8 再会のランウェイ、愛の深淵
はじめまして(お読みいただく前のお願い)
数ある作品の中から、このページを開いてくださり、本当にありがとうございます。
初めて「小説家になろう」に投稿させていただきます。右も左もわからない初心者で、操作一つひとつに緊張していますが、ずっと自分の中で温めてきた物語を形にしたくて、執筆を始めました。
不慣れなため、読みづらい点などあるかと思いますが、精一杯書き進めていきたいと思っています。
閲覧にあたっての注意点
本作は、絶望の淵に立たされた主人公の再生を描く物語ですが、テーマの性質上、以下のような描写が含まれます。
• 過去の辛い経験(性被害など)に関する回想や、心の葛藤
• 女子プロレスの試合等における、激しい痛みや流血、怪我の描写
• 精神的に追い詰められるような重いシーン
これらは犯罪や暴力を肯定する意図は一切ございませんが、読む方によっては強いショックを感じたり、お気持ちが沈んでしまう可能性があるかもしれません。
もし「少しでも辛いな」と感じた時は、無理をせず、すぐに閲覧をお控えください。
作品のテーマと設定について
• 本作はR15設定および**「残酷な描写あり」**の設定にしています。
• 物語の根底には**「被害者と加害者の境界線はグラデーションである」**という考えがあります。誰しもがどちらの立場にもなり得るという人間の多面性や、その果てに辿り着くそれぞれの場所を描きたいと思っています。
• 登場する人物や団体はすべて架空のものです。
執筆環境について(AIの使用明示)
本作は、執筆の補助として生成AI(AIアシスタント)をパートナーとして活用しています。
私自身、視覚障害や難聴といった体調面での制約があり、長い文章を一人で整えることが難しい場面があります。そのため、私が考えたプロットや言葉、込めた想いをAIに伝え、表現の肉付けや文章の整理を相談しながら原稿を作り上げています。
物語の核心はすべて私自身の経験や想いから生まれたものですが、AIという最新の補助具を借りて表現していることをご理解いただけますと幸いです。
感想・評価などの受付について
本作では、感想、評価、レビューの受付をすべて停止させていただいております。
まずは自分自身の心身を整えつつ、自分のペースでこの物語を最後まで書き抜くこと、そして一つひとつの言葉を大切に紡ぐことに集中したいと考えております。あたたかく見守っていただけますと幸いです。
更新は少しずつになるかもしれませんが、この物語がどこかの誰かの心に、微かな光として届くことを願っています。どうぞよろしくお願いいたします。
第1章:束の間の安息と、震える決意
1. 誓いと、勇気の旅立ち
病室の窓から差し込む光が、少しずつ夏の色を帯び始めていた。市原いずみ(いっちゃん)は、リハビリセンターの隅で青堀結衣に声をかけた。かつて魂を削り合った宿敵は、今、同じ「再生」を志す戦友となっている。
「ユイちゃん、お願い。……次のタッグマッチ、私の隣に立って」
ユイは鉄のバーを握ったまま、短く答えた。
「……そっちが足を引っ張らないならね」
言葉はぶっきらぼうだが、その瞳にはいっちゃんと同じ、止まっていた時間を動かそうとする強い意志が宿っていた。二人は、地を這うようなリハビリを続けながら、豊田麻子との決戦を見据えていた。
そんな中、待ち望んでいた日が訪れる。古河智の退院だ。彼を病院のロビーで迎えたとき、いっちゃんは我慢できずにその腕に飛び込んだ。サトシは少し驚きながらも、以前よりも力強く、いっちゃんを抱きしめ返してくれた。
「サトシさん、おかえり。……あのね、相談があるんだけど……」
いっちゃんは上目遣いに彼を見つめ、勇気を振り絞って言葉を紡いだ。
「温泉に行かない?怪我を早く治すために。……泊まりになるけど」
その提案をするいっちゃんの胸の奥では、激しい葛藤が渦巻いていた。過去の経験から、男性と泊まりがけの旅行に行くことには、生理的な恐怖と拒絶反応が今もこびりついている。フラッシュバックや動悸が起きるかもしれない。けれど、それ以上にサトシと本当の意味で寄り添いたい、という願いが、恐怖を上回っていた。いっちゃんにとって、これは自分自身のトラウマに対する、もう一つの戦いだった。
2. 喧騒を抜けて、二人だけの特急
旅の始まりは、世界一の乗降客数を誇る巨大なターミナル駅だった。人の波は文字通り「芋洗い状態」で、あちこちでスーツケースを引く外国人の話し声が響き、駅全体が熱を帯びた生き物のようだ。いっちゃんはサトシの手をしっかりと握り、彼が人混みで不安にならないよう、自分の体で彼を導くようにして進んだ。
売店で、少し奮発したお菓子や冷たい飲み物を調達する。
「これ、美味しそうだね」
「サトシさん、何飲む?」
そんな些細なやり取りさえ、自由を奪われていた二人にとっては輝かしいイベントだった。人を掻き分け、ようやくたどり着いたホームでは、ちょうど特急列車が入線してくるところだった。二人は先頭車両の前で記念撮影をした。駅員さんは親切で快く撮影をしてくれた。
