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短編箱はお気楽に~

農薬耐性

 無事に帰ってこいよ、それがいつもの出がけの挨拶だった。

 妹は幼さの残る顔に強張った笑みをわずかに浮かべ、フードを深くかぶり直し、マスクをかけた。


 本当ならば十二歳になったばかりのシーディを北の畑などにやりたくない。しかし、父も母もすでに立ちあがることはできないのだ。

 一番丈夫だったはずの彼、十八になったハーベストも、昨夜から目眩がひどく、起き上がるのに苦労していた、そして吐き気もひどかった。


「今日は薬を散布したらすぐ戻るから」

「先に収穫を試したりしたらダメだからな」

「薬をかついでいるんだもん、余分なことはしないよ、ハーベスト兄さん」

「西側の三列だけで止めて帰ってこいよ。砂嵐が起きないうちに」

「分かってるよ。日が傾いたらすぐ戻る。ほら、グレイン、足から離れて」

 シーディの脇にぴたりとついて、不安げに目を光らせている八歳の弟は、しぶしぶ手を離した。


 グレインにとって、初めての作業助手だ。大人がつかずに外出するのも、初めてのこと。ハーベストから見てもついこの頃まで赤ん坊だと思っていたのに、こうして手伝いができるようになっているのは、彼ら家族にとっても心強い限りだった。

「でも」三列だけの農薬散布では、効果が出ないのでは? その言葉を上の姉が言いかけたが、彼が強く睨らみつけるとすぐさま口をつぐんだ。

 十九歳の姉・ラランジェは妊娠六月目、ややふくらんだ腹をかくすように片手で包みこみ、一歩下がった。お腹に子どもがいてもいなくても、畑に出たことなどない。自分は内を守るのが仕事だとかたくなに言い張っている。特に子どもができてからは、外気がどんなに胎児に悪影響があるかをことごとく言いたてて絶対に外に行こうとはしなかった。

 シーディはハーベストとすぐ下の姉・ライスと三人でずっと畑仕事をやってきた。特に父と母とがほぼ同時に倒れてからは三人で協力してカレイン豆や根菜類の栽培を行ってきたのだった。

「今度の薬はかなり強いから、大丈夫さ」

 ハーベストの言葉には何の根拠もない。今回の薬剤は共同体の研究室で開発されたばかり、かなり強いから害虫に即効性がある。とは言っても、またすぐに耐性がついてしまうのは分かり切ったことだった。

 しかも、あまりの毒性の強さと生活環境の苛酷さから、北の畑の十二の畝ぜんぶにいっぺんに農薬散布をすることは、今の彼らの手数からはとうてい無理な話だ。

「ライス姉さん、行ってきます」

 シーディは、部屋の奥で薄い布団にくるまって四肢を固く身体に引きつけ横たわるすぐ上の姉、ライスに優しくそう声をかけて、そっと肩に触れた。

 ライスはただ「うう、うう」と唸ることしかできず、それでもせいいっぱいの思いをその唸りに乗せて、シーディの無事を念じているようだった。


 すでにとっぷりと暮れた頃、シーディとグレインは戻ってきた。

 顔にかぶったフードを取り払ったシーディの目は、すっかり疲れ切りながらも、やり遂げたという満足感に満ちていた。

 シーディは、かすかに笑みを浮かべ、こう言った。

「だいじょうぶ」

 みずからに言い聞かせるように、もう一度。

「だいじょうぶ、ちゃんと薬は撒いてきたから」

 グレインは脇で、靴に入った砂を慎重にポリ袋に落としている。

 いつもならばあまりお構いなしに靴の中を床にぶちまけ、それで両親や兄や姉にしこたま叱られ、しゅんとなっていた。なのに、助手として初めて外に出て帰ってきてからは、急に一回りもふたまわりも大人になったようだった。

「砂、棄ててくる」

 グレインの口調も、すっかり大人びている。

「ああ、気をつけて」

 少しの外出にも危険はいっぱいだ。玄関先で命を落とした者も数知れない、例え、何かと経験を積んだ大人でさえも。

 でも、今のグレインならばもうだいじょうぶだろう、そう漠然とおもい、ハーベストは、またシーディに目を向ける。

 外の作業ですっかり疲れ切っているはずなのに、彼女の目は、部屋のまん中で燃える焚火に吸い寄せられるように見入って、幸せそうな光を映しているのみだった。

「食べる?」

 ラランジェは重い腹を抱えながらも、残しておいた粥をそっと、シーディにすすめた。

「ありがとう」

 戻ってきたグレインにも、ラランジェは粥をすすめ、グレインは神妙な顔をしてその鉢を手にとった。


 束の間、平穏なる時が彼らの住居に満ちていた。


 これから後、私たちはどうなるのだろう。

 誰かがぽつりとつぶやいた。

 話せないと思っていたライスだったのかもしれないし、すでにことばを失っていた両親のどちらかだったのかもしれない。

 それに応えたのは、

「それでも私たちは生きるしかない。

 生きて、殖えていくしか」

 低い声ながらも、強く響く、シーディの声だった。

「世界は徐々に私たちに厳しくなっていく。あたかも、ますますしぶとくなる害虫に対しての農薬のように。

 私たちはあまりにも傲慢だ。害虫には死んでくれ、と願い、自らには、いつまでも生き残れますように、と。

 それでも、私たちは」

 うん、分かってる、そう口の中でつぶやき、ハーベストはゆっくりと彼女の手をとった。


 世界は終わろうとしていた。しかし、彼らの暮らしは続く。

 しぶとく、そしてしたたかに。




 了

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