歴史への道標
「しかしながら、そう上手く事は進まぬと思います」
義盛は自らの言葉を、ゆっくりと否定しつつ政子の顔を見る。
「策は無い…と、申すのか? 自らの発案を否定するとは大殿の御前に於いて気休めを申したと?」
表情を変えずに政子は問いかけ、義盛と頼朝の顔を交互に見つめる。
「九郎義経殿を奥州に向かわせ、その地を治むる要とする。さすれば英雄の下にどれ程の猛者が集まり、 この鎌倉をも超える拠点となるやも知れませぬ…」
「それをさせぬ為に奥州に向かわせるのでは無いのか?」
頼朝は義盛の言葉の裏に、何かを秘めていると感じた。無論政子とてそれを感じており、続く義盛の言葉を待つ。
「さて、奥州を治める藤原氏も盤石とは言えぬ状況であることはご存知でございますか? 秀衡は確かに 都との繋がりもあり、力も絶大でありますが高齢であり、その後継たる息子・家臣を思う気持ちも強い。そこに九郎殿が向かえば如何なるか…」
「息子同然に思われていたと聞く。そこに武勲を上げ奥州を訪れるとなると取り込もうとする」
頼朝が不安気な笑みを浮かべ、政子を見ると、少し首を横に振る。
「普通に奥州入りすれば警戒心を煽り、そう事は上手く進みませぬ」
その言葉を吐きながら義盛を見る。
「その方は義経を餌にするおつもりか? 仮にも自ら使える主ではないのか?」
政子の問いかけに義盛はニヤリと口角を上げて笑う。
「主であるからこそ、生きて頂く策にございます。低位とは言え任官され、此度の戦の英雄と成らざるを 得ない進軍を何度も行い、しかしそれは全て影でなくてはならぬ存在。通常であれば疎まれ消される存在でしょう。しかし、それを御大将が弟を討つ事になれば英雄への嫉妬から殺めたとなるやも知れぬ杞憂が残ります」
「殺さず、存在を…消すと?」
政子が珍しく驚きを表情に出す。
その言葉に頼朝は未だ理解がついて行けず、訝しそうに眉を寄せて二人を睨む。
「伊勢義盛よ、その方は回りくどくて好かぬ。結論を申せ」
義盛はその言葉に両手を床に付き頭を下げて一礼する。
「嫉妬深く自らの手柄をこれ見よがしに訴える者、英雄を忌み嫌い陥れようとする者。鎌倉軍には幸い、このような者が従軍している事をご存知かと思います」
義盛のその言葉に頼朝は頷く。
「精々、彼らに手柄自慢として嘘を並べさせましょう。九朗殿の手柄を横取りさせ、実情無き英雄を九朗殿に演じて頂き、その事実関係を頼朝公自らが調べる姿勢を見せます。そうなれば義経憎しの輩が有りもせぬ噂を囁き初める事は容易に想像が付き、九郎義経の鎌倉入りを拒否する名目が立ちます」
「鎌倉入りの拒否…そうか、後に頼るは奥州藤原秀衡か!」
ようやく事の次第が理解出来、表情を明るく変える頼朝。
「はい、上手く行けば逆心義経の噂も出るやも知れませぬ。捕縛せよの命を出されると九郎殿の性格上、濡れ衣を着せられて終わるのは好まず、何とか身の潔白を証明するために奔走しようとする筈にございます」
「奥州入りを果たしさえすれば、恐らく戦の英雄として対鎌倉の指揮を執らせる秀衡…」
「息子達を九郎義経の下に就け、奥州を任せるでしょうね、秀衡という男であれば」
義盛の言葉に続く頼朝と政子。
「先に申した通り、秀衡も既に高齢。息子達には秀衡ほどの力も思慮もございません」
「義経殿を差し出せと脅す…?」
政子がハッと声を出す。
「その通りにございます。決して鎌倉自らが九郎義経に戦を仕掛けてはなりませぬ」
「脅しに耐えかねた奥州勢が九郎を討つ」
「無論、私が居る限り討たせはしません。奥州勢にはこちらで罠を仕掛けて『義経の首』を偽装させて鎌倉に届けさせます」
「…秀衡も九郎も不在の奥州を討つ大義ができる…」
「源氏の世の誕生…。武士の世が来ます」
義盛の言葉に、頼朝が涙ぐむ。
「父の描いた武士の世、清盛が描きながらも道半ばに権力に取り憑かれた夢の世」
「そこまでの合力は致します。平家を討ち、奥州を平定する切掛…その先は一切に関与致しませぬ。故に頼朝公初め鎌倉軍はその後の一切を義経を始めとする我らに関せず、とお約束ください」
「その公約を反故にすれば如何する?」
政子が義盛に問いかける。冷たく、恐ろしい笑みとともに。
「我が名、伊勢義盛は偽りの名。真なる名は無い…。修羅として、鬼として、刻と共に生きている者。我を敵に回すのであれば、それ相応の犠牲を覚悟なされよ」
義盛は無表情のまま、膝を立て一瞬で頼朝に肉薄し刀を抜き放つ。その刹那の移動技術と抜刀技術で、頼朝の首筋に白刃が当てられ僅かに血が流れる。
「我はこの刻の者に非ず。ご覧の通り人が意識をも凌駕する者。我に向かうのであればその存在すら打ち消してくれる」
義盛は静かに殺気を解き放ち、圧力を頼朝と政子に掛ける。実際に刃を当てられている頼朝は息すらできず、汗を流し、顔色を蒼白に変えていく。
「よい、わ、分かった。刀を納めてください」
圧力にやられた政子も汗を流しつつ声を出す。そこには弱者の言葉遣いを余儀なくされた政子の姿がある。そして頼朝も慌てて口を開く。
「す…済まぬ、戯言と流しては頂けぬか」
人とは思えぬ程の殺気と速さ。そして歴史を知るからこその知略。人知を超える男を前に、時代の立場など役に立たない事を本能的に知り、そして怯える。
「我は刻を守る者。そして流れる者…。この先我の道を遮らぬ限り、お二人の前に現れる事は無いでしょう」
義盛は静かにそう言い放つと、即座に元の位置に戻り、一切の無駄な動きなく納刀、座礼をし、静かに部屋を出た。
「政子…我らは恐らく、途方もないお方を味方にしていたのでは無いだろうか」
「殿、思い違いは身を滅ぼします。彼の者は九郎義経の軍神…。我らは平家に勝ち、奥州の平定と義経へのその後の放免まで、神の手の上にございます」
この夜、歴史は当然のように作られ導かれ、そしてケンイチという存在が何者なのかを知る旅への出発の第一歩が始まった。