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清和の王  作者: 才谷草太
源義仲の反乱
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源義仲登場

 治承四年(一一八〇年)、以仁王の平氏打倒令旨を受け、諸国の源氏に挙兵を呼び掛けたのは、源行家という男だった。そして、頼朝を始め源氏が立ち上がるのだが、その中には行家の甥である、源義仲(木曾義仲)も居た。


 義仲が歴史の表舞台に担ぎ出された最初の事件は、信濃で繰り広げられていた。


 信濃の豪族、笠原平五頼直が平家に味方し、源義仲討伐の為に木曾への侵攻を企てていた。しかしそれを察した信濃源氏の村山七朗義直は、阻止戦を開始する。九月七日の事だった。

 この戦は長期戦となり、消耗の激しかった源氏方の村山は、仕方無く源義仲に援軍を依頼。するとそれに応じた義仲は、大軍を率いて向かった。

 共に消耗していた戦場に、新たな大軍が現れた事で、平家笠原軍は直ぐに撤退をし、態勢を立て直しに図る。


 しかし、この翌年に平家方に大事変が起きる。


 治承五年二月、平清盛死去。

 「平氏に非ずんば人に非ず」とまで言ってその全盛期を築き上げた、平氏の棟梁の死。既に各地では源氏方がそれぞれに挙兵し、平家討伐を進める中での棟梁の死は、大きな転機となる。


 時を同じくして、信濃源氏と互角に渡り合っていた平家軍武将の城資永も死去。その家督を継いだ長茂が指揮を執り、同年六月に一万の大軍を率いて信濃へと出兵する事になる。

 対する義仲軍は三千騎程。どう見ても平家方有利だった。


 六月十三日。千曲川の対岸より、平家側に渡河する大軍がある。そこには多くの赤旗が掲げられており、長茂は援軍が来たと喜んで迎えた。

 ……平氏は赤、源氏は白の旗を目印にしていた。これが今日の紅白戦の由来になっているとの一説もある……

 長茂は赤旗を見るなり渡河を許可し自陣に受け入れた。

 しかし、渡河に成功したその軍隊は、城を守る本軍に接近するや否や赤旗を棄て、白旗を掲げる。源氏方の将、井上光盛の奇策だった。

 遥かに劣る軍勢での奇襲で、長茂軍は一気にその数を減らして行く。そして遂には撤退を余儀なくされる。後に『横田河原の戦い』と呼ばれる戦は、こうして幕を閉じた。


 戦に敗れた長茂は越後に戻るが、その求心力の弱さから離反者が相次ぎ、奥州会津へと逃亡するが、そこでも奥州藤原氏に攻撃され、没落して行く。

 一方の義仲は、悠々と越前国府に入り、越後の実権を掌握。着実に東北方面の支配を強めて行く。そして、この戦の大勝利に沸き立つ北陸諸国の源氏側の反発が強くなり、徐々に平家が圧され始める。


 寿永元年(一一八二年)、以仁王の遺児である北陸宮が義仲を頼って来ると、これを擁護。以仁王挙兵を継承する立場を明示し、また関東一円を掌握していた、同族の頼朝との衝突を避ける為に、彼の一派である武田信光ら甲斐源氏が進出していた南信濃への勢力拡大はせず、北陸方面への勢力拡大を選択する。



 破竹の勢いに乗った義仲だったが、翌年の寿永二年からその歯車が狂い始める。


 源義広が関東の勢力争いを頼朝と繰り広げていた。頼朝は手を組み、源氏の力での統率を望んだが、義広自身はこれを拒否し、独自勢力を伸ばし始めた。更には鹿島社の所領の横領まで行い始めた。その事を頼朝は諫めるが、義広は反発。これにより両社は対立し、遂には義広が頼朝討伐の兵を挙げるが、その軍行途中で小山朝政に敗れる事となり、本拠地を失う。

 その後、彼は義仲を頼って身を寄せ、義仲自身も不憫に思い庇護を与えてしまう。


 この事により、頼朝との関係に不調和音が生じて行く。



 寿永二年四月。平家の棟梁となった平維盛は、北陸で勢力を伸ばしている義仲を危険視し、十万の大軍を向かわせた。

 両軍は越前・火打城にて激突し、この戦にて義仲は敗走する。そして撤退する義仲を追い、平家側も越中へと向かうが、般若野の戦いに敗れ、一旦後退という、均衡状態が続いた。


 そして五月十一日…。義仲はこの日、昼間に小さな部隊を使い、小規模な戦を仕掛け、陽が沈むと兵を引き揚げさせる。夜中には戦をしない、という当時の常識の為、この日の戦は終わったと、平家軍は安息の時間を採る……だが、寝静まった時、突如三方から燃え盛る牛の大群が突撃して来る。

 牛の角に松明を括り付け、その日に混乱した牛は不規則に走り回る。また、その牛に更なる混乱を来した平家軍は、唯一攻めて来ない一方へと逃げるしか無かった。大混乱に陥った平家軍は、その安全地帯へと我先にと逃れて行くが、そこに待っていたのは断崖絶壁だった。

 次々に谷底に転落する平家軍。この倶利伽羅峠にて、平家軍は十万の大半を失う事となる。


 そして平家軍大将、維盛は京に敗走。これを追撃する様に義仲軍も京に向かう。その途中の加賀篠原で追い付き、既に抗戦能力の無い平家軍を強襲。壊滅状態にまで追い込み、更には京までの道中で武士達を仲間に引き入れ、大軍となったまま京に向かう。


 その状況を京で知った平家は、都の防衛を諦め安徳天皇を擁し三種の神器を奪い西国へと逃れるが、この時後白河法皇は比叡山に逃げ込み、源氏の到着を待っていた。



 既に軍事力の均衡は破られた。

 当初、後白河上皇は「源氏・平氏の両立の元での政治」を考えていたが、それすら叶わぬ状況になっていた。そして、平氏側の武将も清盛の死後は後白河上皇へと従う者が出始める。



 七月。

 義仲は比叡山の後白河上皇を救出し、京へと上った。京の都に源氏の白旗が靡くのは、二十余年ぶりの事だった。

 そして三十日…公卿議定において、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が義仲と共に京に上った源行家という順位が確認され、それぞれに位階と任国が与えられることになる。

 そう、中央政権は頼朝を最も信頼し、評価していたのだった。そして更に、京に大軍を留め治安維持に乗り出す義仲には、弱点があった。

 この大軍は行家を始め、近江・美濃・摂津源氏と言う混成軍であり、その統率は義仲では力不足だった。あくまで棟梁は『源頼朝』であり、それぞれがそれぞれの指揮系統を持っており、義仲の命など聞く事は無かった。

 京は連年の飢饉で食糧事情が悪化している所に、大軍で押しかけ、遠征で疲労困憊の統率の執れない軍は略奪行為まで行う。そしてこれに対し、京を守るのであれば食料は必要だと開き直りまで見せ、その立場を危うくして行く。




 義仲は、頼朝と違い京で過ごした事も無ければ、政治・文化・歴史の知識が薄かった。

 その為、武士としては踏み込んではいけない領域に、その足を入れてしまう事になる。そしてそれは、後白河上皇と平家一門が対立した切っ掛けとなった領域…。政治だった。そして、天皇家が最も神経を遣う『即位問題』だった。


 頼朝と対立し、更には後白河上皇とも対立してしまう義仲。

 平家の勢力を弱めた第一人者が、没落への道を歩み出す事となる。

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