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1-2 白い纏いの少女

 森のざわめきが収まってから暫くして、古木の洞から女性が出てきた。

 背の中ほどまである薄黄色の髪をくしくしと掻き乱し、その女性――エンヘダナはだらしなく大きなあくびをする。

 開かれた唇だけを軽く閉じただけなので、両頬の膨張を許した上、涙もいつになく増して湧いていた。

 エンヘダナは、背にある『灰色の翼』を横に伸ばし、次いで古傷だらけの両腕を天に向かって伸ばし切った。

 その後、再度あくびをする。

 漏れ出る涙を指で拭い払い、二度目のあくびは、果物を咀嚼するようにして噛み潰した。

 古き親友と夜更け過ぎまで呑み明かした事もあってか、それでも彼女の双眸はまだ眠たげで、今にも閉じようとしていた。眉間には眠気に抗わんとする皺が寄っていた。

「ねむ……」

 普段は清潔に整っているその長髪は乱れ、木の繊維で作られた袖のない衣服は着崩れており、右肩から腰のくびれまでを露出させていた。

 そんな自身の姿など気にも留めず、暫く覚束ない足取りで歩いていたが、ふと辺りを見回した。

 二、三度くらい周囲を見ると、幾つかの木々に変化を見出した。

 体格の良い成人男性を三人縦に積み立ててもまだ高いその木々の表皮には、僅かながら焦げ目がついている。

 焦げた範囲もそう大きいものではなく、小規模であった。最も燃えやすい葉っぱや小枝などに至っては、何の痕跡もなかった。

 エンヘダナはそうした木々の中から一本を選び、のっそのっそとゆったりとした足取りで近づく。

 西北の方から、生暖かい風が吹いているが、どうにも女性にとってはそれは好奇の対象外であったらしく、注意を向ける事はない。

「木が焦げてるわね」

 指の腹で何度か焦げた皮の表面を払い、付着した黒粉を舐め取っての発言だった。

 途端舌の表面を苦味が走り抜け、その尾を引く後味が堂々たる存在感を現わしていた。

 一辺倒苦味しかないこの木粉を、エンヘダナは苦い苦いと呟きながらも、至極平然とした態度で二、三、そしてダメ押しにもう一度舐めた。

 そうして口内で入念に舌を踊らせてその渋味を味わっていると、周辺に僅かに漂う臭さを感じ取った。

 ここ久しく嗅いだ事のない、彼女からすれば「香しいにおい」であるという、悪臭だ。

 どこから向かってくるのかと左側に鼻を向けると、臭いが一層強くなるのを感じ取った。

 更に、熱風が彼女の顔に吹き付けてきた。防ぐ間もなく、その上些かにも勢いは強いものであった。

 風に当てられた木々は、煤が塗された程度の痛みで済んでいたが、その辺りの植物は、黒みの灰の体と、煌々たる橙の脈動する物体に変化していた。

 異臭はこれら植物によるものと言えた。

 木の耐熱性がどうであれ、植物がこれほどの損傷を受ける風である。

 顔から直に受けたエンヘダナにも、それなりの痛みが襲い掛かるのは自明であった。

「……あっついわ」

 されど耐えていた――耐えていたというよりか、これは気にしていないというべきか。

 彼女はどうにも、眼前の「焦げ」だけに興味があるようだ。

 こうした危機感の希薄さは彼女だけに見られるものであるらしい。

 というのも、彼女以外の異形たちはそうとはいかなかったからである。

 そこら一帯を住処にしていた妖精たちなどは、突然の植物を焼く熱に驚き、忽ちに実体化し始めていた。

 脂汗を流し、泉から湧き上がるようにして現れ来る妖精たちは、一様に金髪橙眼(とうがん)の幼い裸体をしており、瑞々しげな柔肌は、そこらの木々の表皮と同色だ。

 かくして現れた乳白色の群れは、背に在る薄緑の硬質な羽をばたつかせて、一目散にある場所へと向かった。

 それは森の中心部、ひいてはこの絶海の孤島を中央から支配する大いなる樹木であった。

 エンヘダナは、しかし、彼女たちはおろかその大樹さえ気に留めず、ただ一心に一本の樹木に意識を向けていた。

 両掌を木肌に添え、その幹の奥へと両手を押し込めるようにして力を加える。

 その動きに合わせるようにして、大樹全体に幾何学的模様が浮かび上がる。

 根元から真上にまでびっちりと、本来の白さを忘れさせるほどの隙間なき緋色の紋様は、一度だけ脈動すると、程なくして再び白き表皮の内側へと消えていった。

 その間エンヘダナは瞳を閉じ、唇を僅かに動かしていた。その内容は、妖精でもなんとなくしか分かり得ぬ、複雑な重なりからなる言語で構成され、決して常人には知ることの叶わぬモノとなっていた。

