6 羞恥の境界、盾という名の誇り
はじめまして(お読みいただく前のお願い)
数ある作品の中から、このページを開いてくださり、本当にありがとうございます。
初めて「小説家になろう」に投稿させていただきます。右も左もわからない初心者で、操作一つひとつに緊張していますが、ずっと自分の中で温めてきた物語を形にしたくて、執筆を始めました。
不慣れなため、読みづらい点などあるかと思いますが、精一杯書き進めていきたいと思っています。
閲覧にあたっての注意点
本作は、絶望の淵に立たされた主人公の再生を描く物語ですが、テーマの性質上、以下のような描写が含まれます。
• 過去の辛い経験(性被害など)に関する回想や、心の葛藤
• 女子プロレスの試合等における、激しい痛みや流血、怪我の描写
• 精神的に追い詰められるような重いシーン
これらは犯罪や暴力を肯定する意図は一切ございませんが、読む方によっては強いショックを感じたり、お気持ちが沈んでしまう可能性があるかもしれません。
もし「少しでも辛いな」と感じた時は、無理をせず、すぐに閲覧をお控えください。
作品のテーマと設定について
• 本作はR15設定および**「残酷な描写あり」**の設定にしています。
• 物語の根底には**「被害者と加害者の境界線はグラデーションである」**という考えがあります。誰しもがどちらの立場にもなり得るという人間の多面性や、その果てに辿り着くそれぞれの場所を描きたいと思っています。
• 登場する人物や団体はすべて架空のものです。
執筆環境について(AIの使用明示)
本作は、執筆の補助として生成AI(AIアシスタント)をパートナーとして活用しています。
私自身、視覚障害や難聴といった体調面での制約があり、長い文章を一人で整えることが難しい場面があります。そのため、私が考えたプロットや言葉、込めた想いをAIに伝え、表現の肉付けや文章の整理を相談しながら原稿を作り上げています。
物語の核心はすべて私自身の経験や想いから生まれたものですが、AIという最新の補助具を借りて表現していることをご理解いただけますと幸いです。
感想・評価などの受付について
本作では、感想、評価、レビューの受付をすべて停止させていただいております。
まずは自分自身の心身を整えつつ、自分のペースでこの物語を最後まで書き抜くこと、そして一つひとつの言葉を大切に紡ぐことに集中したいと考えております。あたたかく見守っていただけますと幸いです。
更新は少しずつになるかもしれませんが、この物語がどこかの誰かの心に、微かな光として届くことを願っています。どうぞよろしくお願いいたします。
第1章:羞恥を捨てた女、サトミ
いっちゃんこと、市原いずみは、吉川早紀との死闘を制し、泥沼のような勝利を掴み取った。しかし、いっちゃんを待っていたのは、安息ではなく、さらなる絶望の予感だった。
「サキに勝ったからって慢心するなよ……次の相手だ」
団体の代表が無機質に放り出した一枚の興行ポスター。そこには、エメラルドグリーンの衣装を纏ったいっちゃんと対峙するように、真紅のベビードールを思わせる過激なコスチュームに身を包んだ女が写っていた。
名前は、綾瀬聡美。かつていっちゃんが引導を渡した元アイドル・麻子と同じグループに所属していたメンバーだった。しかし、彼女が歩んだ道は麻子とは決定的に異なっていた。彼女はグループを卒業後と同時にAV女優へと転身し、その業界でトップに君臨する「夜の女王」となっていた。
サトミはプロレス界に殴り込みをかけるにあたり、すでに凄惨な実績を作っていた。彼女のデビュー戦の相手は、皮肉にもAV出演という名の地獄に堕ちた「麻子」だったのだ。サトミは、絶望に震えるかつての仲間をリング上で徹底的に辱め、その心を粉々に砕いて勝利したという。
いっちゃんは、自室のベッドで震える手を使って、サトミの過去の試合動画を再生した。画面に映し出されたのは、スポーツとしてのプロレスを逸脱した、おぞましい「羞恥のパレード」だった。
サトミの戦い方は、技術で勝ることではなく、相手の「女としてのプライド」を徹底的に剥ぎ取ることにある。執拗な恥ずかし固め、観客の目の前での開脚、コスチュームへの嫌がらせ。相手が顔を真っ赤にし、屈辱に涙を流すほど、サトミの攻撃は冷酷さを増していく。
しかし、何よりいっちゃんを驚愕させたのは、サトミ自身の態度だった。相手からどんな屈辱的な技をかけられても、サトミは眉ひとつ動かさない。それどころか、辱めを受けている最中に、あざ笑うかのような官能的な表情さえ浮かべてみせるのだ。
(どうして……あんなことされて、平気なの……?)