「新婚さんですか?」
駅員からかけられた言葉に、二人は赤面するしかなかった。
いっちゃんは、サトシの手を引き特急列車に乗り込む。閉まったドアの向こうに都会の喧騒が遠ざかっていく。
車内では、病院生活の「あるある話」で盛り上がった。
「あの看護師さんの足音、すごく特徴的だったよね」
「その看護師さん、サトシさんにだけ、なぜか優しくなかった?私の時なんか、すっごくぶっきらぼうだったのに……」
笑い合いながら、話題はユイのことにも及んだ。ユイも無事に退院し、驚くべきことにその鍛え抜かれた肉体が「強くて美しい女性の象徴」として注目を集め、有名スポーツブランドのCMに起用されたのだという。車内販売の雑誌をめくると、そこには最新の水着やスポーツブラを纏ったユイの姿があった。以前の「怪物」のような威圧感ではなく、凛とした輝きを放つ彼女は、今や人気モデルの仲間入りを果たしていた。
「ユイちゃん、すごいね。……私、負けてられないよ」
いっちゃんは、かつての敵が新しい場所で輝いていることに、確かな勇気をもらっていた。
3. 高所の震えと、ハートの奇跡
目的地の温泉街に着いた二人は、宿に荷物を預け、観光へと繰り出した。
ケーブルカーとロープウェイを乗り継ぎ、湖を目指す。だが、ここでいっちゃんの「意外な弱点」が露呈した。
「……っ、サトシさん、ちょっと待って……」
急斜面を登るケーブルカーから下を見た瞬間、いっちゃんの顔から血の気が引いた。彼女は深刻な高所恐怖症だったのだ。サトシは、驚きを隠せなかった。
「いずみさん、試合ではあんなに高いところからジャンプするのに……」
「それは……あれは、スイッチが入ってるから!プライベートは別なの!」
しがみつくようにサトシの腕を掴むいっちゃん。サトシは優しく微笑み、彼女の手を包み込むように握り、そっと肩を抱き寄せた。
サトシの体温を感じた瞬間、いっちゃんの頬がカッと熱くなった。
(恥ずかしい……こんなに密着して……)
動揺して言葉がしどろもどろになる。けれど、不思議なことに気づいた。過去のトラウマからくる「嫌な震え」が、今の自分には起きていない。サトシに触れられている場所が、ただ温かく、心地よいと感じている。そんな自分に、いっちゃん自身が一番驚いていた。
湖畔を散策しながら、一つのソフトクリームを二人で分け合った。
「あ、垂れちゃった……」
夢中で食べていたせいで、いっちゃんがアイスを口角に垂らしてしまう。サトシはすかさず人差し指で彼女の頬を優しく拭った。
「もう、しょうがないな」
そう言って笑うサトシの表情に、いっちゃんは再び心臓が跳ねるのを感じた。
少し歩きすぎたのか、いっちゃんの古傷である腰が、チリチリと疼き始める。 それにいち早く気づいたのは、サトシだった。
「いずみさん、あっちによさそうなカフェがあるね」
誘われたカフェで注文したのは、この地域の名物としてすすめられた焼きたての大判焼き。運ばれてきたそれを見て、二人は目を丸くした。
「ハート型……!」
偶然か、お店のサービスか、それは可愛らしいハートの形をしていた。運命的な「印」を前に、二人はお互いを見つめ合い、どちらからともなく頬を赤らめて微笑み合った。
4. 地獄の予感と、宿の静寂
楽しい時間は過ぎ、宿に戻るためのロープウェイに乗り込む。ゴンドラの窓から見下ろすと、そこには噴煙の上がる荒涼とした景色が広がっていた。硫黄の匂いと、荒れ果てた大地。その光景が、これからいっちゃんが再び向かわなければならない、あの殺伐とした「リングという名の地獄」と重なった。
(麻子ちゃん……彼女は、どんな顔で私を待っているんだろう……)
ふと不安が顔をかすめたとき、混み合うゴンドラの中でサトシがいっちゃんを後ろから包み込むようにぎゅっとした。サトシの体がいっちゃんの不安を遮断するように。赤面し、サトシの方を向けないいっちゃんだが、その腕の中は世界で一番安全な場所のように思えた。
宿に着くと、ようやく一息ついた。畳の匂いが心地よい和室。机の上に置いてあった温泉饅頭を、いっちゃんはお腹が空いていたのか、つい自分の分だけでなくサトシの分まで頬張ってしまう。
「あ……ごめんなさい、サトシさん、食べちゃった」
「いいよ。いずみさんが美味しそうに食べてるなら、それが一番だ」
二人の笑い声が部屋に響き、張り詰めていた緊張が少しずつ解けていく。
二人は大浴場へ向かう。風呂上がり、鏡に映る自分を見つめるいっちゃん。
(今夜……同じ部屋に寝るんだよね……)
怖いという感情はもちろんある。けれど、それ以上にサトシに包み込んでほしいという、むず痒いような切ない欲求が、心の底から湧き上がってくる。複雑な想いを胸に、浴衣を整えた。
夕食は豪華な懐石料理。
けれど、サトシが本来食べるものではない飾りの紅葉を、間違えて口にしていた。
「サトシさん、それ飾りだよ!」
「おっと……だから少し硬いのか・・・」
いっちゃんが声を上げて笑うと、つられてサトシも照れくさそうに笑う。そんな些細な笑いこそが、今の二人の心に最も必要な栄養だった。
