闘鶏
翌朝のまだ空気の暖まらないうちに、熊野の山は熱気に覆われていた。ゆっくりと朝日は山々からその姿を出し、新緑の木々を照らし始める。
その光の中では、大勢の男達が大きく円を描くように、その中心に座る男の姿を眺めていた。
ある者は怪訝そうに、ある者は好奇の目で。しかし誰も言葉を発さず、統制の取れた一党を思わせる。
そして円の中心に座る男は、同じような静けさを保ち、正座をして目を閉じている。その姿はまるで自然の一部でもあるかのように、ただそこにある岩のように見える。
そして、太陽が完全に姿を現した頃、もう一人の男が現れる。
そこは大きな社の庭。
立派な門の外にも、それを見学している男共に埋め尽くされている。その男達の目に、社の奥から姿を現したもう一人の男の姿が映る。
「待たせてしもうたの」
不敵に笑いながら、その男…湛顕は縁側より庭に降り立った。左脇には薙刀を抱えている。
昨夜の義盛との会話で、居合と相対するには薙刀が最適と踏んでの事だった。怪しく歪む口元からは自信が漏れ、また未知の武術と対する嬉しさもまた見て取れる。
「義盛殿、いざ…」
「鶏ですよ」
目を閉じたまま、義盛は湛顕の言葉を遮った。
「…何や? 鶏やて?」
「ええ、鶏です。赤と白の鶏です。これから闘うのは吉凶を占う鶏二匹…ですよね?」
今度は義盛が不敵に笑い、ゆっくりと目を開き湛増を見据える。威嚇するでもなく、媚びるでもなく、まっすぐに熊野別当を見据える義盛の目は、その正面座敷から眺めている湛増の表情に、笑みをもたらした。
「そうだな、闘鶏…か。悪くない、悪くないが策を練りすぎるのは好かない」
好かない、という言葉を使ってはいるが、その策に乗る事は否定していない。この『闘鶏』が何を意味しているのか、湛増は理解した上で『策』とし、『乗った』のだ。
その真意が瞬時に分からない湛顕は、どこかムズ痒さを耐えながら、ゆっくりと薙刀を構える。どうやら真意は分からずとも、湛顕にとっては二の次なのだろう。先日、矢を素手で掴み取った業と居合という業の二つを、是非見てみたい。その男と試合ってみたい。その感情が湛顕を動かしていた。
「まだ若いか、湛顕」
別当湛増は、我が子の好戦的な性格をよく知っており、それでいてまだ笑ってその姿を見ていられるほど、息子への信頼もあるのだろう。
「与一殿、弓を」
義盛の言葉に、湛顕は元より巴も驚いた。
「な…何です??」
「弓を、貸して下さい」
義盛はゆっくりと立ち上がりながら、背後に居た与一へと声をかけた。
「何を考えておる! 剣術で参れば良かろう!」
巴が食ってかかるように義盛に攻め寄る。しかし余市は素直に弓を差し出した。その姿を見た巴は、二人が内密に何かしらの準備をしていたと勘付き、苛立ちを顕にする。
「二人か!出来上がっておるのか!」
怒りの矛先は何故か義盛ではなく与一に向けられ、首を絞められる与一を背に、義盛は湛顕と向き合った。
「さあ、試合おうか」
背後でヒステリックに責められる与一を無視しながら、弓を構える。その矢の先端は矢尻を落とし、布で包まれた錘が付いていた。
「主…初めより弓で試合うつもりやったか」
準備万端とばかりに弓を構える義盛を見据え、湛顕は深い溜息を吐いた。
昨夜、居合という正体不明の剣術に囚われ、剣の間合いから外す戦術を思案した自分。しかし義盛はそれすらも凌駕する間合いの武器を構えて、今目の前に佇む。
「卑怯…とでも言えばエエんやろうが、元より何の取り決めも無い試合やな…」
