鏡のない部屋
世の中理不尽なことばかりで平然と渡っていくにはかなりの胆力を要求されるが、もちろんそんなものは持ち合わせちゃいない。尻尾を巻いて部屋にこもり、なるべく他人に会わないように努力の限りを尽くしていたところ、両親とおばあちゃんを事故で失い一つ年下の弟と二人だけになった。
保険金が入り慰謝料が入り、親の退職金も入った。家のローンも終わっていたし親族もいない上にもともと多少の資産があった。俺は更に勤労意欲を失ったが、俺と違って優秀な弟もなぜだか今までの仕事を辞めてしまった。
「超絶もったいないだろう」
弟は肩をすくめただけだった。だけど新しい仕事を始めた。探偵だ。
「謎解いたりするわけか」
「まさか。そんな依頼はないだろう。ほとんど人探しとか不倫捜査だ」
「勝手になれるもんなのか」
「県の公安に登録済みだ」
「そんな零細やっていけるのか」
「大手の下請け契約してきた」
おかげで休みも確保できるらしい。大したもんだと感心しつつなるべく関わらないようにしていた。部屋は離れていたし生活時間帯も違うので同居ではあるがそれほど差し障りがなかった。
労働は非常に尊いと思う。ぜひ離れた所で拝んでおきたい。いや家庭内の雑事ぐらいは協力しようと思う。そう思うがやる気がないのでなかなか苦労した。が、今では割とやっている。
「最近、あちこちが掃除されているのだがあんたか」
リビングで久しぶりに顔を合わせた弟が尋ねるので胸を張って答えた。
「他に誰がいる。当然俺だ」
彼は首を傾げた。
「掃除なんかできたのか」
「あたりまえだ。自分の部屋はもとからしている」
今まではおばあちゃんがその他をやってくれていた。
「そんな能力があるとは信じられない」
「失敬なやつだな。画期的な手段でモチベーションをあげて実行している」
「どうやって?」
答えるかどうか躊躇したが、まあ天才的発想を誇示したい気分の方が勝った。
「自慢ではないが俺は半ひきこもりなのでパソコンの前で過ごす時間が長い」
「確かに自慢はできないな」
「その結果として、ネットで可愛い二次元キャラに出会える確率も高いわけだ」
「......そうだろうな」
「可愛い画像を見ると胸がわくわくするが、これが本当に心の底からの気持ちかちょっとした愛らしさにつられただけかよく見極めなければならない」
「なぜだよ」
「毎回その気になっていたら身が持たない」
弟は何を言い出すんだこいつ、と言った目で俺を見ている。その視線を尊敬に変えてやろうと俺は続けた。
「だから、キャラを眺めて心がぴょんぴょんしたらとりあえず掃除をすることにした」
「は?」
こいつ、思ったより理解力がないなあと内心呆れながら説明した。
「だから胸がきゅんとするたびにどこか一カ所掃除するんだ。掃除を終えて戻ってきても胸がドキドキするようだったらそれは本物だと思う」
彼はなんだか妙なものを観察するように目を細めている。まだ意味がよくわからないらしい。真っ当な大学を出ても地頭のよさはまた別なのかもしれない。
「俺はこれを萌え掃除と名付けた。布教してくれてもかまわない」
「いや、いい」
「遠慮するな。次は萌え洗濯について説明してやろう」
「......報告書をまとめなければならないので」
日常に追われる労働者はせわしなく立ち上がった。ああ、学生時代「せわしなく」を使って短文を作りなさいって問題が出たことがある。俺はすぐさま「せわし泣く、のび太笑う」と作り上げたのだが、シャレのわからない先生は無情にもピンをつけた。
「そうか。俺はちょっと出てくる」
「どこへだ?」
「近くのレンタル屋だ」
ああ、と彼はうなずいた。うちから自転車で五分ほど走った所にDVDとコミックをレンタルでき、なおかつスロットコーナーのある店がある。スロットで出るコインは換金できないが、コミックやDVDを借りることができる。