5. 震えを包む、盾の温もり
食後にもう一度温泉に浸かり、部屋に戻ると、照明は薄暗く落とされていた。布団が並んで敷かれた空間で、二人は並んで座り、断片的な会話を交わした。いっちゃんは、磁石に引き寄せられるようにサトシの肩にもたれかかった。
その時、いっちゃんの体が、微かに震え出した。サトシを信頼している。けれど、いざ「夜」を迎えるという現実に、深層心理に刻まれた過去の傷跡が疼いたのだ。
サトシは、何も言わなかった。ただ、その腕で、いっちゃんを優しく、包み込むように抱きしめた。性急なことは何もしない。ただ、彼女の震えが止まるまで、じっとその温もりを分け与え続ける。
「大丈夫。僕は、ここにいるから。いずみさんもここにいる」
その一言と、静かな鼓動の音。それだけがいっちゃんにとっての何よりの救いだった。
二人はそのまま、横になった。布団の中でも、サトシは変わらず、背後から優しくいっちゃんを抱きしめ続けてくれた。サトシの腕の中で、いっちゃんはようやく安らかな眠りへと落ちていった。
6. 朝の光と、決意の口づけ
翌朝、いっちゃんが目を覚ますと、視界にはサトシの寝顔が間近にあった。自分の頭の下には、彼の腕がある。腕枕をされたまま、彼に抱かれて眠っていたことに気づき、いっちゃんは幸せな溜息をついた。
穏やかに眠るサトシ。 お世辞にも端正な顔立ちとは言えない。 むしろどこにでもいるような男の顔だ。けれど、いっちゃんにとってはこの顔こそが、地獄の中で見つけた唯一の救いであり、愛すべき宝物だった。
(サトシさん……大好き)
もっと近づきたい。彼に触れたい。いっちゃんはそっとサトシの顔を覗き込み、彼の唇へと顔を近づけていった。
その時、サトシがゆっくりと瞼を開けた。
「……ッ!」
至近距離で、いっちゃんは石のように固まってしまう。けれど、サトシは固まったいっちゃんの表情を察して、再び穏やかに目を閉じた。それは眠ったのではない。彼女を受け入れるための、無言の合図だった。
いっちゃんは意を決して、彼の唇に優しくキスをした。サトシの腕に少し力がこもっていた。二人はそのまま、溶け合うように再び眠りについた。それは、いっちゃんが過去の呪縛を一つ乗り越え、新しい強さを手に入れた、朝の光の中の出来事だった。
第2章:断ち切られた安息と、不浄なる挑戦者
1. 楽園の終焉と、血の報せ
二度寝という、これ以上ない幸福な微睡を切り裂いたのは、枕元で無機質に鳴り響くスマートフォンの着信音であった。サトシの温かな腕枕の中で、心地よい体温に包まれていた一瞬前までの世界が、遠い過去のように引いていく。いっちゃんは重い瞼をこじ開け、サトシの胸元から這い出すようにして端末を掴んだ。画面に表示されたのは、所属団体の代表の名前。嫌な予感が、冷たい指先のように背筋を撫でた。
「……はい、市原です」
電話口から漏れた代表の声は、いつにも増して硬く、事務的だった。
「ユイが……襲われたようだ」
その一言で、部屋の空気は一瞬にして凍りついた。昨夜、サトシと分かち合った安らぎの余韻が、どす黒い現実に塗りつぶされていく。ユイがモデルの撮影を終えた直後、何者かに襲撃され、病院に搬送されたという。
二人はその後の観光予定をすべて投げ出し、列車に飛び乗った。スイッチバックを繰り返す列車に、昨日は感じなかった焦ったさを感じる。車窓を流れる美しい景色も、今のいっちゃんには、壊れゆく平和の残骸にしか見えなかった。
2. 泣き崩れる「怪物」の誤算
病院の白い廊下を、いっちゃんは祈るような思いで走った。たどり着いた病室で、彼女を待っていたのは、右脚を痛々しいギプスで固定され、ベッドに横たわるユイの姿だった。 診断は複雑骨折。全治三か月。
「いっちゃん、ごめん……ごめん……」
かつてリング上で「怪物」と恐れられ、いっちゃんと魂を削り合う死闘を演じたあのユイが、子供のように声をあげて泣いていた。
「私が……こんなことになっちゃって……来週の試合、出られない……」
ユイは撮影現場の駐車場で、突如として現れた数人の暴漢に執拗に脚を狙われたのだという。それは明らかに「来週の試合」を見越した卑劣な襲撃だった。
「ユイちゃん、謝らないで。今はゆっくり休んで」
いっちゃんは震える手を隠し、ユイの肩を優しく抱いた。けれど、病室を一歩出た瞬間、いっちゃんはその場に崩れ落ちそうになった。
「どうしよう……」
ユイという最強の盾を失い、いっちゃんは再び、底の見えない深淵の淵に立たされた。
3. 不浄の会見:多様性の仮面を被った「雄」
試合前日の記者会見。
ユイの襲撃から一週間、パートナー探しは困難を極めた。かつての宿敵・吉川早紀にも声をかけたが、彼女はいっちゃんとの試合で負ったダメージが癒えていなかった。膝が動かない状態では、出場を断念せざるを得なかったのである。
会見場に重苦しい空気が流れる中、対戦相手である「麻子」が、嘲笑を浮かべて入場してきた。そして、その隣に立つ『女子』レスラーの姿を見た瞬間、いっちゃんは心臓を冷たい手で掴まれたような戦慄を覚えた。
(……この人、本当に『女』?)
