西へ
正月の末、情勢は大きく変わって行く。
義仲の反乱の間に勢力を立て直した平家軍は、「安徳天皇」を中心として九州・四国・中国を制覇し纏める程にまで急回復していた。
そして事態を重く見た朝廷は宣旨を頼朝に出す。『平家征討・三種の神器奪還』。
『三種の神器』とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣の三つを指しており、神話の時代より歴代天皇が継承して来ていた。
勿論、本物が継承式に使われる訳では無く、「形代」と呼ばれるレプリカの様な物が使われていた事から、これこそが『三種の神器』だと言う者も多い。それと言うのも、この三種の神器を見たと正確に記録されている物が無い事と、天皇が持っている物こそが『神器』であり、初めに挙げた三種に限った事では無い、とする説があるからだ。
しかしこの時、後白河上皇を中心とする「京の朝廷」は、後鳥羽天皇を擁立させており、その際にはこの『三種の神器』が揃って無い状態となっていた。では、どこにあったのか…。
三種の内、八咫鏡と天叢雲剣は平家の都落ちの際に宮内から奪い、「安徳天皇」以外の天皇を認めないという行動に出ていたのだ。
先に天皇となっていた安徳に対し、神器が揃わぬままに天皇となった後鳥羽という二人の天皇。
権威としては安徳にあり、神器揃わぬ後鳥羽では宜しく無い。その為に『奪還』の命が下ったのだ。
この事から、この『三種の神器』が天皇家にとってどれ程の物か推測できよう。
が、頼朝はそれすら政治に利用した。
寿永三年二月。
鎌倉より義経・範頼軍に命が下る。義仲討伐後に西国へ下り摂津平家軍を討てと。その中に神器奪還の指示は無かった。だが、神器の件を知る由も無い義経達は、摂津への攻撃準備へと入っていた。
京から摂津に向かう道中の山中。
寒さから身を守る為に山小屋を当てにし、軍は休息していた。辺りに民家は無く、小さな小屋があるだけの森の中で、彼らは木を切り風よけを作り火を灯し、暖を取っていた。無論煙が上空に上がらぬように枝が密集する場所で。
「如何致すか、この状況…」
焚火の前に胡坐を決める範頼の目の前には、先遣隊がもたらした平家軍の陣形。
「敵は一の谷に集結しておりますが、生田口・三草山と攻撃が仕掛けられる所は陣取っておりまするか」
同じく胡坐をかいている義経も、腕組みをして悩んでいる。
一の谷は、南に瀬戸内、北に険しい山があり、瀬戸内すら制圧している平家軍にとっては格好の砦となっていた。唯一の攻め口とも思える生田口には勿論大軍で警備しており、回り道の三草山にも同様に陣取っている。
「どうだ義盛殿…軍師としての知恵が唸らんか?」
少し下がった場所で座る弁慶は、困惑した表情で義盛を見遣る。
「多勢に無勢…。七万に満たない軍で十万を超える平家軍を討つなど、無謀としか言われないでしょうね」
淡々と言い返す。
「ただ、平家を撤退に追い込むのであれば、手立ては無い事も…」
そう付け足した瞬間、義経の眼光が鋭くなった。
「聞かせて貰おうか、その手立て…」
同じく範頼の視線も厳しく突き立てる。しかし、義盛は言うべきかどうか悩んでいた。自ら発案し、その通りに戦が始まり源氏が勝てば、その時点で歴史にもう組み込まれている事となる。ただし失敗すれば歴史が大きく狂い、その時にどうなるかはまるで分からないが、大事変が起こる事は分かる。
目眩が唯一の救いであったが、それすら今では当てにできない。義仲を討ち取った瞬間にそれを直感してしまったのだ。