俺は少々メンタル面に問題があって、一人で飲食店などに入れないのだがここやコンビニなら大丈夫だ。
すでに外は暗かった。好都合だ。闇にまぎれるようになるべく人気のない道を選んで店に行った。
店は明るく、レンタルコーナーは人が多かったのでスロットの方を覗くと、三十台ほどあるのに人は四人ほどしかいなかった。一番人と離れた場所を選んで小銭を入れしばらく遊んでいると大当たりしてクレジットの表示が上がってきた。音が激しいので、遠くにいた十八くらいの男がうらやましそうにこちらを見た。
連続でそれを繰り返し、コインを何枚か出した。それを握ってコミックの所へ行き十冊選んでコインを一枚支払った。
裏に止めた自転車の所に行くと呼び止められた。
「兄ちゃん、ちょっと顔貸しな」
スロットの所にいた男だった。背は百七十二の俺より少し高い。肩も腕も当社比一.二倍ほどだ。筋肉質で物騒な感じだった。
人と話すのが苦手だ。いつも足が震えそうになる。なのにこんな普通だったらもっと焦りそうな状況ほどなぜだかいつもより冷めてしまう。
俺は相手に目を合わさずに答えた。
「......俺は幼児アニメの食料供給型ヒーローではない」
わけがわからなかったらしく男はちょっと黙った。自転車の前カゴにコミックを入れていると突然気づいたらしく怒鳴った。
「あいつは貸すんじゃなくてくれるだろっ」
「どちらにしても違うから関係ない」
そう答えて鍵を外そうとかがみ込んだらいきなり背中を蹴られた。
危うく自転車に顔を突っ込む所だが地面に手をついて耐え、振り向いて男をにらんだ。
「何をする!」
「心が狭いっ」
いきなり蹴ったあげくに何を求めているんだ。俺は仏さまでもこいつのお母さんでもない。
「あたりまえだろっ! 顔なんか貸して利子がついたら大顔になってバランスが崩れる!」
「利子なんかつけるわけないだろ! 小顔のまんま返してやらあ!」
「知らないやつに顔なんか貸すかっ」
「なんでもいいから残りのコインよこせ! 使ったの一枚だけだろうっ」
かつあげか。二十四にもなってかつあげにあってるのか。しかも金ではなくコインか。いくら俺が半ひきこもりのニートだからって情けなさ過ぎだろう。
「自分で勝手にいくらでも稼ぎだせっ」
「できねえからお願いしてんだろっ」
にらみ合っていたら車のヘッドライトが俺たちを照らし、大きな車がぐいと接近して止まった。
かつあげ男はぎょっとして走って逃げた。
ライトをつけたまま車から運転していた男が降りてきた。身長も体もさっきの男と同じくらいだった。年齢はよくわからないが三十ぐらいじゃないかと思う。
男はしげしげと俺の顔を眺め、確信を持って尋ねた。
「佐々木明裕さまですね」
俺はうなずかずに相手を見た。かまわずに男は話を続けた。
「佐々木佑二さまのご紹介にあずかりました。私はこういう者です」
彼は両手で名刺を渡してくれた。
住宅地から離れてぽつんと山の中腹にあるその家は大きすぎるほどではなかったが、外観はよかった。薄灰色の屋根に白い壁、玄関の扉はベージュ色だ。戸を開けてもらうとタイルはアイボリーで壁は白いしっくいだ。
中に上がると床には全て毛足の短い白いカーペットが敷き詰めてある。
扉がいくつかあるが、取っ手は全部淡い色合いの白木でできている。全体的には色がないが、壁にはアート系の絵が飾ってある。が、不思議なことに額はついているのにガラスははまっていない。
玄関の辺りにはいくつか窓があったが、そのどれもが白いカーテンが二重に引かれていた。俺は奥の部屋に案内された。白い壁紙の張られた扉を開くと大きな窓あるが、ここも白いカーテンがきっちりと閉まっていた。
画家のアトリエだ。壁はやはり白いしっくいで塗られていてそこにたくさんの絵がかかっている。こちらにもガラスはない。部屋の中央にイーゼルがあってキャンバスが載っているが、何か描きかけた上に白の絵の具が感情を押し付けたかのようにむちゃくちゃに塗られている。
