巴御前
寿永三年一月二十日。宇治川の木曾軍を破った義経軍は、そのまま進軍を始めていた。
そして敗戦の報せを聞いた義仲は、恐怖と後悔に襲われていた。
「何故…いや、何処で道を誤ったのか…」
その報せを聞き、愕然とする義仲は真っ青な顔で側近の者達に問う。
「儂は過ちを犯したのか?」
その答えは、配下の者に出せる筈もない。下手に口を開けば即座に斬られる事も考えられるからだ。そして、ただ無言で胡坐を組み、頭を垂れている配下の者達を一通り眺めた後、弱々しく言う。
「もう良い…皆、下がれ…」
力無く、それまでの義仲とはまるで正反対の言葉に、一同はその場を去った。ただ二人を除いて。
「情け無し…」
一人の男が漏らす。
「兼平…もう良いのだ。儂の役は終わった」
「義仲殿、武士たる者、常に武士らしく強気でなければなりませぬぞ」
「乳兄弟の其方にも…迷惑をかけたな…」
義仲は、常に気にかけてくれるこの男に、苦笑いを返した。この男は中原兼平という。
「義仲殿は常から申しているではありませぬか。共に死ぬるまでと。今まさに戦う時でございましょう」
そう言うのは、もう一人残った男…いや、体躯はそれほど大きく無く、髪も長い。
「巴、其方の働きには感謝しておる。女とは言え、千にも値する働きでここまで上り詰めた…」
「女などと見られていては、義仲殿の元で武勲を上げられませぬ」
「武勲…だと?」
巴の言葉に、反応する義仲。そしてそのまま兼平を見る。
「武士は武勲を上げ名を轟かす者。政に於いて名を上げるは謝りにございます」
兼平は深々と頭を下げ、言い放った。
「儂が政に踏み入れた事こそ、儂の誤りだと…そう申すのだな?」
「否、政に踏み入れたのでは無く、帝より奪い取ろうとしたのです」
天皇の世継問題。その事を指摘していた。勿論義仲もその時に理解した。
「後継者…京での名声…欲してはいけぬ物を、儂は欲してしまったか…」
義仲は背負った物を全て下ろしたように、体が軽くなった。自らの過ちにより配下の者を失い、自らの命をも危ぶめる結果となっていた事を、ようやく認めたのだった。
「ふぅ…田舎武士が京に来ては、良い事が無いの…のお、巴」
疲れた笑顔で巴を見るが、爽やかに笑って返す。
「何を仰いますか、義仲殿は妻を娶ったではありませぬか」
「わはは、それも政の真似事に過ぎぬわ」
大いに笑い、かつての眼力を確かに取り戻した義仲は、再び兼平に問う。
「法皇を擁しての脱出は、配下の者達の逃亡により困難と相成った。さて兼平よ…如何致す!」
「はっ! さすれば袴を捲り上げ、国へと逃げ帰るが潔しと!」
「ふむ、それもまた良かろう、儂の今を良く現わしておるわ…続く者だけ声を掛けぃ! 木曾へと逃げ戻る! 命あらば再び故郷を望めるであろう!」
北陸への逃走…。生き抜くための手段として、それを採択する。
「京に行かぬとは、今度はどんな秘策があると申すか」
義経は義盛に尋ねると、義盛は表情を崩さずに答える。
「義仲本人は、京で防衛など考えぬ…と、言う所でしょうか?」
「確かに京から追い出すとは申しておったが、町に入る前に逃げ去ると申すか?」
「範頼殿の軍も勝ったようですし、このまま両軍が京に押し入っての戦ともなれば、それがどのような結果になるかは義仲にも明白。既に近江粟津の甲斐源氏には、早馬が向かっているでしょう。彼らがこの話に乗れば、足止めができる筈です」
「近江の甲斐となれば…義仲と覇権争いをしておった…」
「そうでしたか…ならばこの戦、我等の勝利に終わります」
