頼朝と政子
源氏総大将、頼朝の屋敷は豪華ではなかった。だが質素な中にも確かな品格が感じられる物だった。
義盛一行は頼朝の家臣の案内で、中庭の見える一室へと通され、下座に座り頼朝を待つ。巴は変わらず目を伏せてその正体を隠そうとし、龍馬は辺りを興味深そうにキョロキョロと伺っている。そんな中、頼朝が現れて上座へと座る。そしてその後に女性が少し離れた左側に座り、義盛たちを見つめる。
美しく長い黒髪を持ち、威圧感すら感じる程に凛とした女性…、恐らくは北条政子であろう。義盛は頼朝に続き、その女性に向かっても頭を下げる。それを見た龍馬と巴も、厳かに頭を下げる。
「よい、上げろ」
簡単に言葉を掛けてくる頼朝に対し、義盛はゆっくりと頭を上げて頼朝を見る。
「して其の方、駆け引きと申すは如何なものよ」
「西国遠征に際し、即座に屋島を狙わぬ事、九郎殿ではなく範頼殿を大宰府に向ける事。奇襲を恐れさせ戦力を分断し、かつ京に座する院へのお心遣いとも取れる軍策はお見事で御座います」
義盛はそう言うと再び頭を下げるが、頼朝はつまらなそうに言う。
「それだけか…? 案外とつまらぬ男よのう」
「恐れ多き事ながら、手土産として『熊野水軍』を味方に引き入れて参りました」
頭を下げたままで、義盛はサラリと言い放った。
「何と申した? 熊野水軍じゃと?」
「はっ。ただ熊野別当を動かすに当たり、院宣という方法を採らざるを得ず、完全に頼朝公の配下に就いた…とは言い難き事ながら、軍としては御総大将頼朝公の配下と同じ事と成りまして御座います」
ゆっくりと頭を上げながら、横目で政子を見る。薄らと笑みを携えて穏やかに座っている。どうやらここまでは政子が驚愕するほどの事では無いのだろう。
「そうか…そうか。それであれば事は進み易うなったのう。範頼の軍行を早むる必要もあるか?」
頼朝は自らの顎鬚を触りつつ、怪しい笑みを浮かべている。
「否、此度伺いました議はその事に御座います」
義盛の言葉に、頼朝は鋭い目を光らせて問う。
「何じゃ、其の方は我の軍策に異を唱えるか」
威圧する様な視線に、義盛はグッと胸を張り空気を吸い込む。その様を背後から眺める龍馬は、頼朝相手にどのような交渉を進めるのかとワクワクした表情となる。その様を政子は冷静に眺めながら分析をしている。
義盛はゆっくりと左手を水平に上げ、西を指差し一気に喋りはじめる。
「遥か西方諸国において、伊勢平氏を含める残党一派に反乱の兆しあり。恐らくはひと月後には挙兵する事と成りましょう。しかしながら京には頼朝公代理として京守護に当たる九郎殿が居り、反乱の鎮圧は即座に行われましょう。その鎮圧戦に『熊野一党』が絡めば、屋島に陣取る平家は東への退路が絶たれ、西へと向かうしか有りませぬ。しかしそれと同じくして太宰府への軍行が進められておれば、平家軍を二分し事に当たる他無く、鎌倉より伸びた軍行で少ない兵糧でも対抗はできましょう。讃岐屋島・太宰府、共に平家にとっては失うわけにいかぬ拠点にて…」
一気にそこまで言葉を続けると、それを止めたのは政子だった。
「もし…軍策の最中であるが…」
声量は落としていたが、よく通る声。それを聞き逃さず即座に言葉を止めた義盛に対し、政子はクスリと笑顔を出した。
「東に熊野水軍と組みした義経殿が居られるのであれば、平家一門は屋島を捨てぬのか? 彼奴等は福原を捨て屋島に退いた一門ぞ」
つまり平家は軍を二分せず、総力戦で大宰府を守るのでは無いかと言う事だ。
義盛は穏やかに頼朝を見ると、軽く頷く表情を確認する。その後に、今度はゆっくりと言葉を発しだした。
