009
世界を小さく動かしたあの事件から数週間という月日が経とうとしていた。数週間という月日もあれば、桜の桃色の花びらは散り、緑色を帯びるようになり、青空には鯉が力強く泳ぐ季節になっていた。
そして、学校の中でも多いとも言えないが、決して少なからず何も起こらなかったわけではない。
まず、あの事件は学校の七不思議の一つとして語られ、在らぬ尾ひれを付けますます逞しい伝説となっていった。伝説の片棒を担いだ一人としては、何となく複雑な思いでもある反面、成長したなという親馬鹿にも似た、複雑な感情が込み上げてくるもので、なんとも不思議なものだ。
そして、学年が上がってから初めての席替えがあった。席替えがあること自体大した事ではないだろう。席の位置だって、窓側の後ろから二番目と漫画やラノベの主人公さながらの、なかなかの好位置であり、文句だってたったの一つしかない。
そう、逆に言えば一つだけ文句があるのだ。
後ろの席の逢坂をどうにかして欲しいのたった一つだ。
この小さなお願いすら聞き入れてくれないなんて、神様と言う存在を本気で疑うかどうかというのは、その人の個人的な信仰の問題なので、俺がとやかく言うことではないもちろん無いのだが――あんまりじゃなかろうか。
別に逢坂が嫌いなわけじゃない。
だが、あのような計画にまた連れて行かれるのではないかと、内心ビクビクとしながら学校生活を送るには、俺のノミサイズのガラスの心臓ではあまり小さく脆弱で、それに耐え切れないのだ。
さらに、席替えの効果なのであろうか逢坂と軽くながらも会話をするようになった。会話といってもあの時のような大掛かり計画を企てるような話ではなく、もっと世間的で、もっと凡俗なものだ。
逢坂に、一つ言えば倍以上になって返ってくるのは例の通り。だから、俺は最初の話すきっかけさえ逢坂に与えればそれで良いのだ。と言うのも、どうも逢坂は、恥ずかしがり屋や照れ屋といった類のようで、自分から食い付くように話し掛けてくることはないが、気になるのなら私に話し掛けてきなさいという形で、どうも話し掛けられるのを待っているようなのだ。
だから、俺は逢坂が髪型を変えてこようものなら、「髪型変えたのか」と聞いてやり、アクセサリーを付けて来ようものなら、「新しく買ったのか」と聞いてやる。そうすれば、逢坂は活き活きと俺を罵りながらも、楽しそうなのだから俺はそれでも良いんじゃないかと思うようになっていた。
逆に、偶にうっかり気付かなかったり、わざと気付かぬ振りをした時の苛立ちようといったら、お前は俺の彼女なのかと思わずツッコミを入れてやりたくなるぐらいに、俺が彼氏さながらのポジションに何故か落ち着いてしまったのは計算外だった。
能然に、
「え、お前ら付き合ってんじゃなかったの?」
なんて、聞かれたものだから取り敢えず、みぞおちにパンチを入れといた。
この状況、何とかならんものなのか――と、額の中心を人差し指で支えながら考え込んでいたある日のこと。俺を巻き込んで、また一つ事件が起ころうとしていた。
「そう言えば、今日は五月五日か。と言うことは、子供の日だな」
いつものように、挨拶代わりの軽い話をする。
「私、思うのよね。鯉幟って男の立身出世や武運長久を祈る行事であるより、好きだとか愛してるだとか書いて、恋幟って言う風に空に泳がせて、男から告白する方がよっぽど男の度胸が試されて、立派な男に成れると思わない?」
珍しくまともなことを言うもので、返す言葉を全く用意していなかった。恐らく、祈るのではなく、自分の力で勝ち取れというようなことが言いたいのだろう。これに関しては、俺も素直に納得をする。
そんな、他愛もない至極凡俗な会話をしていた時、朝から頭が痛いくらいに響き渡る能年然の声が段々と近付いて来る。
「おい、如月。ニュースだ、ニュース。それもビッグニュース」
能然が朝のホームルーム前から騒々しく、踊りながら駆け寄ってくる。
「なんだ、朝からそんなに騒いで」
「転校生だよ、転校生」
「へぇー」
「へぇーってなんだよ。転校生だぞ、転校生。ワクワクしないのか? テカテカしないのか? ワクテカしないのか!」
「いや、別に」
「しかも、女子だぞ。女子」
こんな学校じゃ、転校生ぐらいでしか盛り上がれないのも良く分っている。転校生が女子だから、騒ぎたくなる気持ちも良く分かる。だけど、あんまり騒ぐな能然。これでも結構我慢している方だが、そろそろまずいぞ。
「そこの阿呆。うるさい。たかが転校生くらいで喚かないでくれる。小学生じゃあるまいし、朝からその下品な声が頭に響くのよ。ったく」
あーあ、後ろの席の眠れる獅子を怒らせちまった。
特に今日が不機嫌というわけではない。むしろ、十中八九このような感じである。と言うのも、特定の人間以外とは碌に口を利かないようなのだ。逆に言えば、俺はあの一件で逢坂に認められたのかどうか知らないが、口を利く権利のようなものを与えられたようだ。
まあ、能然の場合はまた別なの意味で嫌悪感を抱かれているような気がしないでも無いがな。
「おら、席に着け」
柊木先生の割にはタイミング良く、あるいは後ろの眠れる獅子が怯えきった野ウサギを狩る前に教室にやって来た――とでも言うべきなのだろうか。逃げ去る様に自分の席まで、走り去っていった。
命拾いしたな、能然。
「じゃあ、近くに欠席してる奴いるか」
そういえば、数週間どころか一週間で変化があったことがある。もともと面倒くさがり屋の柊木先生が、まともに出席を取るという教師本来の仕事が続くわけもなく、近くに欠席者がいる場合は、近くの人が申告するという謎の制度が正式に導入された。
逆に言えば、欠席者が近くにいても、その近くの人に申告されなければ欠席にならないという、遅刻常習者からすれば非常にありがたい制度が出来上がっていた。
だが、俺の様な普通な感性の持ち主からすれば、なんとも教師らしからぬ、いい加減な制度であると言わざるを得ない。もちろん、俺は中途半端に悪人になれないので手を挙げしっかり言う。
「先生、橘が欠席です」
「はいはい、橘っと。他居ねーな。そんじゃまあ、転校生だ。入れ」
柊木先生に呼ばれ、ゆっくりと教室に入って来るその姿が露わになる前の自分に言い聞かせてやりたいものだ。期待するなよ、と。俺は、自分の目を疑わずにはいられなかった。まさか、あいつがやって来ようなんてことが、誰に想像出来ようか。
学校の校門に立っていた、あの少女だと。




