熊野湛顕
時は少し遡り、元暦元年(一一八四年)五月。
上旬に紀伊の国に旅だった義盛・巴・与一の三人は、順調に旅を進めていた。途中、盗賊やら平家の落ち武者らと遭遇もしたが、巴の活躍により事無きを得た。
彼女は男装しているものの、その顔や背丈から童か女性か、という者に見え、義盛等が警護の者に見えるのだろう。その巴の強さが際立っていたので、賊らは早々に撤退して行く事が多かった。三人は馬に跨り、ゆっくりと南下しつつ熊野を目指す。そして、中旬になった頃に、熊野の山中へと入っていた。
「しかし、こうも奥まった所に…本当に居るのか?」
熊野の道は険しい山道だ。海賊を取り仕切る熊野別当と言うだけあって、勿論海岸から近くに鎮座している者と思ったが、そこはやはり熊野三山の統括である。時には馬から下りて手綱を引かねば、とても登れそうにない山道も続いた。これではなかなか、戦闘となると奴らが有利になる。交渉中、湛増に一度でも逃走されると、彼を見付ける事はおろか、奇襲を受ける事もあるだろう。
「別当殿は代々、熊野の山奥に居を構えておられます。熊野詣をする者の多くは、東より参道に入り、熊野路を行きます故…我々の様に、北から参るは別当殿にお会いする者のみで…」
与一が説明をしている途中、義盛は馬を止めた。
『空気が張っている。茂みの奥の空気が…』
「如何なされた?」
与一もその馬を止め、後ろに居た義盛を振り向く。義盛は馬を下り、その茂みに向かって睨みを効かせる。その姿に何かを察知した巴も、ゆっくりと馬から下りて義盛に近付く。
「義盛…何が居るのだ?」
巴も目を細めて茂みの奥を覗き込む。すると、そこから黒塗りの矢が飛来して来た。
義盛の視界は既に時が遅く流れ、木々の隙間より飛来する矢が、巴に向かっているのが克明に映った。義盛はその矢を右腕で捕え、更に奥を睨む。
飛来する矢を素手で掴む。その業を見た巴と与一は目を見開き、その視線も義盛に釘付けとなった。与一などは自ら矢を得意とする以上、その矢を受けとめられる者が居た事に驚愕する。那須で見た、矢を斬り落とされるよりも彼にはショックだった。
「誰だ。矢の放ち方で単なる賊では無い事は分かってる。姿を見せろ」
落ちついた声で茂みの奥に話し掛ける義盛。神業を容易くやってのけた事を、その声が証明していた。
春の日差しが枝の間を縫う様に、地面に降り注ぐ。それでも少し薄暗い茂みの奥で、ゴソゴソと枝を揺らす音が鳴った。
出て来たのは三〇代程の男。髭面で体格も良い、そして身形も立派である。盗賊では無い事はその姿を見ただけで分かる。
「お前が矢を撃ったのか?」
「そうや、ワシが撃った」
「なぜ俺やそこの男では無く、コイツを狙った?」
義盛は、真っ先に最後尾に居た巴を狙った事に質問をした。
「隊列の最後尾を狙うんは、常識やろう…。退路を断って、残りを撃つ」
戦い慣れをしている。ただの盗賊ではそこまでは考えないだろう。義盛はクスッと笑って、巴の烏帽子を取り、顔をその男に見せた。
「良かったな、末代までの恥になるところだったぞ。コイツは女だ」
戦慣れしていて、身形もしっかりしている…そんな男が、真っ先に女を狙ったとなると、当然恥じるべき事だ。その男も驚き、巴の顔を覗き込んだ。
「何や…! ホンマかいな! いや…危なかったわ」
その男は頭を掻いて笑った。
「何故、素直に出て来た?」
二度目の義盛の質問に、その男は更に笑って答える。
「どこから放たれたか分からん矢を、素手で掴む男や。おまけに、それを当然のように振舞い、出て来いっちゅう…戦ったらワシらが負けるやろうに」
愉快そうに言う男。そして再び茂みに振り返り、声を上げる。
「もうエエぞ、お前らも出て来い。コイツ等に敵意は無い」
その声を聞いた後、あちらこちらから木々の細い音が鳴り、十人程の男が姿を現した。義盛達はすっかり囲まれていたのだ。
「一斉に放てば、俺達は死んでいたかも知れないな」