「屋島より全軍率いて大宰府に向かえば、背後よりこれまで繰り返して来た奇襲が来る…という恐怖心が御座います。そこに熊野水軍が加われば、例え海上にあっても挟撃の可能性は大きく、また、播磨を通り太宰府へと向かう鎌倉軍の足止めの為に、沿岸周辺の平家縁の兵力は海上には向けられぬ、という事情もございます」
「それであれば…屋島への奇襲には成らぬのでは御座りませぬか?」
悪気なく微笑んでいるようにも見えるが、明らかに義盛を試そうとする笑みである。
「九郎義経殿は、決して京を離れぬ…という立場が奇襲への手助けになりましょう」
「…九郎は屋島に行かぬと申すか?」
頼朝は少し楽しそうに、身を乗り出して聞いた。政子は義盛を探るようにジッと見つめている。
「院より、九郎義経殿を検非違使少尉従六位の打診が御座いました」
その言葉に、頼朝は笑みを瞬時に引きつらせた。
「何だと…? 我の推挙なくか?」
「は。恐らくは後白河法皇様が頼朝公との駆け引きの材料とし、手元に置いておきたい将が九郎殿なのでしょう」
「成らぬ! 九郎任官はまだ成らぬのだ!」
頼朝はその場に立ち上がり、激しく言い放つ。しかし、この頼朝の言葉で義盛と龍馬は確信を持った。『まだ成らぬ』という事は、推挙しないという訳ではなく時期では無いという事。であればこの先の交渉がやり易くなる。義盛は思わず政子を見た。その視線に気付いた政子は、首を小さく左右に振り、笑顔を浮かべていた。それを確認したのは龍馬も同時だった。
「ちゃちゃちゃ…頼朝殿、いかんぜよ」
遂に龍馬が口を開く。義盛はそれを確認した後に頭を下げ、ニヤリと笑う。当然政子に向けた笑みだった。
「ワシは田舎もんじゃき、言葉遣いに関しては勘弁してつかぁさい」
と前置きをした直後、頼朝に座る間も与えずに喋り始める。
「政子殿、九郎殿の外見はご存知じゃろうか? 京での噂は御耳に入っちょるがやろ?」
人懐っこい笑顔で政子に直接問い掛けると、政子は咎めるでも無く笑顔で返す。
「身の丈は低く色白にあり、その身のこなしは天女の如く美しく、その御顔も女人と見間違う程に美しい」
「そうじゃ、ほいたら本物の九郎殿は見た事があるがか?」
「いえ…されど殿より伺っております」
「我は一度面識がある故な。だが、それにどんな関係が有ると言うのだ」
「京での九郎殿は、屋敷より滅多に出ずその御姿を人目に晒す暮らしはしちょらんがじゃ。その噂は日増しに美化され、一人歩きを始めちょるがじゃ」
龍馬の言葉の後、政子の視線がチラリと巴に移るのを義盛は横目で確認した。どうやらこのやり取りで先を読めたようだ。頼朝は軍略に関しては秀でているが、この手の策略は苦手と見える。政略は政子だという湛増の言葉通りだ。
「何が言いたいのだ、はっきりと申せ」
少し苛立った口調で頼朝は座り、義盛と龍馬を交互に見据える。
「この院の任官に異を唱えず、更には源家内部に頼朝公以外に権力を持たさぬ策がある…そう言いたいのですね? 殿は其処を聞きたいと仰っているのです」
政子が言葉を挟んだ。実際の所、そこまで読めているかは謎だが内助の功とでも言うべきか、総大将を凡才と思わせぬ心遣いが、政子の器量を現していた。
「失礼仕りました。ただ任官をお許し願うだけで御殿に面会仕る訳にはいかぬ故、切り出す好機を迷っておりました」
義盛は更に深々と頭を下げる。が、無論嘘である。
政子と頼朝を試していたのだ。結果、軍略は頼朝、政略は政子という情報に偽りはなく、更には政子の頼朝を想う気持ちや采配までもが理解できた。これでは頼朝も頭が上がらない訳である。
鎌倉との駆け引きはこれで終わり、いよいよ本題へと流れていく事になる。
だが、この一連の義盛達の動きが後の刻に伝説を生み出す事になって行く。その事に、本人達は気付くはずもなく、ゆっくりと歴史が動き出していく。