サトミにとって、人前で裸身に近い姿を晒すことも、性的な視線にさらされることも、すでに「日常」の一部なのだ。AVという世界で培われた、ある種の発狂したような「無恥」の強さ。それは、過去のトラウマを抱え、自分の尊厳を守るために必死に戦っているいっちゃんにとって、最も恐ろしい種類の武器だった。
さらに、スマートフォンのスピーカーから漏れる地鳴りのような歓声が、いっちゃんの心臓を冷たく締め付けた。会場を埋め尽くしているのは、サトミの熱狂的なファンたちだ。彼らはプロレスの技を見に来ているのではない。サトミが相手を辱め、あるいは自身が辱められる「ショー」を、下卑た欲望を剥き出しにして待ちわびているのだ。
(次の試合、私は……完全にアウェーなんだ)
これまで、いっちゃんは常に「悲劇のヒロイン」として、観客の称賛と温かな声援に包まれてきた。だが、サトミとの試合では、会場中の視線がいっちゃんの「絶叫」や「恥じらう姿」を期待する刃となって降り注ぐだろう。想像するだけで、喉の奥が引き攣るような不安が頭の中を支配していく。
その夜、いっちゃんは重い足取りでバスルームへ向かった。熱い湯に身を沈め、一日の汚れを洗い流す。しかし、立ち上る湯気の中にさえ、サトミの冷笑と、男たちの下卑た笑い声が混じっているような気がしてならない。
自分の体を洗う指先が、ふと、太腿の内側の「大切な部分」に触れた。
「っ……!」
その瞬間、いっちゃんの全身を電気のような拒絶反応が走り抜けた。
ビクッと肩が跳ね、心臓が嫌な音を立てて脈打ち始める。脳裏に、あの雨の日の路地裏、逃げ場のない絶望、冷たいアスファルトの感触がフラッシュバックする。サトミに辱められ、無数のカメラと視線に晒される自分。抗えば抗うほど、その姿を娯楽として消費される恐怖。
(嫌だ……見ないで……助けて……)
震える手で自身の肩を抱きしめ、いっちゃんは湯船の中で小さく丸まった。かつてのトラウマを呼び覚ますには、サトミという女の存在は、あまりにも強烈で、無慈悲な毒だった。
エメラルドグリーンの光が、どす黒い羞恥の影に飲み込まれようとしていた。いっちゃんは、古河智とのデートを心の支えにしようと必死に言い聞かせたが、その救いの手さえ、これから訪れる地獄の熱気に焼かれてしまうのではないかという恐怖を、拭い去ることはできなかった。
第2章:盾の誓いと、折れかけた翼
1.触れ合う指先、重なる体温
サトミとの対戦という重圧がのしかかる中、いっちゃんにとってサトシと過ごす時間は、唯一、肺の奥まで新鮮な空気を送り込める「呼吸の場」であった。二人は恋人として結ばれてから初めての、穏やかな夕暮れのデートを楽しんでいた。初夏の風は、湿り気を帯びながらも肌に心地よく、サトシの横顔を見ているだけで、いっちゃんの心の波立ちは静まっていくように感じられた。
サトシは相変わらず控えめではあるが、その呼び方は以前とは違っていた。
「いずみさん。今日は、空の色が綺麗ですね。僕にはぼんやりとしたグラデーションにしか見えませんが、それでも……とても温かい色です」
その静かな声に、いっちゃんは小さく頷き、そっと彼の手を握りしめた。モデルとしての虚飾も、レスラーとしての殺気も必要のない、ただの一人の女性・市原いずみとして過ごせる時間。しかし、その幸福な静寂は、無慈悲な足音によって唐突に破られることとなる。
2.闇からの襲撃と、愛する人への盾
「おいおい、エメラルド・クイーンがこんなところで男としけこんでるのかよ」
路地裏の影から現れたのは、酒の臭いを漂わせた、ガタイのいい男だった。男はいっちゃんの顔を知っていた。いや、正確には「プロレスラー・いっちゃん」を、歪んだ欲望の対象として消費しているファンの一人であった。