そこにいたのは、明らかに男性の骨格を持つ、筋肉隆々のレスラーだった。覆面をしているため顔は窺い知れないが、かろうじてコスチュームで隠しているが、盛り上がった僧帽筋、太い首、そして何より、コスチュームの下半身部分には、女性には存在し得ない「膨らみ」が隠しようもなく存在していた。
たまらず記者が質問を投げかける。
「この方は、見たところ男性のようですが……」
麻子は不敵な笑みを浮かべ、マイクを握った。
「失礼なことを言わないでください。彼女は『女性』です。本人がそう自認している以上、彼女を否定することは誰にもできない……多様性の時代でしょう?」
いっちゃんは、以前ニュースで見たオリンピックでの問題を思い出していた。けれど、目の前の存在は、それとは明らかに異なる悪意に満ちていた。
オリンピックでの問題は元々女性である人の染色体の異常で、体つきが男性に似てしまったという事例だった。目の前の存在は単に「自称女性」という盾を使い、圧倒的な「雄」の暴力を女子プロレスのリングに持ち込もうとしている。いっちゃんの脳裏に、かつての路地裏の恐怖がフラッシュバックする。屈強な男性の力にねじ伏せられる絶望。そのトラウマが、現実の肉体を持って目の前に立ち塞がっていた。
4. 残された絆、サトミの覚悟
いっちゃんの隣に座っていたのは、綾瀬聡美だった。絶体絶命の状況で、いっちゃんからの要請に即座に「いいよ」と答えたのが彼女だった。サトミ自身も前回のダメージが残る満身創痍の状態だったが、相手がかつての仲間を地獄へ送った麻子であると聞き、その瞳に暗い情念の炎を宿したのだ。
5. 乙女の素顔と、サトミの苦笑
会見が終わり、控え室へと戻る廊下。不安に押し潰されそうないっちゃんの元へ、サトシが歩み寄ってきた。
「サトシさん……!」
いっちゃんはサトシにしがみつく。その瞬間、いっちゃんの表情から「エメラルド・クイーン」のクールさが霧散し、一人の恋する乙女の顔が顔を出した。
「ちょっと、いっちゃん……二十八歳のトップモデルが、そんなデレデレな顔してどうすんのよ」
その変化を見逃さなかったサトミが、呆れたように苦笑いを浮かべる。
「ひゃあ!? い、いや、この人は……いつも応援してくれてる人で、その……っ!」
いっちゃんは顔を真っ赤にし、しどろもどろになって支離滅裂な言い訳を並べた。サトシは相変わらず、飾り気のない顔を少し赤らめて、その様子を見守っている。サトミはそんな二人を見て、あからさまに溜息をつきながらも、心のどこかでそんな関係を羨んでいる自分に気づいていた。
6. 控え室の戯れ、そして地獄への門
試合当日。
いっちゃんとサトミは、控え室で決戦用のコスチュームに着替えていた。
「いっちゃん、結構おっぱい大きいね。いい身体してる」
サトミがニヤリと笑い、いっちゃんの肩や背中、そして胸元を戯れ合うように触ってきた。一瞬、過去のトラウマからくる拒絶反応が脳をかすめたが、不思議と震えは起きなかった。女同士の、柔らかく温かい接触。
「もう、サトミちゃん、やめてよ……。……あ、サトミちゃんの方こそ、柔らかくて気持ちいい」
いっちゃんもぎこちなく触り返し、二人の間に、戦場に向かう前の奇妙なリラックスした時間が流れた。
「……いつまでいちゃついてんだよ」
そこへ、松葉杖を突いたユイがドアを開けて入ってきた。
「サトシが見たらどう思うかなぁ、このレズビアンども」
「違うの! これはサトミちゃんがやってきて、だから私は正当防衛で……っ!」
必死に弁明するいっちゃんに、ユイとサトミは声をあげて笑い合った。けれど、笑いが止まると同時に、部屋の温度が数度下がったような緊張が降りてくる。
二人は鏡に向かい、最後の調整を終えた。エメラルドグリーンの輝きと、サトミの妖艶な装い。これから向かうのは、ルールも倫理も通用しない、歪んだ欲望が渦巻く「自称女性」という名の暴力が待つ檻だ。いっちゃんとサトミは、一言も発することなく、互いの瞳に覚悟を映した。そして、地獄へのランウェイを一歩ずつ、静かに歩み始めた。
第3章:不浄の檻と、裏切りのランウェイ
1. 廊下の密談:怪物たちの素顔
控え室を出て、戦場へと続く、冷たく薄暗い廊下。いっちゃんとサトミは、角を曲がった先で響く、不快な低音のやり取りに足を止めた。そこには、真紅の衣装を纏った麻子と、圧倒的な威圧感を放つ「自称女性」のパートナーが立っていた。
「いい? 人前では決して言葉を出さないでよ。あんたはあくまで『女性』っていう設定なんだから」
麻子の声は、かつてのアイドル時代を微塵も感じさせないほど冷酷で、毒気に満ちている。
「……オカマの中には、声が低い奴だっているぜ。別に言葉を発してもいいじゃねえか」
自称女性のレスラーが、くぐもったバリトンボイスで不満げに応じた。
「だめ。あんたは『女性』。たまたま身体つきがそう見えないだけ。分かった? これに勝ったら、あんたにはしっかりお礼をしてあげるから……」
