第1話 「雨の予感」
魔法のiランドで編集していた作品です。
「クソみたいな奴だな。」
隣から落ちた台詞に内心では頷きながら、ヒイラギ・トワは形の良い眉をひそめた。隣で同じ軍服に身を包む男と似た感想を抱いた自分に心穏やかではいられなかったのだ。しかし、極僅かな表情の変化に気付く者は少ない。トワの横に並ぶ同僚はそんな少数派の一人だ。視線に気付いた横顔がトワを見下ろす。三日月に細めた瞳の奥では海よりも冷たい色が浮かべられている。相変わらず胡散臭い笑顔だ。
「おっと、これは失礼。」
失言だと、朝露の一雫も思っていない口調である。
「仮にも大国の王位継承者だ、外道であろうとなかろうと野放しには出来ない。噂では、規格外の加護持ちだと記憶している。早急な対応が何よりの杭となろう。」
返しながらトワ自身の言葉も褒められたものではない。
「2人とも口を慎みたまへ、不敬罪で首が飛ぶぞ。」
即座に机を挟んだ正面から苦笑混じりな叱責が飛んでくる。
執務室に静寂が満ちる。大きく窓を取ったこの部屋に射し込む日の光だけが温かな空気を運ぶ。開けはなされた両扉の向こうで澄み渡った空からの風が雪解けを知らせていた。
景色を背に上官はその重い口で再び命令を下す。出会った頃より幾分皺の刻まれた目元には薄っすらとクマが出来ていた。件の問題が難航しているためだと容易に想像できる。それを体現するように続けられた声は酷く疲れていた。
「加護を受けし者 ヒイラギ・トワ 並びに加護を受けし者 サンショウ・ジープ。両名に大国王位継承者 ナキア王子の捜索を命ずる。これは陛下より内密の勅命である。」
厄介なことになる。予感ではなく、明確な断言を下した胸の内を隠してトワは形式通りに片手を左胸に当てる。
「息吹の女神が微笑む限り、忠誠を我が君の元へ運ばれますよう。」
かつて古の契約はたった一人のためだけに確約する言葉だった。愛しい者へ。大切なものへ。唯一無二の存在へ。いつからかそれは、権力者に贈られる祝詞に代わる。この国の王に、忠誠の名の下の盟約を。形だけの言葉だけが残されて久しい。
トワはこの儀式が好きではない。トワだけでなく、ここに「集められし者」達は鼻に皺を寄せて唸るだろう。国も伝統も、糞食らえである。大切なことは民の血が流れぬこと。そのための儀礼的口約束なら、甘んじよう。譲歩が心情を抑えて身体を動かしたに過ぎないのだ。
この国が好きだ。国土の半分を森が占める豊かな自然。争いを避け、言葉を紡ごうとする人々。貧困の差が全くないわけではない。全ての民が幸せである、そう断言もできない。それでもこの国は美しい。そして王は、民のために多くのことをしている。儀礼であろうと、命に約する理由は確かに、あった。ある、ではなくあったのだ。
しかし、名君と名高いかの王が一つだけ犯そうとしている罪があることもまた事実であった。
それ故に、ここ数年「集められし者」は王に対し好意的ではない。忠犬と呼ばれ手足となり何処へでも駆けていた姿はもはどこにもありはしない。独立した組織として動くことの方が多かった。恐らく、これが王からの最後の命令になるだろう。
「息子を探してくれ。」
ここにはいない、以前はよく拝聴していた思慮深く厳格な声が聞こえた気がした。
「私がこの国を託すと決めた、あの子を救って欲しい。」
幻聴ははそう続ける。
何故。トワは姿のないかの君に、そう問い詰めたくてたまらなかった。聡い王のことだ、「集められし者」達が、臣下が、どう反応するか全て分かっていたはずだ。それなのに、何故。
次世代の王に、多くの後継者の中から選ばれし者が何故ナキア王子なのだろうか。
「紅の狗」と呼ばれる業火の罪人。荒れ狂う焔で自らを燃やし尽くそうとした者。自殺行為は天への冒涜であり、大罪の一つだ。加護を受けて生を持つこの国では、息吹の女神が微笑む限り生きることを全うしなければならない。赤子でも知っている。それが世の摂理だ。加護を全うせずに魂魄を歪めた魂は、天に登れず地に堕ちるという。加護とは使命であり宿命でもある。命有る限り使えるモノであり、命尽きるまで背負うモノ。
最も王の器から遠く、最も王の座に近い者、ナキア・クレナイ。業火の罪を背負いし王子。その火が消えることを望まれて生きる者。
ひと雨、降るな。
トワは窓から吹き込む穏やかな風に湿った雨の匂いを感じていた。そして、幾日か先の空を、ぼんやりと想像した。