「サトミとの試合、楽しみにしてるぜ。お前のあられもない姿が拝めるんだもんなぁ」
下卑た笑いと共に、男がいっちゃんの腕を強引に掴む。
「やめて……離してください!」
いっちゃんは反射的に男を跳ね除けようとした。しかし、その瞬間、過去のトラウマがフラッシュバックする。路地裏。逃げ場のない狭い空間。男の暴力的な力。 身体が石のように強張り、指先に力が入らない。プロレスのリングで見せるはずの「技術」は、現実の恐怖の前ではあまりにも無力だった。
男はいっちゃんを壁に押し込み、その上に覆い被さろうとする。
「なんだよ、リングの上じゃあんなに威勢がいいのに、本番じゃただの震えてる女じゃねえか」
いっちゃんの視界が恐怖で白く点滅し、絶望に目を閉じた――その時だった。
「……彼女から、離れてください」
静かな、けれど芯の通った声が響くと同時に、いっちゃんの前に一つの背中が割り込んだ。サトシであった。
「あぁ? なんだお前、このメクラ野郎が。引っ込んでろ!」
男の拳が、容赦なくサトシの顔面を捉えた。バキッという生々しい音が響き、サトシの眼鏡が地面に落ちて砕け散る。
男は逆上し、サトシを地面に突き飛ばすと、馬乗りになって拳を振り下ろし続けた。 ドスッ、ドカッという鈍い衝撃音が、路地裏の静寂を塗り潰していく。
「サトシさん! やめて、もうやめて!!」
いっちゃんは叫んだ。彼女は知っていた。以前、スポッチャで見せたサトシの驚異的な身体能力と鋼のような筋肉を。本気でやり返せば、サトシがこの男を返り討ちにするなど容易なはずだった。
しかし、サトシは一切、手を出さなかった。 彼は丸まり、ただひたすらに「盾」となり、男の暴力を一身に浴び続けていた。それは、彼が男に勝てないからではない。彼は、いっちゃんを守る場所で、自分自身が誰かを傷つける「加害者」になることを、彼女の前で暴力を振るうことを、魂の底から拒絶していた。
やがて通行人の気配に気づいた男が毒付きながら逃げ去った後、路地裏に残されたのは、血塗れで動かなくなったサトシと、その傍らで泣き崩れるいっちゃんの姿だけだった。
3.病院の静寂、託された誇り
サトシは救急車で運ばれ、そのまま入院を余儀なくされた。顔は腫れ上がり、肋骨も数本折れているという惨状だった。 翌日、いっちゃんは病室の椅子に座り、包帯に巻かれたサトシの手を震えながら握っていた。
(私のせいだ……。私が、あんな仕事をしていなければ。私が、あんな場所に連れて行かなければ……)
後悔が黒い泥のように彼女の心を侵食していく。麻子が地獄へ堕ち、サキが修羅となり、そして今、最も大切な恋人までが傷ついた。
「サトシさん……私、もうプロレスを辞めようと思うの。あなたがこんな目に遭ってまで、守らなきゃいけないものなんて、もう私には……」
いっちゃんが涙ながらに告げた時、包帯越しにサトシの手が微かに動き、彼女の指を包み込んだ。
「……いずみさん」
掠れた声だったが、そこには揺るぎない力が宿っていた。
「辞めないでください。……僕は、あなたが自分の足で立ち、やるべきことに向き合っている姿を見て、勇気をもらってきました。その姿を見ることができれば……僕は、それだけで幸せなんです」
サトシは、腫れ上がった瞼の奥にある、光を失った瞳をいっちゃんの方へ向けた。 「いずみさん。あなたがサトミさんと戦うのは、辱めを受けるためじゃない。……自分の誇りを取り戻すためだと、僕は信じています。だから、僕のために……戦ってください」
4.決意の朝
病室を出た時、いっちゃんの瞳からは迷いが消えていた。サトシが身を呈して守ってくれたのは、彼女の肉体だけではない。彼女がリングで戦う「意味」そのものだった。
