伊勢と屋島
京への帰り支度を終えていた義盛一行を、湛顕は名残惜しそうに眺めていた。まだまだ聞きたいことは沢山あり、この山の中では仕入れられない京の実情も気になっていた。だからと言って急ぐ旅を足止めする事もできず、湛顕は作り笑いで見送るしかなかった。
そんな湛顕にとっては救いの手が現れた。我が父湛増である。
「もう終わっておったか。全く…ひと所に落ち着かぬは、源家も平家も同じか」
皮肉一杯に笑って見せる湛増。一介の武門より端を発した両家は、朝廷へと駒を進め、一方はどんどんと上り詰め、一方は鞍馬山から奥州、そして挙兵。一方は伊豆から鎌倉。二世代に渡り落ち着きのない事である。
そんな湛増は義盛に視線を止め、軽く頭を下げて言葉を続けた。
「どうであろう。急ぎの旅とは知っておるが、帰京する前に少し熊野の山を見せたいのだが?」
湛増はそう言うと、屋敷の塀から見える新緑の葉が繁る山々を、目を細めて見ている。その瞳には、何か得体の知れない物を危ぶむように揺らめく影が見えていた。
「別当殿のお誘いであれば、お断りするのも困難ですかね」
義盛はその視線の先に何が見えているのか、おおよその見当はついた。熊野三山を取り仕切る別当という立場は、今現在不安定な物なのだ。源家と組むという院宣を受けてはいるものの、その事を朝廷に報告していない今はただの密約に過ぎず、隣接する伊勢には未だ平家残党が少なからずいるのだ。熊野一党に取っては杞憂以外の何者でもない。
ゆっくりと立ち上がり、義盛はグッと背伸びをする。と、与一と巴も立ち上がろうとする。
「あ、イイですよ。私と別当殿の二人で行って来ます。なに、只の散歩です」
それを義盛は静止し、湛増に対して軽く頷いた。あちらが護衛や付き人を伴わない誘いに、こちらが数人で行くわけにはいかない。
「奥方、少々お借りしますぞ」
湛増は巴に向かい頭を下げ、悠々と外へと向かって行った。その背中を追うように義盛も続く。
「…無用心すぎるであろう」
巴が不安そうに義盛を見つめるが、与一はそんな巴に視線を移すことなく
「大丈夫でしょう。この場で義盛殿に大事が起これば、別当殿の器が問われる。熊野一党にそのような者はいない」
与一のその言葉に、湛顕はどこか満足そうな笑みを溢して二人を見送った。
「急ぐ旅の足を止めて、済まぬな」
「いえ、どのみち数日かかる道程です。どれほどの狂いもありません」
参道を歩きながら、ゆっくりと皐月の陽光を楽しんでいた。風が心地よく、陽も優しい。
「伊勢周辺の平氏残党が、不穏な動きを見せておる」
表情を変えず、穏やかな様子のままで湛増が口にする。まるで世間話をしている様な口調で、更に他人ごとであると言わんばかりに。
「そうですか、意外に早いですね」
義盛も木漏れ日を楽しむ中の世間話のように、湛増に返す。新緑の葉を付ける木々の下を、のんびりと歩いている二人。もちろんどちらにも警護の者など就いておらず、完全に密談状態である。それほど機密性のある事なのかと思えば、何の危機感もその声から伝わってこない。
「やはり読んでおったか。さて、いかが收る?」
義盛の反応に、この反乱は計画に織り込まれている事を悟った湛増は、何気なく問い掛けてみた。
「軍略を決めるは、義経殿にて…一介の武将である我の介入する所にございません」
義盛の言葉に、初めて湛増は眉をしかめた。
「其の方は伊勢の出自では無いのか?」
「名が伊勢というだけで、伊勢の国との縁はございません。此度の平氏残党の件も、直接関わりの無い事にあり、独断で采配は振るう事にはなりません」