「わざわざ来てもらってすみません」
隅の方にあるソファーも白だ。その前の安楽椅子に座った白い服の男が、力なくこちらを見て頭を下げた。山田一郎という人だ。
大きな男だ。背も高いけれど肥ってもいる。シロクマみたいだ。だけど憂いに満ちた顔は知性的な感じで見苦しくはない。
「来るにはきましたが、お役には立てないと思いますよ」
男があまりに悲しそうなのでこちらはかえって精神的圧迫が少なく、かまずにそう言うことができた。さっき、この男のもとで働く鈴木さんの前では混乱してどもっていたら強引に車に乗せられた。弟からそう指示されたらしい。
「いえ、そうだとしても時給程度はお支払い致します。ボランティアで話相手をするぐらいのつもりでいてください」
彼は多少名の売れたアーティストらしいが常識はずれな感じはしない。だけど探偵の兄を夜に強引に引っ張って来る程度には錯乱しているらしい。
鈴木さんがお茶を運んできてそれぞれの前に置きすぐに下がった。わずかに青みを帯びたその茶碗は青磁なんかじゃなくぼってりとしていたが、持ちやすく熱の伝え方もやわらかかった。
男は大手の興信所の名を挙げた。弟が関わっている所だ。そこにいったん依頼をして調べてもらったがはかばかしい結果を得られなかったそうだ。
「その時に大変優秀な方だと佑二さんのことを聞いて、ぜひ調べていただこうと思ったのです。が、裕二さんはむしろ明裕さんの方が向いていると強く主張されたそうで」
レンタル屋にいる間にそんなやり取りがあり、携帯でこの人の承諾を得た鈴木さんが俺を捕獲したわけだ。
弟はなんで探偵ですらない半ひきこもりの兄にそんな面倒を押し付けるのだ。いやがらせか。
「......お話を伺います」
聞くだけ聞いて、無理って答えてさっさと帰ろう。
アーティストの山田さんはほっとしたような顔をするとテーブルの上に伏せてあった写真立てを持ち上げた。
「妻の梨江です」
「美しい方ですね」
本当に凄い美人だ。色白で大きな瞳は優しそうで、鼻の形は主張が強くなくて品がよく唇は厚すぎず薄すぎず、顔を取り巻く黒髪は癖もなくさらりと肩までかかっている。
「ええ。とても美しかった。私は画廊で初めて彼女に会いましたが、どんな作品もかなわないと思いました」
一目惚れした彼は必死にアプローチし、どうにか結婚にたどり着くことができた。
「最初に惹かれたのは確かに顔です。私の全美意識が焦がれるように彼女を求めました。この美しさなら性格が悪くても金がかかってもいいとさえ思いました」
ところが一緒に暮らしてみると、梨江さんは顔以上に性格のいい素晴らしい人だった。少し内気だけど温かな人柄で、なによりも山田氏を本気で愛した。
「顔だけでなく声も落ち着きがあってきれいでした。面白いことがあると玉を転がすみたいに笑ってくれました」
脳内で運動会の玉転がしが転がっていくがたぶん違う。
「彼女が二十三、私が三十歳の時結婚しました。子どもは生まれなかったけれど四年間ずっと幸せでした。ところが彼女が交通事故にあってしまい顔に大ケガをしてったのです。形成手術も試みたのですがはかばかしくなく、この美貌は失われてしまいました」
失明したわけではないが、目にも多少傷を受けてそこに包帯をしていた彼女は鏡を見ることができなかった。その時乞われて彼は真実を話した。
「歪んだ彼女の顔を見ても私は、不思議なぐらい気持ちが冷めませんでした。大好きなあの人の顔が失われたことは悲しかったけれど、命が助かった喜びの方が大きかったのです」
そのことを話すと彼女は傷を悪くするほど泣き、自分を捨ててくれるようにと頼んだ。
「私の職業のため、美意識を損ねるような女が傍にいることを嫌がったのです。それが自分であっても」
彼は必死に説得した。彼女なしの生活など考えることもできなかった。たとえ容姿が醜くなったとしても梨江さんにに傍にいてもらいたかった。最初に口説いたときよりも必死になって言いつのった。
