軍行と策略
十月十五日。京に舞い戻った義仲は、大軍を引き連れ水島を出立したが、既に仲間は散々としていた。言うまでも無く義仲を止めようとした配下の者は尽く斬られ、求心等はどこにもない盗賊頭のような存在となっていた。
義仲は京に戻ると、頼朝軍との戦に備え、かつて支援を受けていた「大夫房覚明」に声を掛け、援軍を願い出る。と同時に北国の武士にも上洛を伝え、軍備強化を図ろうとする。
が、しかし…その申し出に答える者は出て来なかった。
「何故……某が、一体どれ程の仲間の血を流し、平家を退けたと思っておるのか…」
歯を食い縛り、床にうつ伏せて涙と怒りを堪える義仲に、配下の者は誰ひとり声を掛けなかったと言う。そう、意見を述べ斬られでもしては堪らない。逃げられる物であれば今すぐに逃げたい。そんな感情が殆どの配下に充満していた。
その空気は、義仲にも十分伝わっていたがどうするつもりも無い。自らが『大将軍』となった暁には、逃走した主だった者達を平家共々追討するつもりになっていた。
「後白河法皇はどこだ」
うつ伏せたまま、義仲は口を開く。その突然の言葉に一同は面食らった。
「答えろ! 法皇は今、何処に居られるか!」
体を起こし、眼前の配下の者を睨むと、その視線の先に居た武士が、震えながら答える。
「お…恐らくどこかの仏閣に逃げ込んで居るモノやと…」
「直ぐに調べて参れ! 見付け次第、某に報告せい!」
義仲はそう叫び、腰に差していた扇子を投げ付けた。すると、その部屋に居た配下全員が逃げる様に屋敷から飛び出し、後白河法皇の捜索へと向かう。
「何故…何故、某は一人になるのだ…」
頼朝には朝廷を初め、徐々に仲間が増えて行き、勢力を増して行っている。一方自分はというと、戦に勝ちはしているが、次第に仲間も権力も失っている。こうなってしまっては、最早残る手段は一つしか無い。
京の町が狂気により支配される日が、刻刻と近付いていた。
そして同じ頃、鎌倉では五百騎程の軍勢が京に向かい出立していた。義経率いる鎌倉軍である。
「木下殿…このまま京に上るが得策か?」
馬上の義経が剣一に聞くが、その視線は遥か遠くを見ている。義経自身も僅か五百程の兵で義仲と渡り合うつもりは無い様だ。
「そうですね…まずは近江辺りまで登り、状況を見極めましょう。鎌倉と京とでは時に差がありすぎます。それより…」
剣一は義経より三人後に続いていた。そして、その言葉に心を止めた義経は、フッと振り返る。
「如何致したか? 気に掛かる事でもあるのか?」
「これより、名を義盛と変えとうございます」
軍行中に改名等とは呑気ではあるが、義経は困った様に眉間にシワを刻み笑った。
「如何致した…そちの名は不服か?」
「いえ、初めてお目通りを願った時に申しました通り…義経殿の配下として働く以上、これまでの名を捨て、新たな武者となりとうございます」
勿論、そんな事はどうでも良かった。
ただ、木下剣一という名が歴史に残ってはマズイのだ。それは龍馬とて同じ事だが、彼自身は呑気に野党と混じってバカ笑いをしている。
「左様か…合い分かった。ではこれより、『伊勢義盛』と名乗るが良い」
義経はヤレヤレと笑いながら溜息を吐いた。
「伊勢…で御座いますか…?」
「不服か?」
「あ、いえ、有難き事でございます…」
大将に名を付けて貰うなどとは光栄極まりない事である。が、この時の義経はそんな気負いも無く、これまでの戦歴、兄頼朝からの信頼もあり、名を与えた。
そんな先頭集団の会話を嗅ぎつけた龍馬は、馬を走らせて剣一改め義盛の横に来る。
「何ぜ、何ぞあったがか?」
この男はいつも楽しそうだ。人懐っこい笑顔で義盛と義経を見る。すると義経の背後を守る様に寄り添う弁慶が口を開く。
「今し方、義経殿が木下殿に名を付けた所だ」
「何じゃと? 剣さん…また名を変えたがか!?」
片眉をクイっと上げて、からかう様に笑う龍馬に、義盛も鼻で笑いながら答える。
「これから、歴史に名を残すかも知れない戦に出向くんです。名は立派にしておかねば…」
その言葉の真意が、分かったのかどうかは謎だが、龍馬はニヤッと笑いながら自らの顎を撫でる。
「ほぉかぇ…。ほうじゃのぉ……。義経殿、ワシにも名をくれんかの!」
まるで無邪気な子供の様に馬を走らせ、義経の隣に向かい、強請る龍馬。
何やら先頭では、龍馬が強引に義経に迫っている様子が見て取れるが、義盛の心中はそれ所では無かった。この後近江に向かうは良いが、何をどうすれば知っている源平合戦に辿り着くのか…。そもそも壇ノ浦で勝った、という事以外の確かな知識など持ち合わせていないのである。
更には、これから戦をする『源義仲』という男の事も知らない。
幕末の頃の様に、薄らとした知識すら無い時代で、どうやって正史に辿るのか…。
考え込んでいた義盛は、先頭より戻って来た龍馬が、隣で楽しそうに話している事に気が付いていなかった。
場所は再び京に戻る。
十月十九日の源氏一族の会合では、居場所を特定した後白河法皇を奉じて、鎌倉に出陣するという案が飛び出す。
そして翌日二十日、義仲は「君を怨み奉る事二ヶ条」として、頼朝の上洛を促したこと、頼朝に寿永二年十月宣旨を下したことを挙げ、「生涯の遺恨」であると後白河に激烈な抗議をした。同時に、頼朝追討の宣旨ないし御教書の発給、志田義広の平氏追討使への起用を要求。
頼朝への包囲網を着々と広げようとしていた。しかし、この案は行家、源光長の猛反対で潰れる。
更に二十六日。源氏は当てにならぬと踏んだ義仲は、興福寺の衆徒に頼朝討伐の命を下す。しかしこれも衆徒が承引しなかった。
義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態であり、義仲と行家の不和も更に膨れ上がる事となって行った。
義仲に次第に忍び寄る、頼朝の影義経。
頼朝討伐を執拗に拘る義仲と、義経・弁慶・義盛・龍馬・与一。
寿永二年十一月。
この月に、両者の命運は大きく分かれる事になる。