007
「やる気になったみたいね。良い顔してるわよ」
「ありがとよ」
これから事件の片棒を担ごうとしている時にこの言葉は、褒め言葉として受け取っても良いのか悩ましいところだが、そういうことにしておく。
大量の革靴の入ったベッドシーツを抱え上げ、俺は大きく助走を付ける。当然、革靴の重みで思うような理想の助走は付けられないが、今はなんとなく気持ちが背中の後押しをしてくれるようだった。
「行っけええええええ」
そして、遠心力を利用し、屋上から空へと放り出した。
高々に放り投げられた全生徒の革靴の片足は、綺麗な放物線を描き、雨の様にして、校庭へ避難していた教師と、学生たちの頭上に降り掛かる。落下するまでわずか数秒のことだった。わずか数秒のことだったが、俺の瞳にはその数秒間はとてもゆっくりと過ぎていき、そしてその数秒間は輝いて映っていた。
これは後日談だ。
「なあそう言えば、あの時の作戦名のタラリアってどういう意味なんだ?」
「あんた、そんなことも知らないの? あれはね、ギリシャ神話に出てくる伝令の神ヘルメスがペルセウスに与えられた金の翼をもつ魔法の靴のことよ。この靴を履くと鷲よりも速く空を飛べるなんて言われてて、意味合いからすればちょっと違うけど、まあこういうのは勢いが大事よね。常識よ、知らないの?」
「知るわけ無いだろ。一般教養外のことを、しかもギリシャ神話は、常識とは呼ばん。ほとんどの人が非常識になる」
思い返せばあの時の革靴は、正午近くの太陽を背に輝きながら、間違いなく力強く羽ばたいていた。鷲より速くはないけれど、格好だって良くはないけれど、それでも力強く逞しく金の翼で飛んでいた。
そして、時は戻る。
恐らく、今頃地上にいる奴らの悲鳴や怒号が交錯しているのだろう。だけど、俺の耳にはそれらは一切入ってはこなかった。一切の音が耳の中に入って来ない程に、俺の体には未だかつてない感情が込み上げていた。
その余韻に浸っていると、逢坂に突然手を掴まれ、今立っている地面から足を剥がされるようにして、その場から半ば無理矢理に離れさせられた。
「ぼーっとしてないで、さっさと行くわよ。投げ終わったら作戦終了じゃないのよ。今すぐこの場から逃げて、誰にも気付かれないことまでが作戦・タラリアよ。しっかりしなさいよね」
「遠足みたいに言うな」
「あんた、面白いこと言うわね」
「うるせい」
【作戦その五・バレずに逃げる】
俺の手を引いて、一緒に屋上から逃げていく逢坂の表情は、眩しいくらいに光り輝く笑顔だった。
そう、笑顔だったのだ。
とても今、悪事を働いていたような顔ではない。何かに挑んで勝ち得たかの様な表情だ。俺は逢坂のこの表情を忘れることはないだろう。眩しいくらいに光り輝くあの笑顔を。
しかし、冷静になって考えてみれば不味いことばかりだ。全校生徒の革靴を片足だけ盗み出し、それを屋上から投げているわけだから、もしかしたら怪我をした人が出て来ても可笑しくはない。
それに気になる音が聞こえてくる。
「なあ、サイレンの音が聞こえないか?」
「確かにそうね。今年は本格的なのね」
たかだか、避難訓練程度にここまで本格的にやるのだろうかと疑問に思いながらも、心のどこかでは、この際そんなことなどどうでも良いかと言ういい加減な気持ちも湧き上がっていた。
こうなってしまった以上、最早どうでも良いことなのだ。
避難訓練の影響なのか、防火シャッターが降りており、一本道で裏門まで真っ直ぐに抜け出すことが出来た。そして、なんとか誰とも遭遇することなく、学校から抜け出し、人気のない通学路まで逃げ切り、晴れて作戦・タラリアを完遂に至った。
「ここまで来ればもう大丈夫よね」
暫しの空間の静止。
「プッ」
「ププッ、プププッ」
「あっはははははは」
互いに思わず吹き出してしまった。静止した空間が一気に爆発するような笑い。二人で時を忘れるくらいに笑い合った。俺たちは、俗に言う悪い事をしたのだ。だけど、なんでだろうか。さっきから込み上げてくる嬉しいや楽しい、清々しいにも似たこの感情は――心の隙間が不思議な感情で満たされていくのを感じていた。
「どうだった?」
「いい迷惑だ――と言いたいところだが、悔しいけど気持ち良かった。なんて言えば分からないけど、とにかく気持ち良かった。まあ、もう二度とやりたくはないけどな」
「多分ね、世界はこういう風に創られているんじゃないかって思うの。あそこにいた学生たちは、あの瞬間は驚きや苛立だったりしたかもしれない。だけど、暫くするとそれはきっと笑い話とか、思い出になっていると思うの。だから私は、世界はそういう風に出来ていて、そういう風に廻ってるって信じてる」
そして、逢坂は俺の目を見て問い掛ける。
「あんたは、なれたの?」
「なれたって、何がだ?」
「決まってるじゃない。サンタクロースや戦隊ヒーローよ」
暫し、考え込む。
そして、俺が熟考して返した言葉はこれだ。
「どうだろうな。だけど、少なくとも変われたとは思う」
「そう、良かったわね。まあ、あんたが変わろうが、どうなろうが、どうでも良いことなんだけどね。私は私で楽しかったから、それで良いわ」
自分勝手な奴だな、と言おうと思ったが止めた。
だから、俺は一言だけ声を掛けた。
「そうかい」
「そういえば何で知ってたの? 私の名前」
「ああ、そういや自己紹介がまだだったな。俺は、同じクラスの――」
「あんた、同じクラスなの? ふーん、そうなんだ。そっか、そっか」
自己紹介を済ませる前に、話を割って入ってきた。
「あ、私こっちだから。じゃ」
逢坂は、勢いそのままに去って行ってしまった。
まるで、台風の様な奴だった。
それにしても、今日一日、逢坂と一緒に過ごして思ったが、考えれば考えるだけ、いや――考える必要など皆無か。逢坂が問題児だなんて呼ばれている理由が良く分かった。だけど、皆の言うような危険人物ではないと今ならはっきりと言えよう。
世界を自分で創る――か。
世界から見れば、小さい事なのかもしれない。
地球から見れば、もっと小さい事なのかもしれない。
宇宙から見れば、もっともっと小さい事なのかもしれない。
だけど俺は、その日小さな街の、小さな学校で、小さく世界を動かした。
俺と彼女を中心に。