麻子が一方的に言い放つと、男はプロレスラーとしてのプライドを覗かせ、なおも食い下がった。
「一応、俺はプロレスラーだぞ。女相手にやるのは、たまにあるイベントでの、まさに『プロレス』する時だけだ。加減が難しいんでな。苦手なんだよ」
男の言葉には、自らの「雄」としての強大な力に対する、歪んだ自負と戸惑いが混じっていた。
「手加減なんて必要ないでしょ。あんたは『女』なんだから、あいつらを『正々堂々』ボロボロにしてよ。身体も、心も……。いっそのこと、その場でやっちゃったっていいんじゃない?」
麻子は、自分が矛盾した発言をしていることに全く気付く様子もなく、唇を歪めて囁くと、背後にいたいっちゃんたちの存在に気づき、にやけた表情で言葉を投げつけた。
「あぁ、いたの。大観衆の前で惨めな姿を晒すの、楽しみね。……ちゃんと、どこを見られてもいいように処理はしてきた?」
麻子は下卑た嘲笑を残し、巨漢を伴って去っていった。
2. 歪んだ欲望のコロシアム
リングに足を踏み入れた瞬間、いっちゃんを包んだのは、吐き気を催すような異様な熱気だった。そこには純粋なスポーツを求める空気など微塵もない。観衆は、暴力による「陵辱」という最悪の見世物を期待する、飢えた獣の集団と化していた。
客席のあちこちで、下品な期待に顔を歪めた男たちが、スマートフォンのレンズを執拗に向けている。
「いっちゃーん! 今日はどこまで見せてくれるんだ!」
「もっと脱げよ! 泣き顔を見せろよ!」
浴びせられる罵声に近い歓声。いっちゃんは、その汚らわしい視線を振り払うように高くジャンプし、自分の身体を激しく叩き続けた。サトシがくれた「誇り」という名の防波堤が、外側から少しずつ削り取られていくような恐怖に耐えながら。
ゴングが鳴る。
「いっちゃんをボロボロにして」
麻子は開始早々、命令を下し、自身はリングサイドへ下がった。いっちゃんとサトミはハイタッチを交わし、サトミはリングサイドへ。リング上には、いっちゃんと「自称女性」のレスラーが対峙した。
いっちゃんは鋭いドロップキックや回し蹴りを叩き込むが、相手は岩のように動じない。唯一、側頭部に決まったハイキックで一瞬ふらついたが、直後に蹴り足を鉄の万力のような力で掴み取られた。
「あっ……!」
いっちゃんは、いとも簡単に担ぎ上げられた。アルゼンチン・バックブリーカー。相手がその場で無慈悲に飛び跳ねるたび、腰に逆くの字にへし折られる激痛が走る。 (……痛い、痛い……!)
無数に焚かれるフラッシュの嵐。
絶叫するいっちゃんを見て、麻子が野卑な声を張り上げた。
「そのままぶっ壊しちゃって!」
いっちゃんの腰が完全に破壊される直前、自称女性のレスラーはいっちゃんを力任せに投げ飛ばした。
その後も、自称女性による、もはや試合とは呼べない暴行が繰り返された。いっちゃんは汗と涙、唾液、そして流血、身体中がボロボロになっていく。
3. 断罪のハサミと、フラッシュの嵐
「いっちゃん!」
耐えかねたサトミが助けに入ろうとロープに足をかけた瞬間、麻子が野獣のような速さで襲いかかった。レフェリーがリング上の惨状に気を取られている隙に、麻子は隠し持っていたハサミを取り出し、サトミのコスチュームの肩紐を、そして背中を、容赦なく切り裂いた。
「いやぁぁっ!!」
麻子はサトミを強引に場外のマットへと叩き落とすと、裂けたコスチュームを力任せに引き剥がした。 その瞬間、会場の空気が爆発した。
「いいぞ! もっとやれ!」
「最高だ!」
男たちの下品な怒号が耳を突き刺す。同時に、無数のフラッシュという凶器が、嵐のようにサトミを襲った。
パシャパシャパシャ!
まるで彼女の尊厳を一枚ずつ剥ぎ取っていくかのような、暴力的なまでの白い光の連射。サトミは半裸に近い姿で、必死に自分の胸を隠そうと蹲る。その無防備な背中を、麻子は冷酷に蹴り飛ばした。フラッシュの光は、彼女の屈辱を白日の下に晒し出し、観衆の歪んだ快楽へと変換していく。
4. 蘇るトラウマ、深淵のパレード
リング上では、いっちゃんが再び自称女性のレスラーに捕らえられていた。
「ほら、かわいがってあげなさいよ」
麻子の声に促されるように、男がいっちゃんの首を締め上げ、そのまま、彼女の豊かな胸や尻を執拗に撫で回すような仕草を始めた。
実際には、男の手はいっちゃんの肌を触れていなかった。しかし、視覚的に繰り広げられるその「陵辱の演劇」は、観衆を狂喜させるには十分だった。
「いけ! そのままいっちゃえ!」
「いいもん見せてくれるな!」
再び沸き起こる野卑な歓声。そして、いっちゃんの絶望的な表情を逃すまいと、フラッシュの閃光が幾重にも重なって爆発する。
その光の点滅の中で、いっちゃんの脳裏にかつての忌まわしい記憶がフラッシュバックした。 暗い路地裏。タバコの臭い。自分をねじ伏せる男たちの荒い呼吸と、暴力的なまでの「力」の感触。
(……嫌だ。離して。汚さないで。壊さないで……!)
