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003


 気が付けば、いつもと何ら変わり映えのしない朝がやってきた。昨日、家に帰ってからの記憶があまりない。疲れてすぐ眠ってしまったのだろうか。だとしたら、俺の疲れの原因は――間違いなく、あれだな。


 おっと、無かったことにしたんだった。


 しかし、目覚まし時計のアラームよりも早く起きるのは気持ちが良いもので、こんなにも清々しい朝を迎えられたのは一体いつ以来だっただろう。太陽の温もりが、こんなにも気持ちの良いものだったことを忘れていたなんて。


 何となく、目覚まし時計の時間を見やるともうすぐ十一時を迎えようとしていた。なるほど、良く眠れた分だけ、時間をたっぷりと使っていたというわけか。それなら、気持ち良くて当然だ。


 なんて、冷静な分析をしている場合ではないのだが、どうもあとちょっとで遅刻なら多少なりとも急ごうという気になるのだが、完全に遅刻だと決まってしまった現状では、また訳が違う。


 どうせ、遅刻が決まっているのなら、今更焦る必要なんて全く無い。最早、堂々と遅刻のレッテルを振りかざしながら学校へ登校してやろうではないか。そうと決まれば、ゆっくりと身支度を済ませ、だらだらと学校へ向かって行く。


 さすがに遅刻をしていると、誰ともすれ違うことがない分、なんとなく気楽に登校がような気がする。これは、癖になりそうだ。学校までの緩く長い登り坂を登っている途中で、昨日の少女の意味深な言葉を俺はふと思い返していた。


 明日、学校へ遅刻して来て欲しい。


 あの少女の言葉の真意は分からないが、結果的に少女の望む結果となったわけだが、特にこれといった変化も見られず、その甲斐も見られない。まあ、偶々寝坊しただけだから、甲斐なんてことは全くないのだが。


 それと同時に、どこか遠くを見ているような冷たい瞳も思い出した。何もかもを失ってしまったかのような冷たい瞳。何故かそのことを考えていると、心の奥底から悲しみがふと込み上げてくる。


 何か大切なモノを昔に失ってしまった、忘れてきてしまったような喪失感が――。


 薄らぼんやり登校していると、なんとなく意識しながら歩いている時の半分以下の力で歩けているような気がする。今なら、日本中どこまでもぼんやり歩ける気がするなんて考えは、どうしようもないことなので止めておこう。


 いつものように、下駄箱で型崩れした革靴からよれよれの上履きに履き替え、教室に向かう途中のことだった。そこには、裸足でうろうろしているやたらと容姿端麗な生徒が俺の目に飛び込んできた。


「逢坂朱音……?」


 自分の意に反して、その名前を口にしていた。

 俺は、逢坂には一度だって会ったことなどなく、その容姿や顔立ち性格などありとあらゆる情報が欠如しているのにも関わらず、彼女が逢坂朱音であるということが心にストンと落ちるものがあった。


「誰よあんた。馴れ馴れしく私の名前を呼ばないでくれる。あんたみたいなのに私の名前を呼ばれるだけで、汚されている気がするから止めてくれる」


 逢坂は、鋭い目つきで威嚇する様に言葉を吐き捨てる。

 どうやら、本当に正解だったようだ。


 おまけに、たっぷりどっぷりと嫌味の大サービスまで付けてくれて、そりゃどうも。俺に対して嫌味を言ったことは大目に見てやろう。俺が、寛大な心の持ち主であったことに大いに感謝することだな。


 というのは、嘘だ。


 本当は、俺に対して嫌味を言ってきたこと以上に、彼女が何故裸足で校内を徘徊しているということが気になりだしたら、目が離せなくなったというだけであって、罵られることに快感を覚えているわけでは決して無いので注意して欲しい。


 問題は次の俺の問い掛けだ。

 相手はこちらを警戒している。この場を和ませられそうな、大きく的外れでは無いにしろ、微妙に的外れな間の抜けた返答が要求される。ここでしくじると、最悪噛み付かれそうだしな。


「廊下のひんやりした感触が好きなのか?」


 どうだ、なかなかの手応えだ。


「は?」


 あれ、これはマズイ。かなりマズイ。

 当たり障りのない切り口で話をしようと思ったが、本気で俺に対して軽蔑している、そんな返答だ。しかも、今の一言で不機嫌になったのか、出会った時から不機嫌なのか、こちらに必要以上に警戒心を持ったようで、相手に襲い掛からんばかりの睨みを利かせているではないか。


 あからさまに怯える俺に、逢坂は一つ溜め息を付く。


「無くなってたのよ……」


 逢坂は、ぼそっと素っ気なく答え、廊下の窓から外の景色をぼんやりと眺めていた。無くなると言ったって、上履きが勝手に消えるわけなんてあるはずもない。そもそも、学校に来たことのない奴の上履きが無くなること自体可笑しいように思えるんだが。


「お前、虐められてるのか?」


 本当はそんな言葉を言うつもりなんて無かった。ほんの出来心だったのだ。しかし、それまで俺に対して、ほとんど興味を示さなかった逢坂は、むきになって威圧しながら詰め寄ってくる。


「私が虐めに遭ってる? はぁーッ? いつ? どこで? 誰が? 誰に? 何をして、どうなったってのよッ! 言ってみなさいよ!」


 言葉がマシンガンの如く襲い掛かって来る。


「質問を六倍にして返すな。今日までのいつかに、下駄箱で、逢坂が、何者かによって、上履きを隠され、結果虐められてることが判明した。どうだ、まだ虐められてないと言い張る気か。お前は、立派に虐められてるんだよ」

「いいえ。虐めは、本人が虐めと認識して初めて虐めになるのよ。私は、たかだか上履きが無くなっていた程度の事じゃ、虐めだなんて認識出来ないわ。第一、間違えて誰かが履いている可能性だってあるじゃないのよ。よって私は、無罪を主張するわ」


 無罪も何も、逢坂には罪が無いんだがな。

 そもそも、虐められているだとか、いないだとか、言い合っているのも些か可笑しいな話ではないだろうかなんて思うのだが、まあ確かに虐めは本人が虐めを虐めだと認識した時点で、初めて虐めとして成立するという話は聞き覚えがある。


 だが、本人はあくまで虐めではなく、偶然の事故や友達同士のスキンシップ、もしくはふざけ合いというような旨の主張をしているようだが、その主張こそ可笑しな反論じゃないだろうか。と言うか、無理な言い訳にも程がある。



 もしも、本当に偶然の事故ならば仕方がない。そうであるならば、完全に俺が間違っていました、申し訳ございませんと上辺だけでも頭を下げることを検討しよう。


 しかし、誰が一度も教室まで足を運んだことのない逢坂に対し、そのようなスキンシップやふざけ合いなんてことをするであろうか。もはや、クラスメイトであっても限りなく他人に近い逢坂に対して、こんなことがあり得るのか。


 いや、考えるまでも無い――そんな訳あるはずが無い。



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