湛増の確認したいことはそこにあった。伊勢の反乱勢力と義盛に縁があれば、何かしらの裏も可能性としてはある。裏が無いにしても縁があれば熊野一党としても扱いに迷う。
「ですが、もし仮に我ら京守護にあたる源家一派が伊勢平氏と対する事になれば、熊野一党のお力をお借りするかも知れません」
「無論。伊勢ともなれば我らの力が大いに発揮できよう。その時には何なりと申すが良い」
「しかし、我が殿は無欲にて、更には総大将頼朝公の弟君。諸々の事情により任官は未だ無く、禄も出せません」
「この期に及び、我らに禄を出そうと? 十分に貰っておるわ。それに…」
湛増は足を止め、ゆっくりと伊勢の方向を睨みつける。
「其の方には分かっておるのだろう? 伊勢平氏、屋島平氏の存在がどれほどの驚異であるのかが。屋島に座する平氏は我らにとって、最も注視せねばならぬ存在に変わりは無いが、院宣を受け源家に就いたとなった暁には、伊勢に忍ぶ平家残党すらも驚異と成り得るのだ」
紀伊半島の東に伊勢、海を隔てて屋島。無論、戦となれば熊野一党も負けてはいないだろう。伊勢平氏の残党を蹴散らす程の兵力は、十二分にあるのだから。だが何の後ろ盾も無く平氏と戦をする訳にもいかぬ彼らは、どちらに転ぶ訳にもいかなかったのだ。そして院宣を受けた後に、源家が屋島から平家を追い出す事ができたとしても、伊勢には残る。
「伊勢平氏の反乱…これも鎮める事が前提、という事ですね?」
「思い違いをするな。盟約を前提に、伊勢平氏残党討伐に協力致す、と言っておるのだ」
湛増は笑いながらそう言った。そしてその真意を瞬時に察した義盛は、グッと顎を引き、考え込んでブツブツ言い始めた。
「伊勢平氏の反乱…熊野水軍…そして任官…」
そんな義盛を見た後に湛増は小さく笑いながら、天を見上げた。
「聞けば頼朝公よりも、その奥方政子様に政の才があるようだ。化かし合いであれば、政子様の前で行った方が良かろう」
天を見上げて発した言葉に、義盛は足を止める。
納得できた。全ての事柄に。
弟に役を負わせない理由…。政子は恐れているのだ。夫以外の者が力を持ち、我が力が及ばぬ事態に陥れば、源家の崩壊にも繋がりかねない。頼朝公に政の駆け引きの才が無いのであれば、政子様の知らぬ所で策略が動いてしまえば頼朝公の力が削がれてしまう。
つまりは政子様に情報を握らせておけば、軍略は頼朝公、政略は政子という流れで鎌倉に疎まれずに済むのではないか…。更に熊野水軍という力を源家に引き込み、彼らに禄を与えるという名目で義経に役を与えられる事に対して、黙認させる。全ては源家の力という前提のもとに交渉が進めば…。
人の懐に飛び込み、安心感に浸らせる。そして裏切らず魅了させる。そんな人物を巻き込み鎌倉との交渉に当たれれば、万事上手く行く。そして、義盛には最適な仲間が居た。
「別当殿、お力をお借りする際にはこちらから使いの者を送ります。それまではどうか…」
「委細承知しておる。どうやら鎌倉との仲も整えねばならぬ様子にて、我らは帝に認められれば、それ以上は今の望みはござらん」
この中の会話で鎌倉との力の均衡を保つ事が急務、とまで理解した湛増に、義盛は軽く微笑み返して、参道を歩いて行った。
その日は夕刻まで、義盛と湛増・湛顕は今後に関して議論をした。伊勢平氏の反乱がいつ起きるのか。そしてその大事にどう動くのか。更には今後の鎌倉との関係作りをどう進めるのか。
出立の日を一日遅らせてまでも、その事を議論する必要は大いにあったのだ。
そうして義盛達が熊野より京に戻ったのは、後白河院よりの通達から十日後の事となる。