恐怖の涙があふれ出し、いっちゃんの意識は闇へと沈みかける。
フラッシュの嵐はそのいっちゃんの表情すら逃さない。
だが、その混濁した意識の端で、サトシの穏やかな笑顔が浮かんだ。
(サトシさんは信じてくれた。……こんな奴らの欲望に、負けない……!)
いっちゃんは意識を失いかけたまま場外へ投げ飛ばされた。コンクリートの上に叩きつけられた衝撃にいっちゃんが呻くと、相手は再び彼女を担ぎ上げ、見せしめのようにアルゼンチン・バックブリーカーの状態で場内を一周した。それはまるで、獲物を晒し者にする公開処刑のパレードだった。
リング上の麻子は、高みの見物を決め込みながら、さらに口汚く命令し続けていた。 「いっちゃんのコスチュームも剥いじゃえよ! もっと開脚させて晒せよ!」
自称女性のレスラーはその言葉に一瞬ぴくりと反応したが、麻子の言葉に従ってコスチュームを剥ぐことはしなかった。
5. 決意のTシャツと、執念の逆襲
試合開始から二十分。
いっちゃんは徹底的に蹂躙されていた。麻子は、命令を下し、サトミを辱めただけ。
場外で身を隠していたサトミのもとに、松葉杖をついたユイが現れた。ユイは無言で、自分が着ていたTシャツをサトミに渡した。ユイ自身は上着の下は下着の状態になっていた。ユイの小さなTシャツは、サトミの身体のラインをくっきり浮かび上がらせたが、彼女は恥ずかしさを誇りで塗りつぶし、再び立ち上がった。
サトミの執念の攻撃で一瞬の隙が生まれ、いっちゃんはボロボロの身体を引きずってリングへ戻った。麻子が嘲笑いながら卑劣な攻撃を加えるが、いっちゃんはこれまでの経験からそれを無意識的に受け流す。サトミがいっちゃんとチェンジし、麻子に猛烈な攻撃を浴びせる。耐えかねた麻子は、慌てて自称女性のレスラーと代わった。
いっちゃんはリングサイドで意識を失いかけていた。そこに麻子が、ハサミを手にいっちゃんのコスチュームを切り裂こうと、蛇のように忍び寄る。その直前、自称女性はサトミをパワーボムでマットに叩きつけていた。サトミが意識を失うと、その身体を「物体」のように扱い、投げ飛ばした。
その「物体」は麻子に向かっていった。
「えっ……きゃあぁ!!」
直撃を受けた麻子は、そのまま場外へ落下。その際、手にしていたハサミが自分のコスチュームに引っかかり、衣装が無残に裂けてしまった。
6. 裏切りと、晒し首の終焉
麻子は自分の身体を必死に隠しながら、自称女性に命令する。
「さっさとフォールしろ! その前に、二人を追い剥ぎしてよ!」
だが、その自称女性は麻子の命令を無視した。場外へ降りると、逆に麻子に強烈な平手打ちを見舞い、彼女を羽交い締めにした。
「な、何すんのよ!」
自称女性は麻子を近くの脚立へと押し付け、手足を大の字に括り付けた。麻子のコスチュームは裂け、無残な姿が衆目の前に晒された。
「何だよ!……ねぇ、助けてよ……! 何でもするからっ!」
泣き叫ぶ麻子を冷たく捨て置き、自称女性は一言も発することなく、会場を去っていった。
「……19、20!!」
レフェリーの場外カウントが非情に響き渡る。麻子は叫び続けていた。
「見ないで! こんなのおかしい、試合不成立よ!」
無数のフラッシュが、脚立に縛り付けられた彼女の無様な姿を白日の下に晒す。観衆は、麻子のあまりに醜い絶叫に、もはや興奮よりも白けた気分で眺めていた。
リング上ではサトミが、リングサイドではいっちゃんが倒れたままだが、麻子が戦闘不能、そして自称女性の逃亡。レフェリーはいっちゃんとサトミの勝利をコールした。抱き起こされた二人は、朦朧とした意識の中で勝ち名乗りを受けた。
スポットライトが落とされた後、脚立にくくりつけられた麻子を助ける者は誰もいなかった。彼女の足元には生暖かい水たまりができていた。
フラッシュの嵐はそれをも見逃さなかった。
見かねたユイとサトシが脚立を倒し、麻子を解放したが、麻子は感謝の言葉どころか、二人に対して汚い言葉を浴びせ、逃げるように闇の中へ消えていった。
第4章:バリトンボイスの去り際、そして絆の夜
1. プロの矜持と、みずみずしいバリトン
凄惨な死闘の余韻が、重く湿った熱気となって廊下に漂っていた。セコンドに肩を貸され、足を引きずるようにして控え室へと向かういっちゃんとサトミの前に、あの「自称女性」の巨漢が音もなく立ちふさがった。
いっちゃんの背中に、鋭い悪寒が走る。先ほどリング上で浴びせられた、圧倒的な「雄」の質量と暴力の記憶。過去の路地裏のトラウマが、逃げ場のない廊下で再び彼女の呼吸を浅くさせた。けれど、巨漢の口から漏れたのは、外見からは想像もつかないほど澄んだ、みずみずしいバリトンボイスだった。
