屋島の平家三兄弟 ~資盛と有盛~
四月下旬から五月上旬まで、雨が降り続く。元々雨の少ない讃岐は、京程では無いにしても長い雨は潤いをもたらした。しかしそれは、この地に根付き生きて行く民にとっての事。築城を急ぐ平家にとっては忌まわしい物だった。
「何もこの時期に降らずとも」
誰もがそう感じていた頃、京から流れる噂も平家に降り注ぐ。
『京の白拍子が舞い、雨を呼んだ。その者が源家に就き、源は神の力を得る』
はるばる鳴門から屋島までの防衛拠点を敷く平家だが、当然全ての野党が純粋な平家軍では無く、その地に根付いた土豪の方が多い。どの地にも増して水不足が深刻化していた讃岐の地に、このように纏まった雨を降らせた『神の力』を畏れ、また感謝する者まで出始めて来た。
その内讃岐に陣を張る土豪集団の中から、密かな声が出始める。
『萬の神は源家に向いた』
何もかもが源家に味方をし、敗戦続きの平家を見限った、と。
だがそれでも、この時に離反する者が出ていないのは地元豪族、田口一門の力が強大であり彼等がまだ従っていたからこそだった。
「有盛よ、いよいよ彼奴等の侵攻が始まろうとしておる」
屋島南嶺(屋島は南嶺・北嶺に分かれている)の北側に位置する崖の上で、資盛が海の向こうに位置する備前を眺めて言う。
「三草山の夜襲、更に鉄拐山からの奇襲。どうやら我等はモノノケと対峙していた様だ」
僅か三か月前の敗戦。弟が討ち死にし、兄が熊野にて入水、兄弟が次々に果てて行く中で隣に立つ弟、有盛と屋島に逃れていた。
「資盛兄様、我等はまだ敗れた訳では御座いませぬ。これより屋島を要とし、三度福原へと」
「無駄だ」
有盛の言葉を資盛は遮り否定する。
「其方も見たであろう。感じたであろう。あの戦はこれまでに無い戦だったと」
ゆっくりと隣の有盛へと視線を移す。
長雨が上がり、久々の晴天に恵まれた讃岐は爽やかな海風が吹き、二人の前を通り過ぎる。
崖の下には穏やかな波が、岩壁に当たっては砕ける静かな音が響いている。
「奇襲に奇襲を重ね、我等の心をも攻めきった男であるぞ、彼奴は」
「されど、屋島には知盛殿がおられる。聞けば先般の戦においては、知盛殿は指揮を執っておらなんだと言うでは在りませぬか」
「確かに、福原では…宗盛殿が総大将として指揮を執るも、誰よりも先んじて逃げられた」
資盛は戒める様な視線を山上へと向け、その総大将としての威厳のみを保持しようとする、権力に魅入られた男の居城を見上げる。
「聞け有盛。我は海を渡り備前へと向かう」
山上を見上げた資盛は、弟へと決意を伝える。
「ここ屋島が狙われると言うに、何故に!?」
知盛は屋島を要塞化させており、その道中にも砦を作り上げている。聞かずとも分かる防衛拠点を後に備前に渡る、という事は逃亡と思われても不思議無い。
「平家をお見捨てになられるおつもりか…兄上!」
「違う。源家の侵攻に対抗する故の策じゃ」
「ここを攻め落とされよう時に、備前にいながら如何にして戦うおつもりがあるのです!」
「聞けと言うておる!」
資盛は声を荒げて一喝し、有盛の肩を掴む。
「知盛殿の策に在る。源家は屋島を攻め入る前に、備前・安芸を侵攻し九州へと渡る可能性がある」
「安芸…九州…ですと?」
資盛は知盛の杞憂と、その打開策を話した。そして、備前への前線守備に資盛が就き、屋島には教経殿の配下として有盛が残る事を。
「総大将宗盛殿が、また屋島に残るので御座いますか…」
「有盛、教経殿に従っておれば良い。知盛殿は長門に渡り全軍を指揮する。そこが落ちぬ限り平家は落ちぬ」
資盛はそう言った後、両手を有盛から離して呟く。
「宗盛殿が討たれたとて、知盛殿が居れば復興に問題は無い」
平宗盛とは、これほどまでに求心力が無かった。
一の谷の戦に於いて、兄を立てる為に知盛は軍議に出ても発案せず、その手腕を見定めるかのように眺めていた。だが勿論、鉄拐山の奇襲までは予想しておらず苦汁を舐める結果となってしまったが、何より裏切られたのは、三草山からの源家軍が攻め下りた時に、既に逃亡を始めていた事だった。最も、その軍議の途中で仮病を使い退席していたのだが…。
そんな総大将の元に居る平家一門が、今でも組織だって居られるのは知盛という『知将』が居るからこそだった。
「出立は何時に?」
「明日にでも立ち、備前にて戦の備えをする。ここ屋島は任せた…帝もこの地に留まるとの事にあり、屋島が拠点に在る事に違わぬ」
「心得まして御座います。兄様も御武運を」
兄弟はそう言うと、有盛はその場を去った。
崖に残った兄資盛は、その右手をじっと見つめた。
『三草山・福原での一門が仇、討つ』
保元元年より始まった勢力騒乱は、源家・平家の武家一門を巻き込み、この月から大きく動いて行く。
京の後白河上皇は、天皇を後鳥羽天皇としており元号を寿永から元暦へと変更。だが神器を以て即位した帝を有する平家は、その元号を承諾せず、寿永をそのまま採用して行く事となる。
そして翌月……京年号・元暦元年(一一八四年)六月。知盛が長門に移動。京からの陸路に防御拠点を築き上げる指揮を執る。
その際、教経は屋島に残り引き続き拠点・帝防衛に就く。資盛は既に備前へと発っており、防御線を展開している。
同年七月。
鎌倉より京を経て、遂に源氏軍が備前水島へと軍行を開始する。
平家は総大将を宗盛とし、知盛・教経・資盛・有盛、そして地元の豪族を中心に源家を迎え撃つ。
知力・武力を総結集させた戦が始まろうとしていた。