第3話 「出発と雨」
制服ではなくシャツに、ベストの上からマントを身に着け、足元は履きならされた革靴。荷物を背負ったトワはどこから見ても軍人ではなく旅人だった。それも軽装の戦闘には不向きの非戦闘員に見える。誰も拳銃を扱うような物騒な印象は抱かないだろうし、マントの下で腰に銃をぶらさげているなどとは考えもしないだろう。
真っ黒い影を作る石造りの大門は東西南北に聳え立つ関所の役割もしている。数十メートル続く石壁はアーチ型で、前方・後方と通路との明暗の差がはっきりと分かれている。湿った空気が足元から頭まですっぽりと覆うようで、トワの気分は急降下していた。門の中だけでなく外の空気も見たような匂いがするので渋々、日よけに入ってはいたが今すぐこの場を離れたいのが本心だった。トワは湿ったじめじめした場所を好まない。それはこの国の人間の思うところでもある。それでも陰の中で人を待つ姿が日常的なほど、日差しの強いこの国ではよくみられる光景だ。道の中央では右と左に分かれて進行方向が真逆の人々が行き交う。城の外へ向かう人に習った側の壁に背を付けてトワも人を待っていた。太陽はとっくに真上を過ぎ、そろそろ昼食を終えた商人が商いに精を出す時間だ。トワは怒っていた。表情こそ普段と寸分違わず何の感情も伺えないが、心の中でこれから来るであろう人物を知っている限りの言葉で罵倒していた。
このままでは、本日の行程を変更せざる得ない。首都である王城から最も近い町は、いくつかある。その中でも王子の情報があったのが東門から半日のところにある【岬の町】だ。細長く位置する港町で、王都の魚のほとんどがこの町から毎朝運ばれてくる。海と白い壁に黒く薄い石の屋根が美しいと評判の観光地だ。あの書物でしか世界を知らない王子様の行きそうな場所ではある。そういうわけで、王子を追って一刻も早く出遅れている分を取り戻すためにも今日は無理をしてでも日のあるうちにそこへたどり着く予定だった。早朝の出発を避けたのはトワの希望だが、夜になる前に移動を済ませるのは旅の基本である。それをぶち壊すなど、初日から先行きが思いやられる。3日前よりも強くなった雨の匂いも気がかりだ。降り始めると長引くこの国の雨は、運が悪ければひと月を潰すことにもなる。
いっそ、独りで出発しようか。壁から背を離したトワにやっと声がかかったのはその時だった。
「やぁ、旅装束も似合うね。中にいるとは思わなくて、外を少し探したよ。」
遅刻したことを反省するどころか、いつも通りのふざけた態度で現れたのは、頭から肩を濃紺の布で多い、余った部分を首に巻いた男。暗い門の中でも淡く光るように見える金髪を布地の隙間から覗かせる美丈夫。この男こそ、トワの待ち人にして現在怒りの矛先を向けている相手。サンショウ・ジープである。 トワと同じようにシャツとベスト、膝下の革ブーツ。マントはなく旅人というよりはお忍びで遊びに来たどこかの貴族のような見た目だが、軍人や人殺しに見えなければ良いので問題はないだろう。
それよりも問題なのは、服装ではなく、時間厳守をさっそく破ってくれたことだ。
「ジープ、今太陽はどこにあると思う?」
「太陽の位置?こんなに暑いのに空なんか見上げたくないよ。それがどうかしたのかい?」
3日前の約束をどうかしたのかい?の一言で破棄されてはたまらない。だが、そういえばこういう素で相手を苛立たせているのか意図しているのかよく分からない言動をする奴だったな、とトワは怒りを鎮めるために深くついた息をはく。
「時間は厳守しろ。少なくとも一人ではなく、二人で行動する自覚を持て。」
「善処しよう。君が今日の夜、僕と寝てくれるなら。」
集団行動は苦手らしい。それはトワも同じだが、せめて努力しようという誠意はないのかとジープを睨む。
「時間がない。さっさと歩け。」
「怒った顔も可愛いね、トワちゃん。」
敬語はやめたのか、それでも以前よりはずっと綺麗になった言葉使いに背筋がむず痒い。ジープの口の悪さを知っているだけにその違和感がトワは好きにはなれない。
今は笑みを浮かべ甘いマスクを被っているが、その下で冷たい色をした目が虫けらを見るように世界を見ることをあるのを知っている。人の命さえゴミのように簡単に弄んで殺戮する。サンショウ・ジープが特殊部隊でも暗殺者として戦場の闇を駆け抜けていたのはつい二年前のことなのだ。武器を含む体術でこの男に敵う人間はいないだろう。そして今はあの剣をも手にしている。