 紋様の消失と同時にその知られざる詠唱も終わり、触れていた木からも手を離した。

 手を重ねていた処の焦げ目は、その時には影も形も無かった。

「珍しい事になったな。セラムに伝えるべきかなあ」

 首を傾げ、暫し黙考する。

 視線は焦げ目のあった処に止まっており、以後、新たな熱風――それも嫌な臭い付き――が彼女の頬や鼻頭を撫でるまで、彼女は固まり続けていた。とはいえ、当れど顔を顰める程度であった。

 二、三度風に当たった後に、あまりの悪臭にか、熱量にか、耐えかねた様子のエンヘダナがやおら反転し、何の挙動も見せずに赤く光らせた右手を振るった。

 ゆったりとした動きの割には、か細い腕で風を切る音は明確に聞こえていた。

 その刹那に、彼女の目の前に数本の白い樹木が地面から飛び出し、壁を形成した。エンヘダナの両腕で包めそうなほど細い樹木の集合体でありながら、樹皮はしっかりと幹に密着しており、罅割れもなく、かつ壁としては、目立った隙間風は通さぬほどの完成度で、見るからに強固だ。

 同時に熱風が吹き込み、壁の表面に強く当たった。どこか香ばしい臭いが微かに彼女の方へと流れたものの、先の二つはほぼ完全に遮断し得た。

 風が吹き終えるのを、草木の揺らぎが静まっていく様子から視認すると、今度は左に向き、両翼を用いて空に飛び上がった。

 彼女の道を作らせているかの如く、樹木の枝や葉が次々に引っ込んでいき、そうして生じる円形の空間を過ぎ去って行った。

 風を切って彼女が目指す場所は、恐らくは最も古いであろう、一人の守り人の棲み処であった。



 東へ飛行して数分、エンヘダナは眼下に開けた空間を見つけた。

 何百年も前から見続けてきた景色である。

 その場所へと翼をはためかせて行き、其処にある大きな切り株の中心に着地する。

 翼を身の内にしまい、少し右に足のつま先を向けた。

 体もその方角に向けると、胡座をかいてこちらを見る白髪の少女の姿があった。

「セラムーー!」

 鳶色の瞳を感情もなく向けていたその少女は、エンヘダナに大声で呼び掛けられると、ゆったりとした所作で立ち上がった。

「エダ、なんかいつになく忙しないね」

 のんびりしたセラムのことばに、「エダ」ことエンヘダナは僅かに笑う。

「森で火事が起きたのよ。それも明確に「炎」の火事よ」

 告げられた言葉を受け、少女の顔は変わらず、それでいて目の前の友を見据えていた。

 真剣であるのは確かに見て取れるのだが、エンヘダナは奇妙さを覚えた。言葉に出来るくらいには明らかな違和感であった。

 いつもなら一目散に異変の事を訊いてくるのに、とエンヘダナが首を傾げて言うと、

「ああ、もう終わった事だよ」

 とだけ言う。しかし視線は彼女をつかんで離さない。

「なら、なんで見つめているのさ」

「……なんでだと思う?」口元をちょっと愉快そうに緩めて、セラムは言った。

 その視線は、はじめエンヘダナの露出の多い胸元に向かっていたが、腰や太腿、再び胸元、そして顔と順々に行った。視る対象が変わる毎に、目つきの艶めかしさが露骨に増していった。