彼女はようやく了承した。だが条件を挙げた。それを聞いて彼は怒った。
「一生自分の顔を見ないことを要求しました。私は怒り狂いました。そんなにこちらを信用できないのかと」
結局梨江さんは譲歩した。顔も隠さない。山田氏の傍にもいる。だが、けして自分に鏡を見せないでほしい。自分はそれに耐えられないだろうと。
「私はそれを約束し、家を大改造しました。全ての鏡を捨て、姿を映しそうな物も全て変えるか加工しました。入院中は目の包帯を外させず、退院の時は麻酔で眠っている間に運びました」
彼女はそれから一年以上生きた。もう安心だ、と彼は思った。が、先週彼女は自殺してしまった。
「私は知りたいのです。何が彼女を追いつめて殺したのかを。自殺の前日、彼女は私の腕の中で笑っていたのです」
沈痛な面持ちだった。やはり家族を亡くした俺は心の底から同情したが、なぜ弟の主張にのって俺がここに呼ばれたかが気になって尋ねてみた。山田氏は少し申し訳なさそうな顔をした。
「梨江はもともと内気な方でしたが、事故にあってからは完全に家に閉じこもっていました。佑二さんは、ひきこもりの気持ちはひきこもりの方がわかるはずだと......」
失敬な。俺はひきこもり気味ではあるがパーフェクトなひきこもりではない。おまけに性別さえ違うじゃないか。ただ、佑二には怒りを感じるがわらをもつかむ気持ちのこの人を責めようとは思わなかった。
「案内していただけますか」
気持ちを抑えて彼に告げた。山田氏はすぐに立ち上がり先導した。
「彼女はほとんど二階で過ごしました。ですが一応」
一階はアトリエの他絵画を所蔵する部屋、簡易シャワーつきの鈴木さんの部屋、トイレ、多目的に使える和室、倉庫的な部屋などがある。そのどれも鏡めいた物は置いていない。
「彼女はこの部屋を開けたことはありません。鈴木に用事がある時はインターホンで依頼しました」
一応見せてもらうと八畳ほどの普通の洋室で机とソファーがある。机の上にはパソコンがあったがこれはこの家で唯一の物らしい。
「元は私も持っていましたが、パネルが鏡となってしまう事態を避けるために処分しました。必要な時はこの部屋のを使います。同様にテレビも今はありません」
さすがにスマホはもっているらしいが、彼女の目に入る所では使っていないそうだ。
「最近では画材も日常品の注文もこれでします。時たま打ち間違えて違う物が届き、彼女にばれてよく笑われました」
「品物を間違ったのですか」
「というより色やサイズですね。届いてもMサイズのパンツなどはけません。Lでも無理だが半月ほど前はなんとSサイズのTシャツを頼んでしまいました。色は白を好むので妻の服まで全て白にさせているのですが、一ヶ月前は白の靴下と間違えてピンクを頼みましたし、二日前......彼女の亡くなった日の二日前です、に届いたパンツは黒でした」
「返却したんですね」
「いえ、彼女が見る度に口元をほころばすのが楽しくて色違いはそのまま使い、Mサイズのパンツは鈴木が、Tシャツは彼女が着ました」
懐かしそうに遠くを見つめている。ほんの少しだけ前の日常。永遠に傍にいると思えた家族。俺もおばあちゃんを思い出して切なくなった。
どの部屋も壁はしっくいだ。わざと刷毛目を強く残してある。サッシもよく艶消しをした白だ。床も全て白のカーペットが敷かれている。これは二階も同じだった。
階段を上がるとリビングが大きく床を占めている。対面のキッチンが付属している。まずそこから見てみるとシンクやIHヒーターもステンレスじゃなくてよくつや消しをした合成素材だ。レードルやカトラリーさえ樹脂や木でできている。包丁もセラミックだ。水道さえ何か塗料を塗られていて金属を直には見せない。
電子レンジは置いてなかった。食器棚はガラスの代わりに布が張ってある。冷蔵庫にも張り付けてある。
