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まず驚いたのが、あいつはここの生徒ではなかったということだ。会った時は、いつもここの制服着ていたから、てっきり先輩か後輩なのだとばかり思い込んでいたが、こうして同じクラスで顔を合わせることになったと言うことは、その予想は違っていたということだ。
そして、何より数週間という時間が経過している今、あいつが今更何をしに来たのかということだ。ただでさえ、何を考えているか分からない奴だけに、警戒する必要がある。
心の底から俺は思う。
頼むから、面倒なことだけは起こさないでくれよ――と。
転校生の少女は、教壇の真ん中に立たされ、柊木先生に自己紹介を早くやれと口には出さずに、顎でクイクイと促されているが、それを理解出来ていないのか、無言のまま時だけがダラダラと流れて行く。
無駄に過ごす時間というのは、たかだか数分であろうと長く感じるもので、それがある程度を越えると、やがて苦痛へと変わる。
「ぼさっと突っ立ってないで、自己紹介しろ」
苛立ち始めた柊木先生が自己紹介を口で促した。
どうやら、やっと進むようである。
「東雲サーシャ」
今ので終わったのか。
これ以上にないくらいにシンプルな自己紹介で済ませただけで、クラス中の視線を釘付けにし、皆の口をあんぐりとさせ、今ので自己紹介終わりなのかと思わせたのは、俺の口から言う間でもなく理解出来るであろう。
「今ので終わりか」
クラス全員が考えていたであろうことを、まさか柊木先生とも共有しようとは。
「じゃあ、如月の隣が今日休みだから、今後その席ずっと使っていいぞ」
勝手に人の席を譲るな。
ゆっくりとこちらに近づいて来る東雲は、以前に二回会っているだけでなく、言葉を交わしているのにも関わらず、あたかも初対面かのような態度で毅然とし、欠席者のその席へと座った。
その時のこと。
「ギリギリセーフ。いやー、危なかった。今回のはマジで危なかったわ。危うく遅刻するところだったよ」
悠々に遅刻し、後方のドアを勢いよく開き現れたのは、誰が付けたか知らないが、元気全開パワフルガールこと俺の隣の席の――いや、たった今奪われたところだから元隣席の橘椿だ。
「いやー、それがね」
橘は、今作ったような言い訳をたらたらと述べながら自分の席まで来たところで、自分の席が転校生の東雲に奪われ、無くなっているというこのクラスの変化に気が付いた。
「先生、あたしの席に知らない生徒が座っています。この状況、どう見てもイジメとしか思えません」
「あーそうそう、お前の席その転校生にあげたから。あと、お前の欄に欠席の記し付けたから帰っていいぞ。じゃあな」
おいおい、欠席を進める教師がどこにいるんだ。
「皆勤だけがあたしの取り柄なので見逃してください。どうか、この通―り」
そう言うと澪市いは、上履きと共に靴下までを脱ぎ去り、勢いよく地べたに正座すると、両の掌で見事なまでの正三角形を作り上げ、正三角形の中に頭が吸い込まれるように、その場で平伏し、一度深呼吸をした後にこう叫んだ。
「お願いします!」
美しい。
ただただ、美しい土下座だった。
たかが出席確認の作業だというのに、教室で土下座姿を目撃するというのはなんとなく不思議な光景ではある。にしても、やたらと綺麗な土下座だ。むしろ、綺麗すぎる土下座だ。恐らく橘は、所構わず困った時にこれやっているのだろう。
「そんじゃ、欠席消しといてやるから、空き教室から机と椅子取って来い。そんで、転校生の後ろにでも席付けとけ」
消すのかよ。
「あいあいさー」
今しがた、謝罪行為の代名詞ともいえる土下座をしていた人間とは、とても思えないような明るさで敬礼の構えを取り、空き教室まで颯爽と走り去っていった。
朝から能然以上に騒々しい奴だなと考えている間に、既に教室内に机と椅子は運び込まれていた。周囲の席の生徒に挨拶しているが、元の席からひとつ下がっただけなので、そんなに大袈裟なことではなかろう。
そんなことよりも、橘の隣には逢坂というある意味で最悪の組み合わせが出来上がってしまったのではないかと内心怯えていた。現に、騒々しい橘に対して、睨みを効かせているのを睨まれている当の本人は気付いているのだろうか。
気付いて尚この態度であるのなら、大した肝っ玉だ。
見習いたいものである。
そして、今日も何事もなく平和で実に至極平凡な一日終えることが出来たと内心ほくそ笑みながら、下駄箱の前まで来た矢先の事だった。そう簡単には逃がさぬぞと、フラグと呼ばれる厄介な代物が執拗に付き纏っているようで、ピンク色の可愛らしい便箋が俺の手中にあるのは一体全体なぜなのだろうか。
まさか、これは愛を告白するために用いられる手紙、ラブレターと呼ばれるその存在すら神格化されている伝説的オーパーツではなかろうか。付文、艶書でも艶文どれでも意味は同じだが、ラブレターと表現する方が心に直接的に響き渡るものがある。
ラブレター。
何て言い響きなのだろう。
下駄箱にラブレターを入れるという、あまりに古典的な手段はいまだ健在なのだなと古くからの文化を重んじながらも、嬉しさや笑みを隠しきれずに浮足立った醜い俺がそこにいたに違いない。
だが、健全な男子であればラブレターなんて物を貰えば一様にして、このような顔になるのだ。それは何千年、何万年、何億年と受け継がれてきた男と女の歴史の中でそう物語っているではないか。
だが、未だこの手紙の封を切ることなく、桜色の便箋というだけでラブレターであると結論付けるのは些か早計ではなかろうか。
落ち着け、落ち着くのだ。まずは、息を整えるのだ。封にゆっくりと指を掛け丁寧に開けるのか、ここは男らしく勢いよく一気に開けてしまおうか。俺の中で結論は疾うに出ている。
そんなのもちろんゆっくりと開けるに決まっているじゃないか。
それは、もう優しく大切に。
後で、きっちりと保存しておくために決まっているだろ。今後、また貰えるとは限らんからな。気持ち悪いと思うのなら、どうぞ罵ってくれて一向に構わん。俺のようにラブレターを貰えるようになったのならな。まだ、ラブレターかどうか分からんが。
これ以上に無い位に浮かれている俺は、ゆっくり且つ、丁寧に便箋の封を開ける。そこにはたった一言だけでこう書かれていた。
屋上にて待つ。
恥ずかしがり屋なのだろうか。はたまた、照れ屋なのだろうか。たった一言しか書かれていないうえに、送り主の名前すらも書かれていないこの手紙をラブレターと呼ぶに相応しいのだろうか。
だが、屋上へ行き告白をされれば、現段階ではただの呼び出しの内容しか記されていないこの手紙も、結果的にはラブレターと呼ぶに相応しい、立派な愛の手紙へと早変わりするわけなのだが、どうにも嫌な予感しかしない。
なぜ、また屋上なんだ。
俺の第六感と言うのは非常に鋭いようで、悪い時だけ良く当たる。逢坂の時だってそうだった。つまり、今回も禄でも無いことに巻き込まれる可能性が非常に高いということを、俺の第六感は感じているのだ。ここで、行かないという選択肢を選ぶことも俺にはもちろん可能である。
しかし、誰かを待たせているのに行かないなんて男のする事ではない――と言うのは建前で、万が一にラブレターであったらという心残りだけが結局のところ、俺を突き動かす原動力になっていることを必死にひた隠しながら、屋上へと歩を進めた。