命令があって本人が乗り気であれば誰でも殺す。では今回の標的は、そこまで考えて首を振った。
トワはもう女神に宣誓した身だ。この身がある限りすべきとはひとつだ。隣を歩くジープが何を企んでいようとトワがすべきことはひとつ。ナキア王子を王の元へ送り届けること。そこにきっとトワが問う王への答えもある。生きていればあの人もそうしたように、トワも女神に誓ったのだから。
まだ太陽は雨雲に陰る気配もなく空を照らすが、湿った空気と雨の匂いは先ほどよりも強い。降り出す予感に歩調が速くなる。
「ずいぶん急ぐね。雨が苦手なのは相変わらず?」
歩幅が違うため、早足で進むトワの横で幾分ゆったりと歩いているように見えるジープが前を向いたまま尋ねた。
「日が沈むまでに宿を決めたいんだ。」
否定も肯定もせずに告げ、そこからはどちらも口を閉ざした。
門を抜けると両脇を木々に囲まれた森の中へと道は続いている。馬車や人の足で踏み鳴らされた土は固くなり、行き交う人々の命の軌跡を感じる。
道は人生だ。人生は道だ。有名な賢者の言葉だが、不思議なものだ。同じ道の上を何百、何千という人が毎日歩いている。辿る道の上で確かに自分以外の他人の人生と時を重ねる瞬間があるのだ。それも一回ではなく、自分が生きている限りずっと。
この道をあの王子も歩いたのだろうか。たった一人で、何を想い何を求めて歩んだのだろうか。気持ちが逸る。雨の気配と王子の気配が混ざり何故か記憶の中の小さな少女が俯いて泣く姿になる。その少女の髪の色がふいに王子の赤毛に変わった。これが妄想の類なのは分かっていたが、顔を上げた王子の顔を見て息がつまる。
「トワちゃん、トワちゃん?・・・ヒイラギ・トワ!」
懐かしい呼び方にはっとする。目の前でジープがもう一度、その呼び方を口にした。今度は大丈夫かという意味で呼ばれた名前にトワは頷く。
だから雨は嫌いだ。
声に出さずに空を睨む。
ポツポツと水滴だったものが無数の白い矢に変わるまでにそう時間はかからなかった。馬車が交差出来るような大通りではなく町へ下る小道にそれていたため、狭い道はあっという間に水を吸ってぬかるむ。足が地面に踏むたび水気を含んだ音がした。さらに進むべきか否かを迷う足取りを、トワはふいにやめる。分かっていたようにジープも立ち止まった。
「ジープ、今どのあたりだ?」
隣の人間に尋ねるには屈辱的な状況確認を、トワは重い口をやっと開けて訊いた。開いた口に天からの雫が気まぐれに落ちる。
「今視ている。」
ジープは目を瞑って突っ立っていた。無防備な横顔にいつもの笑みはなく、唇はひき結ばれている。この天候だ、【鷲眼】と呼ばれる加護を受けるジープでも苦戦したりするのだろうか。【鷲眼】とは遠くのものでも明瞭に視ることが出来る力で、距離の把握から敵の数など視覚的情報を掌握する【俯瞰者】と呼ばれる中でも一握りの者のことを指す。まさに殺しにはうってつけの能力だ、加護がもたらすべきはその人の幸あらんことなのに、皮肉なものだ。女神の息吹も人の吸い込まれて吐き出されるうちに悪意に変わってしまう。加護はすべての者を守り、慈しみ、そして時に破壊する。
「・・・さすがに君のそばは、やりづらいね。」
ああ、トワはその言葉に嘆息した。この男は別格だったと。昔会ったことのある【俯瞰者】は、天候に左右されやすく、使い勝手が良いモノではないと断言していたが、上には上がいるものだ。
「こんなに視えにくのは、君の精神が安定していないからかな?まぁとにかく、町の手前の水車小屋に行こう。ここで濡れ鼠になっているよりはましだからね。」
トワの持つ加護による干渉があるにも関わらず、視えたのだから。一般的な加護持ちとはやはり異質な存在だ。
「だから、ジープも雨が苦手なままなんだろう?」
先ほど尋ねられた台詞を投げつければ、今度はトワの代わりにジープが押し黙る。沈黙は目を開けたジープがその青い瞳でトワを見つめるまでの短い時間の間だけ訪れた。
「急ごう。身体が冷えるよ。」
青い瞳が揺らめいて、微かに陰る。それを隠すようにジープが前を向いて歩き出した。トワはその後ろを追うべく、また歩き始めた。