リビングの家具は白木造りだ。どれもニスは塗られていず素朴な温かみを感じさせる。ソファーは白い布ばりだ。窓は一階同様白のカーテンが二重に引いてある。普通ならレースのカーテンを掛ける内側の方も濃い白の耐火性のカーテンだ。外側のはもっと地の厚い白のカーテンだ。
部屋の隅には本棚があり、白いカバーをかけて本が並んでいる。タイトルは書いてあるが美術関係の本や画集が多い。別の隅には籐製のカゴが二つあり、片方に刺繍の道具、もう一つには毛糸が入っていた。テーブルの上にはラジオが乗っている。
南側の上方に茶色の枠の時計がかかっているがガラスは省かれている。
「テレビも置かなくなったのでラジオを聞いたり、本を読んだり、手芸をしたりして過ごしていました。家事はしなくともよいと言ったのですが、暇だからと料理も掃除も洗濯もみなやってくれました」
俺にももらえないだろうかその人。ついさっきの写真の美人を思い浮かべてうっとりする。が、風呂場に案内されて鳥肌が立った。
「......ここで死にました。ええ、湯船につかったまま包丁で手首を切って」
ぞっとしたが表情に出ないように顔を引き締めた。
今はその跡はない。空っぽの白いバスタブがあるだけだ。もちろんこれも布目のような加工がしてある。
「それまでは毎日使っていましたが、いまは鈴木の部屋のシャワーですませています」
見回すと、鏡がないことや窓ガラスは他の窓と同様に凹凸のある面を向けられた磨りガラスであること、風呂なのにカーテンがかかっていることに気づいた。さすがにビニールだが白だ。
シャンプーなどの容器はざらざらとした塗料が吹き付けてある。洗面器やシャワーヘッドも同様だ。
隣の洗面所も鏡はない。体重計もない。布の張られたドラム式の洗濯機と、洗濯物用らしい籐製の大きなかごと、うちにあるのと同じような十センチほどのプラスチックチェーンに洗濯バサミのついた折りたたみ式の洗濯物干しと十本ほどのハンガーがある。
そこを出て寝室を見せてもらう。ここの窓は天井に近い部分に細長くあるけれど、やはりカーテンがかけられている。
「磨りガラスのこちらの面には映らないと言われてましたがやはり不安で」
「ここの窓は全て磨りガラスなのですか」
「いえ、リビングの南側にあるベランダに通じる窓だけは普通の物です。昼間外が見たい時もあるからと頼まれました。明度差で鏡になるとまずいので、四時半以降は絶対にカーテンを開けないように約束させました」
外が暗く中が明るい時は普通のガラスは人影を映す。そのことを心配した彼はベランダに時間で点灯する強力なライトもつけ対策もしたそうだ。
ただ彼女は素直な性格なので、言われた通りその時間以降に開けることは一度もなかった。
「ベランダの床も樹脂製の素材ですり目がある物を使い、たとえ太陽が燦々と照る日でも雨で床が濡れている日でも映らないように気をつけました」
「やはり鏡が彼女を殺したと思うのですか」
俺の問いに山田氏は陰鬱な顔のままうなずく。
「そうとしか考えられません」
「ハンドバックの中は? 手鏡やコンパクトについてるとか」
「戻る前に彼女の依頼で化粧品などは全て処分しました」
またリビングに戻る。勧められてソファーに座ると山田氏は部屋の北側からテーブル前の椅子を引きずってきて俺の前に座った。
「......その日の様子を聞かせてもらえますか」
たぶんこの人は吐き出した方がいい。自分でも無意識にそう望んでいて知らない相手を呼んだんだろう。彼はうなずき、話を始めた。
「よく晴れた日でした。いつものように家事をこなす彼女とごく普通に会話し、十時頃アトリエに行って仕事をし、十三時に昼食を食べに上がりました」
「昼食のメニューは」
「チャーハンとわかめスープとサラダでした。デザートは手作りの杏仁豆腐でした」