義盛にとっては逃亡の足止めができるかどうか、危険な賭けとして早馬を出していたのだが、その心配は無い様子に安心した。
「しかし、いつの間に早馬などを出されたので?」
隣を馬で歩いている弁慶が聞くと、義盛は笑って答えた。
「鎌倉より進軍開始の報せを持って来た彼に、もう少し走って頂いただけですよ」
「成る程…我々が近江に居る時に、既に二の手を打っておったか…」
義経は感心する様に頷いた。
大軍で京の外で木曾軍と戦い、大勝して京へ向かう。それに怖れ京から逃げる義仲を、近江で討つ。
何もかもがこの男の目論み通りに進んでいる。が、義盛にとっては綱渡りである。刻の修正力により、多少の事であれば問題無いとは分かっているが、一度選択を誤れば歴史が大きく変わってしまう。義盛の考えでは、京から木曾に戻る最中、他の源氏が義仲の足止めをして貰えば良い。そこで誰かが討ち取れば、それが歴史となり、足止めができなければそれが歴史となる。
人任せ、と言ってしまえばそうなるのだが、可能な限りの接点を無くした結果、それが一番だと思ったのだ。
「できれば甲斐源氏が討ち取ってくれれば…」
義盛は、つい口を緩めてしまう。
「何を仰るか、拙僧が義仲の首を討ち取り、かつて奴がしてきた様に、河原に晒してくれる!」
「坊、僧侶の言葉とは思えぬぞ?」
「これは失礼仕った…。懇ろに念仏を上げて御覧に入れましょう」
義経・弁慶は談笑しながら再び近江を目指している。
二十日の夜。
義仲はまだ自らに就き従ってくれる少数の武士達を引き連れ、京を出立する。夜中に出なければ、甲斐源氏の領土を抜ける事など、今の勢力では不可能と判断したからだ。
その中には当然、中原兼平とその妹、巴も居た。
二十一日早朝、一行は近江の粟津に差し掛かった。
まだ陽も登らぬ粟津。
少数の義仲軍に、闇から襲撃する者達が溢れて来る。
甲斐源氏であった。
彼らには義盛の早馬より先に、鎌倉の頼朝から「義仲討伐」の命が下っていたのだ。そして、鎌倉の命に従い軍備を整えている頃に義盛の早馬が到着し、その逃亡するであろう日付が明らかとなった事で、待ち伏せをしていた。
義仲軍に抵抗する軍力は、最早無い。
従軍している者達も、討たれる者、逃亡する者と出ており、その数を見る間に減らして行く。
「兼平…従軍するは、あと何人か…」
「我と巴…義仲殿ばかり」
何とか甲斐源氏を振り切った義仲は、背後を振り向く。
「……こうまで成ると見事としか言えぬな」
その表情は落胆としか見て取れない。青ざめ、疲れ果て、絶望していた。
「疲れて居られるのであれば、この辺りで自害でもなされるか?」
自分はまだ平気、と言わんばかりに笑いながら義仲を諭す。と、巴も続き
「先はまだ長う御座います。自害して果てるのであれば、その首級を故郷に持ち帰りまするが?」
二人のその言葉に、義仲も釣られて笑うが、その瞬間に巴の背後から大男が現れた。
「我こそは御田八郎師重! 義仲殿とあい見た! 勝負なされ!」
馬を走らせて駆け寄って来る。
義仲はとっさに巴に叫ぶ。
「巴! お前はどこへでも逃れて行け。我は討ち死にする覚悟、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない!」
「何を! 最後の奉公でございます!」
巴は義仲の制止を振り切り、即座にその敵の馬に駆け寄り、すれ違いざまに男を槍で殴り付け引き落とすと、即座に馬から飛び降りその男の首を撫で切った。
「我こそは義仲が家臣、巴成り!!」
槍を地面にドンと突き立て、義仲を見る。
義経軍、義仲までほんの数里と迫っていた。