016
言うべきことは決まっていると言うのに、なぜだか緊張している。こんな気持ちはいつ以来だろうか。小学校の頃の教壇の前で自分の書いた作文を読み上げているようなそんな気分。とにかく恥ずかしいということだ。
「昨日のことなんだが、その――えっとだな」
東雲が、真っ直ぐな瞳でこちらを見つめてくる性か余計に言い出しづらい。一度、深呼吸をし、覚悟を決める。
「あの、その、昨日助けてくれてありがとな」
たった一言だ。
この感謝の言葉を述べるのに掛かる時間なんて、ほんの数秒足らずなもんだ。だが、それをいざ本当の気持ちで、ありがとうと述べようと思うとなぜこんなにも恥ずかしい気持ちになるのだろうか。
本当に恥ずかしかった。
だけど、なぜか心地の良いくすぐったさがそこにはあった。そして、俺の告白にも似た気恥ずかしい言葉への返答は意外にも――いや東雲らしく淡白で、簡潔で、呆気のないなものだった。
「別に。私は、私のやるべきことをしただけ」
命の恩人である東雲の素っ気ない態度を目の当たりにして、さっきまでの恥ずかしさは完全に霧散して行った。東雲は、人の命を救ったのだ。もっと、驕っても良いはずだ。
自慢しても良いはずだ。だけど、一切そのような態度を見せる片鱗さえ見当たらないではないか。
東雲を理解しているつもりもないが、向こうだって理解されるつもりもないのだろう。だが、そんな俺の目から見ても東雲という人間は、とても不器用な人間なのではないだろうか。
常日頃から澄ました態度をしているのは、弱い自分を見せないように、強がっているのではないだろうか――東雲がそんな風に見えてしまう俺は、もう既に可笑しくなっているのかもしれない。
なんだか良く分からんが、笑えてきた。俺は、全てを包み込むようにいつもの逃げ文句を東雲に言い放つ。
「そうかい」
間もなくすると、柊木先生が入って来た。
いつもの様に、いい加減な出席確認をする。
欠席者は、橘椿の一名。恐らく、永遠に来ることもないのだろう。だが、なんでだろうか。この何か胸に引っかかる嫌な気持ちは。確かに、屋上で間違いなく橘を倒したはずだ。
姿が消えて行くのを、確かに俺は目の当たりにしているが、あれは本当に倒していたのだろうか。疑心暗鬼になる俺に、追い打ちを掛けるように教室のドアが勢いよく開かれる。
音に釣られ、俺もそちらに勢いよく首を捻る。
「いやー、それがさ――」
迂闊だった。
橘椿だ。
恐らく、このクラスで橘が登校してくることに驚いているのは俺だけだろう。なぜなら、学生が学校に登校することなど、あまりに何の変哲もなさ過ぎる、極々当たり前で日常的な光景であるのだが、来るはずのない人が登校してくれば驚くのは当然のことだろう。
それが、殺されたはずの人間や、俺を殺そうとしていたような人間ならば尚更のことだ。
唾を飲み込むゴクリという音が聞こえてくる。それ程までに、俺は張りつめている。このクラスで、橘が俺を殺そうと狙っていることを知っているのは、恐らく東雲と俺の二人だけであろう。
そして、席は俺の右斜め後ろ。つまり、俺の背中は常に橘に狙われかねない状況に置かれているということだが、さすがに大衆の面前で俺を襲うようなことはしないだろう。
昨日だって、わざわざ人目の付かないように屋上に呼び出した。それに、恐らく東雲のいる前では襲ってはこれないだろう。
俺が怯えているのを察したのか、東雲が小さく折り畳まれた一枚の紙を回してきた。開くとそこには、こう書かれていた。
昨日言いそびれたことがある。
橘椿は、覚醒と睡眠の間の空間でしかその能力を発揮できない。
今の橘椿は無害。
三行に渡って書かれた殺風景なメモ帳。
取り敢えず、俺の無事は確保されたらしい。だが、覚醒と睡眠の間の空間とやらが訪れる度に襲われるのではないか、と考えたらどうにも気が気でない。
――させない。
東雲のあの言葉が心に響き渡る。
結局、橘に引き続き狙われている以上、自衛する術を持たない俺は、有無を言わさず東雲に頼らざるを得ないのではないだろうか。これは、俺が可笑しいのだろか。将又、この世界が可笑しいのだろうか。
どちらにせよ、俺の平穏な日常は当分お預けらしい。
一体、どこにいってしまったのだろうか。
あれだけ穏やかだった俺の日常は――。