俺も二次元嫁を多数持つ身の上だがご飯は作ってくれない。うらやましい......いや、その人はもういないんだ。嫁の一人がいきなり彼氏持ちになるより辛いだろうそれは。
「料理の素材などは?」
「注文する物もありますが、大抵は私か鈴木が買いにいきます」
「鈴木さんは住み込みなのですか?」
「いえ、通いです。先週からは長くいてくれていますが」
話がそれてしまったので戻して尋ねると、十五時まで家にいてそれから鈴木さんと外出したそうだ。
「先々週に私の個展がありまして、その成功を祝ってささやかな祝賀会が催されていたのです。ついでに事前に打ち合わせることやあいさつに向かうべき所があったので早めに出ました。玄関まで見送ってくれる彼女はいつもと変わりがありませんでした」
なのに十二時頃帰った時には風呂場で亡くなっていたらしい。山田氏は青くなっていたがどうにか話を続けた。やめようとしたが「聞いてください」と小声で言った。
「この状態になっての宴会は初めてでしたか」
「いえ。何度もありました。最初のうちはすぐに帰っていたのですが彼女に諭されて、その後は程々につきあって帰っています」
もっと遅くなることもあったが、いつも温かく迎えてくれたそうだ。
「奥さんは来客に会ったりしましたか」
「いいえ。事故に会ってからは一切会っていません。インターホンが鳴っても彼女は出ないことにしていました。本人の意向で携帯は解約しましたし、無理に訪れた友人は会わずに帰ってもらいました。家の電話で話すことは多少ありましたが、メールが必要なら私の携帯か鈴木の部屋のパソコンに送ってもらい読み上げることにしました」
職業柄山田氏は在宅していることが多いし、鈴木さんもいつもは九時から十九時ぐらいまで仕事をしてその後帰宅する。俺はちょっと声をひそめて尋ねてみた。
「念のために聞きますが、鈴木さんが奥さんに横恋慕しているという可能性はありますか」
彼は首を横に振った。
「ありません。実は彼は知り合いの息子で子どもの時から知っていますが、女性の趣味は梨江のようなしっとりと落ち着いたタイプよりも、幼くてわがままで甘えてくるようなタイプです」
その上去年そんな女性と結婚してラブラブな新婚生活だそうだ。
「それに打ち合わせの時も祝賀会もいっしょでした」
考慮に入れなくてもいいか。いや、そんなタイプと結婚したんなら金をほしがって誰かの何らかの指示に従ったのかもしれない。
「梨江さんのことを憎んでいる人はいましたか」
「以前はうらやんでいる者はいたでしょうが事故の後そんな人がいたとも思えません。過剰に興味を示してアプローチして来る友人は私が強引に断らせました」
山田氏からは微塵の嘘も感じない。いや、嘘が上手いタイプだったらわからないけど。だけどそうだったらこんな妙な依頼はしないだろう。言葉に詰まって立ち上がり、南側の窓を開けてみた。
あるのは確かに強い照明だがおしゃれな形で綺麗な真珠色の光をこぼしている。三十センチほどのそれは窓近くの天井の張り出し分に二つ、ベランダの端の壁に二つついている。
ベランダに踏み出してみる。柵の下の外壁にも外を照らす形で同じライトがいくつかついている。手入れのいい庭の向こうは笹のいっぱい生えた山の下部で、その下は田んぼになっている。
田んぼは稲が青々としている。一月前だったら夜は鏡になったかもしれないが、顔が映るほどは近くない。
戻ろうとして目に入ったのは白木の物干竿だ。うちにあるのより位置が高い。俺の身長よりも高い。
「これ、奥さんが使うには高すぎませんでしたか」
指差して尋ねると山田氏はちょっとだけ頬を緩めた。
「百八十センチあります。これは竿掛けはもともと塗装してあったので改造前のままです。新婚当時家を建てた時、全ての家事を自分でやるつもりだったので」
彼の身長は百八十二センチだそうだ。ちょうどいいと思ったら、額にぶち当たったりして全然よくなかったそうだ。
