7.『場』と『役割』について(2)
(2)『役割』について
ここまで、だらだらと書いてきましたが、今度は『役割』についてです。
『役割』の定義は『場』における立ち位置とします。
すると、個人の『役割』は対人関係や、組織の有り様で常に変わります。
つまり、様々な『仮面』を付け替え『場』にふさわしい自分を作り上げるのです。
うちでは良いお父さんが、会社ではライバル会社を潰し、従業員を路頭に迷わせる事に一切の良心の呵責を感じない人物になれる訳ですね。
そう言や、パーソナル(人格)の語源はペルソナ(仮面)でしたね。
なるほどです。
さて、子供が自分と社会の関係を客観視出来ないのはまだしも、『場』を人工的に生み出せる大人が子供と同じ行動(役割)を取り始めた場合どうなるか、という危険性について考えてみましょう。
これこそが『監獄実験』に繋がるのではないか、と思いますので。
大の大人が役割を間違えた時は悲惨でしょう。
大人同士の、或いは子供同士にも異常行動が伝播して死者が出かねません。
そして、そうなった場合の例が近年の日本では顕著な気がします。
情報量と伝達速度が上がったために、そう思える部分も有ります。
統計的に犯罪は減っています。
しかし、統計は操作可能でもあるのです。
そこで、今回はいじめや労働問題だけを見てみましょう。
すると、大人が場における役割を演じすぎて、『自己』を失ったシーンが多く見られるのです。
実際、死者が出ても教育委員会や会社が隠蔽をするほどです。
人の命以上に、その『場の有り様』を守る事が重要なのです。
勿論、単なる自己保身もあるのでしょうが、ある『虐め自殺事件』に於いてはスケープゴートすら生まれませんでした。
彼等は完全に共謀したのです。
(某県で教育委員会、警察、PTAが連携して虐めによる自殺の隠蔽に走りました。
有名な事件ですので調べて頂ければすぐに分かるかと思います)
また、ブラック企業におけるサービス残業の強要、強制的に退職者を作る為のモラルハラスメントなどの理不尽な扱い。 それを『執行』する経営者や上司。
それによって自殺者が出ても体質を変えない某外食企業。
社員に対して売り上げが落ちたら指を詰めろ、と公然と通達していると内部告発まであります。
(これも新聞記事になりました:産経新聞と記憶しています)
これ、正しく『監獄実験』そのものではないでしょうか?
今の日本の社会こそがスタンフォード監獄と化してしまっている気がします。
さて、これらの『場と役割の支配』は当然ながら日本だけの現象ではありません。
中東では『名誉殺人』は刑法では禁止ですが、慣習的合法であり裁判所もシャーリア(宗教法)を優先させます。
(女性が性被害にあった場合は被害者が死刑という酷いやつが有名ですが「人前で他人に罵られた」も、地域や宗派によっては報復は“有り”です)
“宗教によって成立している社会”という『場』においてそれぞれが“神の命令に従う”『役割』を持っています。
高額な費用を使い、貴重な青春の時間を使い潰して欧米に留学し、近代法を学んだ裁判官でもこれには声を出せません。
先進国と言われるデンマークですら『我が国の失業率は低い!』と云う事にするため、若者に月給4万円の仕事を与えて無職者のリストから削り、国民はそれを見て見ぬふりだと、世界版のチャットで若者が嘆いていました。
彼等が長年築き上げてきた北欧=完璧神話(場)に関わるからなのでしょうか?
アーレント式に言うならば、それを『支持』しなかった人々が『ニート』や『引きこもり』なのではないかと思うほどです。
(自分が今、ニートで引きこもりだから自己正当化している訳では有りませんよ~w)
『場』とは空気、即ち『慣習的社会契約』なのではないでしょうか?
