1.はじめに
和泉様のお眼鏡にかなえば宜しいのですが、とドキドキしながら投稿します。
では宜しくお願い致します。
お医者様である和泉さんに今更この様な話しするのも気が引けますが、一応書いておきます。
スタンフォード監獄実験はミルグラム実験の一形態と言われています。
始まりは、ハンナ・アーレントがアドルフ・アイヒマン裁判を傍聴しての感想として、彼の罪を『凡庸な悪』と発した事から混乱が起き、その結果様々な非難がアーレントに投げかけられました。
その「エルサレムのアイヒマン」問題に科学的アプローチを行おうとしたのがミルグラム実験であり、監獄実験はその一形態であるとの前提に今後の話を進めていきます。
ミルグラム実験については日本では『スタンレー・ミルグラム著、山形浩生訳、「服従の心理」』に詳しいです。
(本人の言い訳ばかりと云う人もいますし、自分もレジュメで概容を読んだきりで、そのレジュメも紛失してしまいました)
しかし、大凡はウィキペディア程度でも正確な像が掴めます。
例の『被験者“が”被害者役に向けて電流を流す』と云う実験です。
『スタンフォード監獄実験』もこれと全く同じかと言われると、やや違うところがありますが、同一性も幾つか有ります。
今回はこれに注目し、『場と役割』の観点、その基幹となる『個人の精神の自由』についてのふたつの視点を中心に書き進める事になると思いますが、この様な文章を書くのは何年ぶりかになりますので、おかしな点はご容赦下さい。
出身大学も地方の学位取得用のごにょごにょ~wな大学でしたので、大した学問も修めておりません。
因って理論的な文章構築が出来るかどうかも怪しいものです。
(もっともこれは大学の責任ではなく、自分の怠惰さでそうなったと云う事ですが、)
一部分にのみ焦点を当てるのは、この問題は総論に措いて未だに結論が出て居らず、私如きではそれを導き出すのは不可能である、と考えるからです。
また、『インタビューについてどう考えるか』との質問がありましたが、あの言葉は倫理性の問題について実に重要なヒントを与えてくれる言葉ではないか、と考えさせられた点があります。
これについては最後の纏めの段階において、彼等が示した『行動の意味と精神の自由』と共に書きたいと思います。
また、これも後述しますが、実はスタンフォード監獄実験は日本では『形を変えて常態化』している気がします。
当然、子供を含めて死者までも幾らでも出ていますが、この傾向はこれからも続くのではないか、と危惧しております。
これも、結論部に向かうにつれて明らかに出来るかと思います。
よってアーレントの顰みに倣う訳ではありませんが、私もこの問題を『監獄』という枠で考えずに、『社会』という枠まで広げて考えてみたいと思います。
要は、『社会心理を知るための閉鎖環境での実験』を考える事で、逆に『社会に於ける人間の立ち位置』に目を向けてみようと云う訳ですね。
これが、あの実験を考える事から得られる『私なりの意義』では無いかと思います。
『1』は『目的』、と書こうかと悩みましたが、無難なタイトルを選びました。
全部で7部になると思います。