「……悪かったな、お前ら」
初めて聞く「本当の声」に、いっちゃんとサトミは呆然として足を止めた。
「それにしても、当たって砕けろも程々にしろよ。本当に大怪我するぞ。……全く効いていないように振る舞ってたが、案外ずしんと来てな。正直、少し頭に血が登っちまった」
巨漢は自嘲気味に笑い、覆面の奥にあるであろう瞳を細めた。
「なんで俺が、あんな女に従わなきゃいけないんだ? 途中でアホらしくなったよ。混合マッチってのはたまにあるが、やるならちゃんと『プロレス』をしなきゃな」
彼の言葉には、麻子が振りまいていた醜悪な悪意ではなく、戦場に生きるプロとしての誇りが宿っていた。
「お前らは、まだまだ魅せ方がなってない。ただ単に勝てばいいんじゃない。俺らはプロだ、客に何を見せるかが全てだ。……だが、久々に全力でぶつかってくる奴がいて、楽しませてもらったよ」
彼はいっちゃんの目を見据え、軽く片手を挙げた。
「声を一言も発しないでやるのは、結構辛いんだぜ。やっと声が出せた。……あーあ、大声出したら腹が減ったな。今からメシ食って、カラオケ行くかな」
渋川亨それが彼の名だった。軽やかなバリトンボイスの独白は、廊下の奥へとデュミニエンドしていき、その巨大な背中は闇に溶けていった。いっちゃんは、彼の中にあった「レスラーとしての敬意」に触れ、強張っていた心の糸が少しだけ解けるのを感じた。
2. 閉ざされた扉と、不器用な問い
一方、脚立から麻子を解放したサトシとユイは、崩れ落ちた彼女のことが気にかかり、麻子の控え室へと向かった。 扉が少しだけ開いた部屋は、明かりもつけられず、ただ麻子が膝を抱えてシクシクと泣く声だけが漏れていた。さっきまでの傲慢さは消え、そこにはただ、自らが掘った地獄に落ちた、惨めな一人の女性の姿しかなかった。サトシが心配して声をかけようと一歩踏み出した瞬間、ユイがその腕を制した。
「……やめときなよ。今は一人にしたほうがいい」
ユイの静かだが拒絶を含んだ言葉に従い、二人はその場を引き返した。
いっちゃんたちの控え室へ向かう道すがら、ユイが意地悪な笑みを浮かべてサトシに問いかけた。
「……で、温泉。いっちゃんと、ちゃんと『やること』やったのか?」
「えっ!? いや、それは……っ」
不意を突かれたサトシは、しどろもどろになって言葉を濁す。無骨な顔を真っ赤に染め、視線を泳がせる彼の様子は、隠し事ができないほど純朴だった。
「あのねぇ。そういうのは男からリードしてあげないと。高校生じゃあるまいし、じれったいんだよ、あんたらは」
ユイの直球すぎる指摘に、サトシは頭をかきながら、ただ黙り込むしかなかった。
3. 控え室の涙と、無遠慮な乱入
控え室に戻ったいっちゃんとサトミは、張り詰めていた緊張が切れたように床へ倒れ込んだ。言葉にならない感情が、嗚咽となって溢れ出す。汗や血、唾液にまみれ、尊厳を削られ、それでも勝利という名の地平にたどり着いた。二人は倒れ込んだまま、互いを抱き合って声をあげて泣いた。それは、他人の視線を排除した、戦友同士の純粋な浄化の儀式だった。
そこへ、ユイが松葉杖を突きながら、ノックもなしにドアを開けて入ってきた。後ろにはサトシも続いている。二人が抱き合って泣いている姿を見て、サトシは「おっと」と驚き、気まずそうに部屋を出ようとした。
「ちょっと、何驚いてんのよ。そんなことで動揺してどうする」
ユイがサトシを怒鳴りつける。
「それよりお前、こんないい女たちがフリーなんだ。いい男友達はいないのか? 紹介しろよ」
その場の湿っぽい空気を一気に変えるユイの豪快な言葉に、いっちゃんとサトミは慌てて体を離し、それぞれの椅子に座り直した。
「サトシさんをいじめないで……っ」
いっちゃんが涙目のまま、顔を赤くして懇願すると、ユイは「冗談だよ」と肩をすくめた。そのやり取りを見ていたサトミが、不意に吹き出した。
「私にも紹介してね。サトシさんの友達なら、きっと変な人はいないだろうし」
サトミが冗談めかして話しかけると、サトシは目をパチクリさせるばかりだ。
「ちょっと……! サトミちゃんまで、何言ってるの!」
いっちゃんは慌てて弁明し、控え室には先ほどまでの悲壮感が嘘のような、賑やかな空気が流れた。サトシの存在が、いっちゃんを「クイーン」から一人の女性へと戻していくのを、仲間たちは温かく見守っていた。
4. 無限ループの晩餐会
その夜、四人はしゃぶしゃぶ食べ放題のチェーンレストランにいた。
「じゃんじゃん食べるよ! どんどん注文して!」
サトミとユイの驚異的な食べっぷりに、サトシはただ圧倒されていた。怪我人とは思えないユイの食欲。一度に四人前を軽々と平らげ、追加の肉が配膳ロボットによって次々とテーブルに運ばれてくる。