義盛はそう言って男を見たが、男は三人を順番に見定めながら言う。
「殺すンが目的ちゃうからな…せやけど、熊野詣っちゅう訳でも無さそうやからな」
「警告・様子見…か?」
「そういう訳や。済まなんだな…で、熊野に何の用や?」
「熊野別当、湛増殿に会いに来た。後白河上皇様からの院宣を届けにな」
義盛のその言葉に、そこに居た全員の男が笑った。
「院宣やと? 今度は源家に就け言うんかい? 平家に源家に、院も大層やの」
男は義盛の肩を掴み、笑いだした。その態度に巴は怒りを露わにして男の腕を払う。
「控ろ!我が夫に無礼な真似をするは、私が許さぬぞ!」
「ほぉ! 夫婦か! それも滑稽や!」
依然笑う男達。与一は弓を構え、その中の一人に狙いを定める。
「院宣を侮辱し、我が友に対してもその態度…武者に於いて許すまじき行為!」
ギリギリと弓を引き絞り、周囲を警戒しつつ一人の男を狙う。それは男達に対する警告でもあった。義盛と対話をする男を狙わなかったのは、恐らくこの中の首領だと踏み、彼を狙うと瞬時に争いになるからである。それはその男にも分かった。
「いや失敬、せやけど熊野は院宣は受けん。ワシらはワシらの意思で動く」
笑いを鎮め、男は与一に向かいそう言うと、与一も弓を下ろす。だが、義盛はその男に冷静に言う。
「それを決めるのは、アンタじゃないだろう? アンタは別当じゃあ無い。できれば案内してはくれないか?」
「ほぉ~う、何や面白き丈夫やのぉ…。エエやろう、最近は父上も何やら暇そうにしてる。暇潰しにはなるやろう」
男は自らの顎髭を撫でながら、周りの男共を集め始めた。
「父上…?」
「そうや、ワシは別当湛増が嫡男、湛顕や」
『熊野別当の跡取りか…これは良い時に出会えた。年齢的に弁慶の弟か兄か…微妙な所だが』
義盛は内心、この男を使えば、あるいは事が簡単に進む。そう考えていた。
「それは失礼した。俺は伊勢義盛、その男は友の那須与一、この女は巴だ。妻と認めた覚えは無いけどな」
義盛がそう言うと、湛顕は豪快に笑いだした。
「那須一族か、あの弓の構えは見事やったぞ、納得できるわ! それに…えらい上玉の押し掛け女房まで連れとるとは、益々面白き丈夫や!」
高らかに笑いながら、湛顕は手下を引き連れて山道を歩き出した。
これでどうやら、楽に屋敷までは入れそうだ。
義盛達は、十人の湛顕の手下達に守られながら、湛増の屋敷へと向かった。
やけに立派な門構えだった。門番も一人就いており、湛顕に頭を下げ義盛一行を通す。
警護に就いていた手下十人は、その場で解散して行った。どうやら湛顕お抱えの野等なのだろう。湛増に会える様な男達ではなかったようだ。
義盛達は馬から下り、屋敷の者達に手綱を預け、湛顕に勧められるがままに屋敷へと入った。そこは神社とも思える立派な物で、漆塗りの柱に金を施した布が貼られている。だが煌びやかとはまた違い、質素の中にも豪華さがある独特の建物だった。
「ここで待っとれ。父上を連れて来る」
湛顕は広い板間に義盛等を残し、更に奥へと入って行った。
「以外と簡単に事が進んだな…別当に会うなど、そう簡単では無いとおもっておったが」
巴が部屋の中をぐるりと見回しながら呟く。そして同じように、キョロキョロとしている与一も
「そうで御座るな、熊野三山を統括する程のお人に、こうも容易く面通り叶うとは…」
「時勢と院宣のせいだ。恐らく湛増殿も、源家・平家で揺れている筈だ。どちらに就けば熊野に有利になるか」
義盛はそこから見える庭を眺めながら、二人に言った。
熊野は平家に就いていた事で、清盛から恩赦を得ていた。その事が頼朝には悪い印象を与え、さらには現時点での院での立場すら危うくなっていたのだ。今回を外せば、恐らく朝廷に従う意思が無く逆賊となる可能性も大いにある。だからこそ、義盛は院宣を願い出て、湛増を味方に着けられると踏んだのだ。