それを打ち壊すには、個々人のparadigm shift(思考枠の転換)が必要になります。
これは、集団から逸脱する勇気が必要です。
いや、場合によっては命に関わります。
『実験』に『場』於いて被験者に対して圧力を掛けていた『役割』を持つものは、実はその“役という立場”と言う目に見える状況ではなく、その場の“空気”だったのではないか、と私は思うのです。
互いが互いを監視し合い“恐れ合っていた”
そんな気がします。
だからこそ監獄実験で看守役は「中止」の言葉に心の中では“ホッとして納得”したとしても、周りの看守役へのExcuseとして継続を訴える抗議の姿勢を見せなくてはならなかったのでしょう。
その時点で“彼等が構成した社会”で起きる個人のささやかな失敗は、すぐさま凄まじい弾劾へと繋がる事は目に見えます。
『セイラムの魔女裁判』の時代と同じ事が起きるのではないでしょうか。
行き着くところ『集団心理』とは、互いが互いを恐れる心理です。
人間は人間が集団化する時、容易く“猛獣”となる事を知っています。
この猛獣は1頭では非常に“弱い”存在です。
しかし弱いからこそ、とりわけ“残酷・残虐”になれる事も知っている。
これでは“大抵の”人間は逆らえないのが当然でしょう。
現時点での私は『この実験』で現れた“現象”に対しては、“そう”結論づけています。
(自分がその『集団心理』に従う事を許すかどうかは、また別問題ですが)
しかし、このままではアーレントの言う『責任の曖昧さ』=『だれも責任を取らない』になりますが、別に犯人捜しをして個人を叩いても仕方ないかな、とも思います。
とは云え、責任者である教授についても、考察の対象枠には入れなくてはなりません。
それは次章の『個人の自意識、自主性』で行いますが、その前に、またまたアーレントへと寄り道をさせて下さい。
事実を元に『陳腐な悪』を『究極の悪』に切り替えたアイヒマン裁判の欺瞞性を静かに、しかし理論的に弾劾したため、世間から、いや世界から強烈な抗議を受けたアーレントは、『自分はユダヤ人に属するがユダヤ人のみを愛さなくてはならない義務はない』と、真実の普遍性を訴えました。
反面、彼女はこうも言いました。
『私が愛するのは友人達だけだ』と。
勇気ある言動だと思います。
処が、何という皮肉!
『エルサレムのアイヒマン』を出版した直後から、彼女は先のヤスパースを除いた2~3名以外の殆どの友人を失ってしまいます。
『あなたにはユダヤ人に対する愛がない!』と云うのが友人達が彼女から離れていった理由でした。(表向きは、です)
彼女にとっての友人とは、普通の間柄ではありません。
ドイツからの脱出行に於いて命を助け合った間柄であり、アメリカに辿りついてから彼女を保護してくれた伯母の様な存在など、それこそ命を分け合って生きてきた存在です。
彼女は、そこからはじき出されたのです。
アーレントの友人等は命からがらドイツから逃げ出しました。
そして今度は命からがら、アーレントの引き寄せる『集団心理』の厄災から逃げたのでしょう。
アーレントに対する本物の怒りがあった者は、果たしてどれだけ居た事やら、です。
当然、そのダメージから彼女は一生抜け出す事は出来なかった、と手元の本にあります。(中公新書:「ハンナ・アーレント」:矢野久美子著、姪の証言部分より)
これこそ、ヤスパースが言う処の彼女の『ナイーブさ、』なのでは無いでしょうか。
純粋は『馬鹿』に繋がるとは良くぞ言ったものです。
私が先に“彼女の依って立つところは脆い”と言ったのは此処なのです。
あの時点での彼女は幾つになっても、どれだけの悪意を向けられても、本当の世間を知らない無垢な子供だったのでしょう。
しかし、だからこそ真実を声に出せたのでしょうね。
(唯、それ以降の彼女の人生の内面に係わる部分が手元の本にはまるで書かれていないので、その後、彼女がどの様な人生のスタンスを持っていたか気に掛かっています)