「合間にクレープとかワッフルとか、アイスを挟めば、甘いと塩っぱいで『無限ループ』できるから」
サトミは大量の肉を口に頬張りながら、涼しい顔で言い放った。プロレスラーとしての強靭な胃袋に、いっちゃんも呆れを通り越して感心する。
そんないっちゃんだったが、クレープ生地に果物を大量にのせ、さらにそれを上回る生クリームをつけて戻ってきた。
「何?その女子高生みたいなのは……」
サトミは半ばあきれた様子で反応する。
「甘いものは別腹でしょ」
いっちゃんは、すかさず答える。
サトシはそのやり取りを見て、これが女子のやり取りなのか、と感心するのだった。
宴もたけなわになった頃、お酒の入ったサトミが、しれっと下品な話題を振り始めた。
「それにしてもさぁ、ユイのTシャツ小さすぎでしょ。ポチってなっちゃってたじゃん。観客に見られたかと思うと……」
「はあ!? お前の巨乳のせいだろ。せっかく貸してやったんだから文句言うなよ。しかも、結構、立ってたよね?」
ユイも酔っ払って、負けじと露骨な下ネタで応戦する。
いっちゃんとサトシは、その赤裸々なやり取りをただ呆然と眺めるしかなかった。
(……これが、女子の下ネタ会話なんだぁ……)
いっちゃんは、頬を染めながら内心で呟いた。驚くと同時に、そんな風に明け透けに、傷を笑い飛ばせる彼女たちの強さが、少しだけ羨ましくもあった。
窓の外には、静かな夜の街が広がっている。リングという名の地獄。そこで負った傷は深く、消えることはない。けれど、今、目の前にある肉の熱気と仲間たちの笑い声、そして隣にいてくれるサトシの存在が、いっちゃんの心を静かに、けれど確実に癒やしていくのを感じていた。
5. 剥き出しの言葉、微かな熱
「それにしてもさ……」
ビールを煽り、すっかり出来上がったサトミが、ニヤニヤといっちゃんに視線を這わせた。
「さっきのTシャツの話じゃないけど、案外いっちゃんのおっぱいも大きいよね。脱いだらすごいタイプでしょ?」
その直球すぎる言葉に、いっちゃんの顔が火を吹いた。しかしサトミは止まらない。隣で所在なさげに箸を動かしていたサトシに、狙いを定めて畳み掛けた。
「ねぇ、サトシさんもそう思ったでしょ? 実際どうなのよ。触ってみた感想は?」
「えっ、いや……、あの……」
サトシは持っていた箸を止めたまま、文字通りフリーズした。サトシの顔が、茹で上がった蛸のように赤くなっていく。
「無駄だよサトミ。あいつはまだ、いっちゃんと『やること』やってないんだってさ」
ユイが呆れたように、肉を口に放り込みながら代わりに答えた。
「えっ、嘘でしょ!? もったいない!」
サトミは大声を上げてのけぞった。
「あんなに可愛い子を独占してて、何お預け食らってんのよ。サトシさん。早いとこやっちゃいなよ!」
いっちゃんは、ただただ苦笑するしかなかった。かつての「エメラルド・クイーン」としての威厳などどこへやら、自分よりも年下で、かつては敵同士だった彼女たちに、最もプライベートな部分を土足で踏み荒らされている。
けれど、不思議だった。 これまでの人生で、性的な話題や男性との接触をこれほどまでに揶揄されれば、間違いなくパニックに陥っていたはずだった。だが今、この騒がしく下品なやり取りの中にいて、いっちゃんは「悪い時間ではない」と感じている自分に驚いていた。 むしろ、心が軽くなっていくような、得体の知れない楽しささえ覚えていたのだ。
三人のレスラーと、一人の理解者が囲む食卓。その賑やかさは、つい数時間前までリングという名の地獄で魂を削り合っていた事実を、一時的に忘れさせてくれた。
6. 深淵から伸びる手
しかし、この平穏な夜が、これから始まるさらなる絶望への序曲に過ぎないことを、いっちゃんはまだ知らない。
脚立にくくりつけられ、醜態を晒した麻子の復讐心。そして何より、いっちゃんにとって人生で最も恐ろしいあの「怪物」が、再び彼女の前に姿を現そうとしていた。
忌まわしいあの日から、もう8年が過ぎていた。犯した罪に対して下された刑期は10年。いっちゃんは、法律が定める刑期のすべてが終わるまで、その怪物が檻の外に出ることはないと信じ込んでいた。
だが、現実は残酷だった。模範囚としての評価、あるいは司法の隙間。刑期の満了を待たずとも「仮出所」という形で、自由が前倒しで与えられることがある。その理不尽な事実を、そしてその「怪物」がすでに塀の外の空気を吸い、自分を探し始めていることを、この時のいっちゃんは知る由もなかった。
エメラルドの輝きが、かつてないほど巨大な闇に呑み込まれようとしていた。




