2話 「ぬらりひょん」
その行動に大した意味はなかった。
ただ単純に暇だった。その程度の理由しか持ち合わせていなかった。
取ろうと思えばすぐにでも取れるもの。それならば今取ってしまおうか。
暇だしのう。
本当にこれ以外の行動材料は一切ない。
重たい腰を上げ、人目につく場所へと移動する瓢箪頭の老人を止めるモノは誰もいなかった。
正確には止めることのできるモノは誰もいなかった。
全てはヤツの支配下にある。
こうして山奥からたった一人の侵略者が降りる。
彼は自ら名乗らずとも他のモノ達からこう呼ばれ、崇められていた。
妖怪総大将 ぬらりひょんと。
その行動にも大した意味はなかった。
そこに茶店があったから入るまで。
勧められた抹茶を啜り、みたらし団子を食べる行為も暇を長く潰すための遊びに過ぎない。
大きな瓢箪頭を揺らしながら、みたらし団子を食べる様子はいささか不気味であったが、誰もその不気味さを気に留めていない様子であった。
その原因は彼の二つ隣の椅子に腰掛けた武士によるものであった。
彼もまた大した意味もなく茶を啜り、みたらし団子を食べていた。
しかし、彼から溢れ出る殺気はとどまることを知らず、無礼を働けば首が飛ぶのは必至の事であると思われる。
瓢箪頭の揺れが止まる。
妖怪総大将とまで言われた自分を差し置いてこの場を掌握する武士の殺気に嫌気がさしたのだ。
武士もまた自分へとあてられた殺気を感じ、団子を食べる手を止める。
互いに嫌悪し合う二人が揃ったのだ。この場所で今から起こる事は一つと決まっていた。
ぬらりひょんと武士が立ち上がり、向かい合う。
ぬらりひょんの手には何処から出したのかわからない長い木刀が握られていた。
その長さたるや当時の長さで4尺はゆうにあるであろう代物である。
一方武士の手には一本の刀も握られていなかった。
腰に下げたままの2本の刀が揺れる。
二人の殺気が混じり合い、茶店の主人はたまらず意識を失う。
「ただの老人じゃと思うておらんかのう」
刀に指一本触れない武士にぬらりひょんは話しかける。
「ワシはこう見えても妖怪の総大将をしておる。ぬらりひょんと言えばわかるかのう。もっとも自分から総大将を名乗った覚えはないんじゃがのう。来るモノ全てを斬り捨てておったらそう呼ばれておったのじゃ。さて貴様はワシの暇を埋めてくれるような強者かのう」
そうぬらりひょんが名乗ると彼の周りから殺気以外のものが漏れ始めた。
粘着質の纏わり付くような不快感を与えるこれは妖気と呼ばれるものであろう。
妖気に包まれるも武士は一切動くそぶりを見せなかった。
「ほぅ。あまりの妖気に怖気付いてしもうたかのう。ワシの暇を潰してくれるモノは一体どこかのう」
「貴様も刀を持つ者ならば無駄口は叩くな。つまらん」
余裕を見せていたぬらりひょんに対しこの発言は彼の自尊心を大きく揺らした。
ぬらりひょんは自分自身でさえも気付かない程の速さで木刀を振り抜いていた。
軌道は一切見える事なく、ただ見えるのは振り抜いた後の劔のみ。
「すまぬな、無駄口を叩かねば一瞬で終わってしまうのでな」
いくら木刀といえどかの速度で更には妖気もを纏った状態で斬って斬れぬものは今迄なかった。
そう今迄はの話である。
4尺以上もの長さを誇る刃でも間合いに入った相手が急に斬れなくなる事はある。
そう例えば今回のように、刀自体が斬られている場合である。
ぬらりひょんの持っていた木刀は気付いた時にはもう分断され、2.5尺程しか残っていなかった。
「貴様一体何を、妖か」
「かっかっか。妖の貴様がそれを言うではない。笑いが堪えきれんわ」
武士は大口を開けて笑う。
ぬらりひょんは戦慄していた。
かつて自分の劔が斬られるなどということは一度もなかった。妖気を集中させたぬりかべですら一撃で斬り裂いた一刀、折れるならまだ考えようはあるが斬られるなどということは考えすらもしなかった。
自分の考えの及ばない事態が起こり、混乱した彼の耳には眼前の武士の笑い声が響き渡る。
こんな事あってはならない、此奴はここで殺さねば。
そう決心し、再び眼前の敵と向かい合った時彼の手からは武器が消えていた。
驚愕するぬらりひょん。
しかしそれ以上に彼を驚かせる光景が視界に広がる。
武士が2本の木刀を構えて立っていたのである。
「ど、どうしてじゃ」
「隙だらけだったので奪った迄の事そんな驚くことではない」
隙だらけ、武士は確かにそう言った。
ぬらりひょんの一瞬の混乱、時間にすれば0.01秒もない僅かな迷い。
それはこの武士曰く隙だらけだったようである。
「もう貴様を騙す遊びにも飽きた。俺も暇じゃない」
武士はそう言うと自分の腰にした刀を一本のぬらりひょんの前に置いた。
「先程の太刀筋を見るに貴様の売りは速さなのだろう。ではやろうではないか、どっちが速いか」
そう言う武士は刀を構えることはせず、先程のぬらりひょんから奪った木刀を構えた。
ぬらりひょんは自分が受けている圧倒的侮辱に激怒していた。
瓢箪頭には血管が浮き上がり、あたりを埋め尽くす妖気は一層濃度を増した。
これまで何もかも斬り捨て、妖怪の総大将とまで呼ばれた自分にこの侮辱は許せない行動であった。
ぬらりひょんは地面に置かれた刀をゆっくりと拾い上げた。
こんな小童ワシが本気を出せばなんてことないと思うぬらりひょんは視た。
視界を覆い尽くす殺意を。
ぬらりひょんの妖気などの比ではない。
その殺気は物質としてこの場所にあり、触れようものならば即座に生首となるだろう。
その殺気は空間を捻じ曲げ、武士の周りを纏わりついていた。
もうどちらが速いかという戦いではなくなっていた。
ぬらりひょんの戦意は喪失しかけていた。
しかし、ぬらりひょんは退くことなく自信の持てる全力の力を注ぎ武士に斬りかかった。
妖怪総大将という肩書きが彼の逃走を許しはなかった。
結果は言うまでもなかった。
地面にうずくまるぬらりひょんの体には二筋の痕が残った。
「余程暇ならもっと鍛錬に励むことだな妖」
そう言いい武士は立ち去ろうとする。
「……名はなんと申す」
遠ざかる背中を見送るうちにぬらりひょんの口から彼の意思とは関係なくそんな問いが洩れる。
武士は振り返り、戦利品のように分断した木刀を腰に差すとこう答えた。
「宮本武蔵。すまんが急ぐでな、決闘がある故」
その後武士は一度も振り返ることなく去っていった。
ぬらりひょんは妖怪総大将の異名を返上することを心に誓い、体を引きずりながら山へと帰っていった。
巌流島は今日も平和であった。