで獲物の腸詰を作ってるとでも思っているのか」
「あらあらぁ……ロウワラでは好きでやっていたのにぃ、ここでは出来ないんですかねぇ……」
「ロウワラでは獣で良かったがな、今のオレは南部諸侯の一人、ジョナサン・ロッカールなんだぜ?」
「正確には、哀れなジョナサン・ロッカールの生皮を被った転生者の成れの果て、ですけどねぇ……」
腐肉の塊が形を成していき、それは一つの少女になる。
黒い下着姿の、蝋人形のような不気味な白い肌の少女が、鈴が鳴るような声で笑う。
澱みの魔女、ミレアだった。
ころころ、と蠱惑的に笑う魔女に、ロッカールのようなものは不機嫌そうに顔面を蠢かせる。
「髭なしドワーフ、テメエのお気に入りと同じ異名だなぁ? なあ、どうしてだ? このまま計画通りに進んでいれば、オレはケール城塞で薄汚い民間人どもと忌々しい諸侯ども、二万の肉を食らいつくせたってのによぉ?」
「んふふぅ、あなたはロウワラに二万人分の肉を置いてきちゃいましたからねぇ……。此方みたいに好き勝手できないですもんねぇ……ふふふ、哀れですねぇ?」
「な、ナな、なんだとぉ? お、オぉ、オレの計画は、イツモいツもイ時もイつモ……テメエみたいなのに邪魔され、されレ、て」
「良いではないですかぁ。まだ此方のお気に入りはリンド連合と敵対していて、不利なのですよぉ? ロウワラを発展させ、ロウワラで疎まれ、ロウワラを滅ぼした張本人なのですからぁ、なんの能力もない転生者なんか殺しちゃえばいいのですよぉ……ドワーフとエルフを含めた二万人に比べたらぁ、まだまだ楽じゃないですかぁ」
「う、ウう、……そいつを殺しても、恨みっこなしだ……」
「ええ、もちろんですよぉ」
クスクス、と細長い白い指を肢体に這わせ、ほぅっと恍惚な表情を浮かべながら、澱みの魔女ミレアは呟く。
「《ロウワラの獣》に殺される程度の存在なればぁ、此方が愛してあげる必要もありませんからねぇ……?」
ごぽごぽと、ジョナサン・ロッカールのようなもの―――、
鉱山都市を滅ぼし、幾多の者たちから家と家族を奪った《ロウワラの獣》は、不気味に笑うのだった。