4.実験が求めたものとは何か?
これについても簡潔にいきます。
本来、軍が求めたのは効率的な囚人の管理方法でしたが、途中から『場と役割に係わる観察』に切り替わった、と思います。
リアリティを求めて実験を実行するというジンバルドー教授の姿勢がそれを表しています。
私は世間一般で言われている『実験目的は最初から決定されていたものであった』という見解には懐疑的立場であり、ジンバルドーは行き当たりばったりの興味本位で人間観察をしたに過ぎない、と思っています。
事実、彼自身も「自分もこの実験に呑まれた」と言っています。
目的が明確ならこの様な事は起きえません。
また、この「呑まれた」という言葉は後に重要な意味を持つ事にも気付きました
さて、本来の実験目的から外れて教授が求めたであろうもの、即ち『責任を理由として人は思考停止に陥るのか?』と云う事ですが、これは実験をするまでもなくアーレントが結論を出しています。
彼女は断言します。
「『責任』という言葉は逃げであり、『場』に立つものは、その行為を『支持』した事を認めるべきである」
つまり「私を責任を果たした」とは一見立派な言葉ですが、その行為に加担したことの『自主性』や『積極性』は否定している事を彼女は見抜いたのです。
転じれば「『支持』しないのであれば、その場に立つべきでは無かったのだ」と云う事です。
著書のこの部分も多くの人々の怒りを買ったのだと思います。
ホロコーストを呼び込んだ責任は政治的に考えればドイツ人と同様にユダヤ人にも『ある』と言い切ったも同然なのですから。