「結局その当時から彼女がやってくれました。百六十センチの妻には高すぎるのですが、伸び上がって干すさまがとても可愛くてそのままにしていました」
そこを見ながら彼は突然涙を流した。自分でも思いがけなかったのだろう、慌ててポケットに手を入れて白いハンカチを取り出しそれをぬぐった。
「最後の日も洗濯物を干しながら、ソファーにいる私に竿を毎回拭くのは面倒だから直接は干さないとか他愛もないことを話して、無精者とからかった私に笑って、こちらを見ながら後ろ手に戸とカーテンをいっしょに閉めて傍にやって来てそのままかごを置くと身を寄せて顎を私の肩にのせたんです。そして額をこつんと頬にあてて、飲みすぎちゃダメよ、って......」
爆発しろと思ってやれないことが辛かった。黙って二人リビングに戻り元の席に座った。
いつもだったら俺はそうそう見知らぬ人と話せない。だけど今夜は普通に話している。
ーーーー劣等感を感じる気さえ起きないほど気の毒な状況だからか
皮肉な視線を自分に向けかけて慌てて自重し、呑み込んで彼の仕事について少し聞いてみた。こちらについてはわかりやすくていねいに話して、創作上の苦労やインスピレーションの招き方なども語ってくれた。
「人によっていろいろでしょうが私の場合はこだわりと好奇心ですね」
「身の回りの色を白にそろえることとか?」
「そうですね。それだって妻の微笑みのためには簡単に投げ捨てる程度なんですが」
今は全てのルートが彼女につながるらしい。
「好奇心は何に向けるのですか」
少なくともあまり人には向かわないらしい。俺は自分のことを聞かれるのが苦手だがこの人は尋ねないでくれたのでほっとしている。
「ええ、たとえば貰い物のお菓子があるとしますね。それが味を知っている物ならいいのですよ。だが目新しいものだったらどうしても自分が抑えられない。くれた人が帰った瞬間、食事前だったとしても食べています」
それが創作に何か関わりがあるのだろうか。
「未知の感覚が自分に与えられる。その延長上で、これをこうすればこういう心理を他者にもたらすなど仮定した瞬間に試したくなります。それが日常の些事にも来ていて、たとえば届いたばかりの物もその日か、少なくとも次の日には試しますね」
アーティストの考えることはよくわからんが、新しい絵の具なんかが届いたらすぐ使ってみるって解釈でいいんだろう。
「でもお菓子のことはよく彼女に叱られました」
そりゃそうだ。その体格で食事前にお菓子を食べるのはマズいと思う。だけど彼を叱る人はもういない。俺の内心の同情に気づいたわけではないと思うが、彼もまた顔を曇らせてその話をやめた。
「こんな風にどんなことでも妻に結びついているのですよ。いきなり断ち切られても納得がいかない。時が経てば少しは落ち着くと知人はみな言うのですが信じられませんね」
「そうですね」
家族を亡くした俺もその気持ちはよくわかる。かといって毎日泣いて過ごしているわけでもない。なんだか理不尽だと思いながら欠落感に目を背けるだけだ。
山田氏はまっすぐに俺の目を見た。俺は珍しく他人の視線を受け止めた。
「彼女は衝動的に死を選んでしまったのだと思います。それでも私が永遠に悲しむことを望まないとも思います。そんな女ではなかった。優しい人でした。だから私はどうにか立ち直りたい。だからそのために、彼女が何に追いつめられたかを知りたい。どんなに辛くともその起点を知りたいのです」
協力してください、と小さな声で言った。俺は黙ってうなずき何となく立ち上がった。視線を巡らしても何も得ることができない。が、思いついて風呂場の方に向かった。山田氏は後をついてくる。
風呂の電気をつけてバスタブを見た。給湯システムがその上の壁にある。
「お湯をためたらそこは鏡面になりませんか?」
「いえ。これは自動給湯で勢いよく噴き出しますし、同時にジェットバス機能もつきますので鏡面にはなり得ないのです」
おまけに風呂掃除は山田氏の仕事だった。