暫くの沈黙が、闇を照らす焚火を包み込む。パチパチと小さな音を打ち鳴らし、火に照らされた煙は頭上の枝々で薄れ、その火の灯りは木々によって遠くまでは届かない。
その沈黙を、軍の重鎮たちは受け入れていた。急かす者は居らず、ただただその沈黙に身を投じていた。
「漁師、狩人の手引きが必要となります。私の策を取り入れて頂けるのであれば、この両者の協力無くして勝利はありません」
覚悟を決めた様に義盛が言う。するとその背後で、大木にもたれて眠っていた筈の龍馬が答える。
「漁師と狩人じゃな? ええじゃろ、交渉なら任せとき」
「ありがとうございます、漁師には龍さん…貴方が指示を出して下さい」
「分かった。ほいで、何の指示じゃ?」
義盛は枯れ草を踏み鳴らしながら地図に近寄り座る。
「弁慶殿、与一さんにもご尽力頂きたいのですが、宜しいですか?」
義盛は振り向かずに聞くと、軽く頷き返事をする二人。
『歴史に喧嘩を売るか? 歪める事に歴史がどう抗って来るのか、高松のそれと同じく弾き出されるのか…。弾き出されれば、俺を止める存在がまた…』
思い悩んでいると、龍馬が背中を叩く。力強く、魂の籠った手で叩く。
「友が居る。高松とは違うじゃろ。ワシの命も共に賭け、刻を走り切るがじゃ」
いつの間にか隣に来ていた龍馬が、耳元で囁く。にこやかに。
覚悟を決めていた男は、そこにも居た。
義盛は体を乗り出し、地図に右手の指を置いた。
「生田口を範頼殿、そして…」
更に左手で地図を指す。
「三草山に義経殿が進軍し…海上に龍さんと与一さん…」
左の指は、一の谷の海上にまで動く。
「少ない軍を、更に分割すると言うのか! その秘策は!」
範頼は更に地図に食い付く様に見入ると、義盛の右手が動く。
「義経軍が三草山を夜襲。そのまま敵軍を蹴散らし南下。更に三股に軍を分け、二月六日、呑気に清盛の法要を執り行うようであれば、夢の口、塩屋口、一の谷と強襲。それと同時に、範頼殿も生田口を攻め、一の谷の海上から、龍さんと与一さんが挟撃に出ます」
「海上から? 無茶な…!」
「ワシは航海術を知っちょるが、無茶な事かいの?」
「コウカイ…?」
「船を操り、潮の流れを読む術じゃ」
その言葉に、彼らの目は輝いた。平家は水軍を率い、海上戦に強い。それを危惧せずとも良い状況になるかも知れない。
「同時攻撃…それも奇襲か…それならば何とかなるやも知れん」
「法要を執り行えば、隙は出来る。夜襲を仕掛ければ、そこに軍が赴く。だがその頃には、鵯越から下り、一の谷を四方より攻める」
「その為の…道案内をさせるのか、狩人に!」
弁慶はドンと自らの膝を叩く。
「混乱すれば戦力も落ちる。それはこれまで見て来た…。範頼兄、二月六日…奇襲で異論はございませぬか?」
「ここまで来て、軍師を疑うのは負けに等しい。参ろうか…各々の戦場へ」
範頼は立ち上がり、軍備を整える様に大軍に言う。が、それを阻止する様に更に義盛が言う。
「範頼殿、軍は五万程を従えて下さい。主力をそちらと思わせます」
「ふん…合い分かった。最早驚くまい」
範頼はニヤリと笑い、闇の中の兵に向かって行った。
「我が軍は…二万足らず…奇襲に奇襲を重ねるか…」
「義経殿は知らんがか? 義盛殿が以蔵と呼ばれちょった頃は、単騎で万の大軍と互角に戦ぅたがじゃ。つまりは三万の軍勢じゃ。奇襲には十分じゃろ?」
そんな経験は全く無いが、とりあえず方便を無視し、ニコッと笑う義盛。
いよいよ、源氏軍の大反撃が始まろうとしていた。