苦笑いを浮かべながら、ジリジリと横に動く湛顕。そうだ、元々自分が相手の手の内を探ろうとしたのだ。無論、実直なまでにその戦法で来るとは思っていなかったが、まさか弓で来るとは想像もしていなかった。しかもその構えは、湛顕の動きに合わせて、正確に狙いを絞っている。
『腰にある矢は二本。つまり三本を避けたら弓は終わる…いや、初撃を避ければ装填の隙に一撃が』
湛顕はジリジリと円を描くように動きつつ、間合いをゆっくりと詰めて行く。
首を絞めていた巴も、その力を緩め、静かに二人を見守っている。空気が次第に張り詰めていくのが、誰の肌にも伝わっていた。それを一番感じていたのは湛顕だろう。
『! 来る!』
湛顕の目に、飛来する矢が見えた。
初弾が彼の顔面に向かって空気を切り裂いていた。だが、その初弾のみに集中していた湛顕は、その正確無比に放たれた矢を紙一重で交わすと同時に間合いを詰め、義盛の左腕に薙刀を放つ。
手首を回し、刃を上に向けて撫で上げるように…
義盛と湛顕の体がすれ違った直後、豪快に倒れたのは湛顕だった。そう、湛顕からすればすれ違う筈が無い立ち位置の筈が、気が付けば義盛が自らの横を弾けるように駆け抜けて行ったのだ。
弓を放った直後、どうしても左腕が体の前に残る。薙刀で勝負を決めるのであれば、まずその左腕を狙うのが最も効果的である為に、自然とそこを狙う。
だが矢を放った直後に、義盛は右足を踏み出すと同時に弓を手放し、体を捻る。そして抜刀体勢に入った時に薙刀が左腕目掛けて切り上げて来る。この一撃に賭けていた湛顕は、義盛の体の動きが見えていたにもかかわらず、それを止める事が叶わない。半身となった義盛はギリギリで薙刀を交わし、抜刀と同時に右腕一本で湛顕の胴を打ち抜いた。片手抜刀を可能にしたのは、鞘の無い木刀ならではの戦術だった。
腹を抑えて倒れ込んだまま、湛顕は義盛に苦笑いの表情を向ける。
「何んもかもが…準備されとったんかぃ…」
「ええ、弓なんて使ったことは殆どありませんし、偶然まっすぐ飛んだだけです」
「やられたわ」
くっくと倒れて笑う湛顕と、あまりに一瞬の出来事に唖然とする一同。あれほど統率の取れていた一党にザワめきが伝播して行く。仕掛けを聞けばどうという事は無いのだが、その動きが刹那の出来事であれば驚きになる。凡将であれば、我が身に起こった事すら理解できない程の出来事を、湛顕はしっかりと理解し、負けを認めていた。無論、少し離れていた別当湛増もまた、確認して笑みを浮かべている。
与一も確認はできたが、自分であれば交わせただろうか…と、身震いをしている。巴に至っては確認できたかも怪しい。いや、この場に居た一党のどれ程が確認できただろう。ザワつきから察しても、恐らく六割は理解不能だったに違いない。
「勝負あり…だ。この闘鶏、白の勝ちとする。皆もしかと観たな?」
静かに、だが威圧感のある声で湛増が言うと、一党は右腕を高く上げ、鬨を上げる。この時を待っていたと言わんばかりに、腹の底が震える程の鬨が。
闘鶏という形を取ったのは、仮にも熊野別当の嫡男が源氏の配下の者に敗れ従う、という事になれば遺恨が残る可能性もある。更に平家に対しての義も無くなってしまう。それを無くし就く者をコロコロと変えれば、先に朝廷からも軽視されてしまう。強いものに従う、のではなく、天命を仰ぐ。そこに闘鶏という形式を取ったのだ。
「伊勢義盛、源家大将並びに院に伝えてくれ。来る海戦に必ずや熊野水軍は源家、そして後白河院に付き随うとな」
「確かに、その旨伝えます」
義盛はその場に座り頭を下げる。この同盟が来るべき海戦に大きな影響を与える事となる。
が、同時期、京では更に源家の基盤を揺るがす策略が、後白河院により発令されていた事を、この時の義盛には知る術が無かった。