がっかりしたけど未練たらしく視線を巡らし、洗面所に上がってもきょろきょろしてみた。
リビングに帰ってもう一度順々にいろいろなことを思い出してみる。
山田氏は大人しく口をつぐんでいる。
俺は必死に考えた。普段使わない脳みそを酷使した。
そしてふいに思いついた。完全に論理的だ。
「奥さんを殺したのが何かわかりましたよ」
彼は驚いた顔で俺を見た。
ーーーー読者への挑戦状ーーーー
はたして梨江夫人は鏡によって死に至ったのだろうか。だとしたらその鏡はどこにあったのか、あるいはどこにどのように生成されたのか。
全ての条件はそろっている。次に進む前に、謎解きの趣味をお持ちの方にはぜひこの謎を解明していただきたい。なお、ヒントは文中にあるとみなして出さない。
ーーーーーーーーーーーーーーー
山田氏はびっくりしたままキッチンに行き、艶消し加工のポットで湯を沸かし始めた。リーフティーをしばらく探していたが見つからなかったらしくティーバッグで紅茶を入れてくれた。
湯気が立ち上る。紅茶は美しい赤で少しだけ心を落ち着かせてくれた。俺は思い切って山田氏の目を見つめ、なるべく穏やかな声を出した。
「殺したものはわかりましたが、同時に誰にも殺意はなかったこともわかりました。教える代わりに約束してください。誰にもその怒りをぶつけないと」
彼は少し震え、躊躇していたがやがてうなずいた。
「......それが本当に彼女に悪意を向けたためでなかったとしたら」
「保証します。そんな意志は誰一人持っていなかったのです。あなたの奥さんを殺したのは............パンツです」
俺は立ち上がりカーテンを開けた。ベランダはライトに照らされて明るく輝いている。
「今は夜だが明るいので窓に映像は映りませんね。同様にいつもは奥さんが窓辺に近づくことができる時間帯は明るくて映ってはいなかった。それにあなたも奥さんも大して注意を払っていなかった。先程あなたは亡くなった日の朝彼女が洗濯物を干し、後ろ手で戸とカーテンをいっしょに閉めたと言いましたね。その時窓を見ましたか」
「......いいえ。彼女と話すのに夢中でしたし」
「竿に直接干さないとも言いましたね。下着なんかは洗面所にある折りたたみ式の洗濯物干を使ったんじゃありませんか」
「そうです。タオルと私の下着を外側に彼女のを中に」
「竿は百八十センチですが物干は十センチぐらいのチェーンがついていました。竿に引っ掛ける部分も入れるともう少し下がるでしょう。そして、あなたは大きい。あなたが使用するパンツも相当大きいものだと思います」
山田氏はがたがたと震えている。俺も胃が痛くなってきたがここでやめるわけにもいかない。
「干されたパンツはちょうど奥さんの目の位置に来ると思います。普段ならそれほど困ることもなかった。あなたは白を愛用していたわけですから。だが彼女の死の二日前に黒いパンツが届いた。あなたは新しいものはすぐに試したいたちだと言っていた。だけど風呂場で毎日あの風呂を使っていたことも話していた。風呂に入る前に新しいパンツを着たとは思えない。その日入浴後にそれをはき次の日入浴前にそれを脱いだ。そして当日奥さんはそれを洗濯して干したのです」
紅茶を一口飲んだ。味がしない。温度もまるで感じない。
「あなたは十五時頃出かけ、奥さんはその後洗濯物を取り入れるためのカーテンを開けた。黒の大きな布地は明度差と全く同じ効果を生み出し、ガラスに奥さんの顔がはっきり映ってしまった。奥さんはショックを受けてしまったのです」
彼は自分の両手の中に顔を埋めた。そのままかすれた声を上げた。
「せめて朝、気づいていれば......」
「約束通り自分にも怒りを向けないでください。向けるんだったらパンツに向けてください。それだけでいいんです」
俺は沈痛な面持ちで彼を眺めた。低くしゃがれた嗚咽が寂しい室内にいつまでも響いていた。