「……私にそういう趣味はないわよ」

「うん大丈夫。今のは分かった上でやった冗談だから」

 けろりと悪戯っ子な笑みを浮かべると、セラムは後頭部で腕を組んで見せる。

「それに、出来る事なら人間の男と結ばれたいから」

 あははと声だけで笑うセラムを見て、あきれた様子で息を吐くと、エンヘダナは地面に座り込んだ。

 セラムもまた合わせて胡座で座り込むと、何を思ったか、臀部の筋肉だけで、左右に動きながら向かいに座る友に迫る。

「はしたないわよ」と額を突っつかれつつも、互いの膝と膝とがぶつかり合う距離までセラムはよっせよっせと近づいた。

 口元の緩みは依然正さず、視線はまだエンヘダナを捉えていた。

「にしても、まだここに住んでるのね。寝床にして結構経つでしょうに……あんたの本収集の悪癖考慮したら、いつかここの床すぱんと抜けるわよ」

「この島の木だから、|三千冊程度≪あれくらい≫の本詰め込まれたって平気だよ、きっと」

 いやだから、それはないでしょ。

 ひとつ前の彼女の家の末路を回想しながら、エンヘダナは心の中で毒づいた。その家は、冊数が四桁を行く頃合になって最上階の床が割れ、次いで内壁に致命的な罅が生え、ほどなくして見事がらんどうの切り株が出来上がったのだった。

 忠告の意を込めて、エンヘダナは次のように言った。

「冗談言ってないで、そろそろ移ったらどう? この前の家みたいになっても知らないわよ。あと二代前の時みたいに、大量の武器を無尽蔵に飛ばしてきたり、地形を変えるような規模の古代魔法を対価なしにぶっ放したりする転生者に狙われたら、折角のコレクションも守り人としてのメンツも潰れちゃうわよ」

 背後に両腕を降ろすと、少女は眉間に皺を寄せる。

「でも本を出し入れするのめんどくさいんだよ。あ、一応新居は決めてあるよ。此処より広めの処を。でも遠いんだよね……」

「運搬くらい中央のジジイどもに頼めばいいじゃない。あいつらアンタにはべったべたに甘いんだから」

「あいつらどさくさに紛れて裸体芸術の本を盗んでくからやだ」

 拒否感いっぱいに口を曲げてそう言い、首を横に振った。

「何、あいつら「娘」にそんなみみっちい事しているの。それでも王なのかしらね」

 あっきれたわあ、とやけに大げさな声の大きさで言い放つ。

 困惑するように、辺りの木々がざわめいている。

「はっ、言い返せなんだか」

 嘲笑うようにして鼻を鳴らすエンヘダナを、セラムは幽かな笑みを以て見ていた。

「ねえエダ、さっきの火事の話なんだけどさ」

「知ってるなら伝えなくてもいいでしょ」ぴしゃりとそう言うが、セラムは気にせず問うのを続ける。

「……とはいうけどね、僕が見たのはあくまで「光」だし。よくて小火くらいだよ。まして炎と言える規模の火炎は、一度も見た事もないし、感知した覚えもない」

 まっさかあ、と言いかけてエンヘダナの口は静止した。

 セラムの表情から笑みが消えていたからだ。

「……セラムが分からなかったの? だってあんなに焼き焦げたにおいが漂ってたのよ、少なくとも熱を持ったに過ぎない光であんな焼き焦げ方が出来るとは思えないわ」

「焦がす事ならそれなりに高位の光魔術でも出来る。最近の魔術なんかは色だって自在に変えられるらしいからね。でも僕はそういうものも容易く見破る事が出来る……知ってるでしょ」

 言わんとしていることはエンヘダナにも分かっていた。それゆえに、隠していた一抹の不安を抑えられなかった。

 セラムは、彼女の顔を僅かな時間だけ黙視すると、そのまま立ち上がった。

 裸足だった両足には、それまで影も形もなかった真っ白なサンダルがあり、煌々とした輝きを放つ深紅の真円が、踝の先端に浮遊していた。

 そのまま彼女が足下を蹴ると、軽々と空を跳び――そのまま浮遊していた。

 外套の変化はその時に瞬時に始まり、そして終わった。

 白さの目立つ、荒いとも細かとも言えぬ不思議な布質の装束が、忽ちに黒い線で構成された複雑怪奇な幾何学模様と五芒星で彩られ、これもまた赤く脈動していた。

「……それは、たぶん見過ごせない類のものだ。すぐ『対処』する」

 呟くように言った後、セラムは足場なき地面を、強く蹴った。

 赤い閃光が尾を引いて空を駆けていった。

 エンヘダナも後を追うようにして翼を展開し、飛行を始めた。





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