サトシの入院により、彼の声という導きを直接そばで受けることはできない。 だが、彼女の心臓の鼓動とともに、サトシが呼んでくれた「いずみさん」という響きが、確かな力となって刻まれている。
(見ていて、サトシさん。私は、逃げない)
いっちゃんは、サトミとの対戦を承諾するために、団体の事務所へと向かった。 ランウェイの先にある、羞恥と屈辱に満ちた檻。 けれど、今の彼女の背中には、血塗れになっても決して折れなかった「盾」の記憶が、エメラルドの輝きとなって宿っていた。
第3章:羞恥の境界線と、再生の咆哮
1.葬列の如き朝
決戦の朝、いっちゃんは一人暮らしの自室で、目覚まし時計が鳴るよりも数分早く、深い闇の底から浮上するように目を覚ました。カーテンを閉め切った部屋は、重苦しい静寂に包まれている。いつもなら、隣で微笑むサトシの温もりや、彼との何気ないやり取りを反芻して力をもらうはずの朝だ。しかし、彼は今、自分を守るために負った傷を癒やすべく、白い病室のベッドに横たわっている 。
枕元に置かれたスマートフォンには、彼からの「頑張って」というメッセージはない。その空白が、いっちゃんの心に底知れない孤独を刻みつける。キッチンで一杯の水を飲み、鏡の前に立つ。顔色は青白く、指先はわずかに震えていた。これから向かう場所は、単なるプロレスのリングではない。自分を辱め、尊厳を剥ぎ取ろうとする観衆と、羞恥心を捨て去った怪物・サトミが待ち構える、公開処刑の場なのだ。
2.生贄の鎧
会場の控室。いっちゃんは、慣れ親しんだエメラルドグリーンのコスチュームを手に取った。スパンコールの輝きが、今日の彼女には、生贄の体に施される過剰な装飾のように見えてならない 。
肌に密着する布の感触が、これから晒される肉体の輪郭を強調する。彼女の脳裏には、サトミがいかにして相手のコスチュームを乱し、羞恥の極致へと追い込んできたかの映像が、呪いのように再生されていた。
(サトシさんは、私の戦う姿に勇気をもらえると言ってくれた……。でも、今日私が見せるのは、そんな気高い姿じゃないかもしれない)
鏡の中の自分を見つめる。瞳には、恐怖と迷いが沈殿していた。
控室の扉を開け、リングへと続く廊下を歩む。一歩、また一歩。その足取りは、かつて中学の砂場で空を掴もうとした軽やかな助走路でも、煌びやかなファッションショーのランウェイでもない 。それは、逃げ場のない地獄へと自らを運ぶ、葬列の歩みであった。
(神様の声は聞こえない。サトシさんの声も届かない。私は、たった一人で、あの檻に入らなければならない)
3.辱めの旋律
会場に足を踏み入れた瞬間、いっちゃんを迎えたのは、かつて経験したことのない異様な熱気であった。観衆の視線は、レスラーとしての技術を賞賛するものではない。一人の女が、徹底的に辱められ、崩れ落ちる瞬間を待ちわびる、剥き出しの欲望であった。
ゴングが鳴るやいなや、サトミの攻撃は、いっちゃんの「女としての自意識」を的確に貫いた。
「ほら、モデル様。自慢の脚を、みんなにじっくり見せてあげなさいよ!」
サトミは下卑た笑みを浮かべ、いっちゃんの片足を強引に掴み上げると、観衆の目の前で無理やり大きく開脚させた。マットに背中を押し付けられ、無防備な姿を晒される。 さらに、ロープ際へ追い詰められたいっちゃんは、サトミの強烈な体当たりによって、自身の股間をトップロープへ激しく叩きつけられた。
「あ、がぁ……っ!」
激痛。しかし、それ以上にいっちゃんを苛んだのは、耐え難い羞恥心であった。続いて放たれたバックブリーカーは、いっちゃんの腰を折るためではなく、その豊かな胸部を強調するようにして固定された。サトミは、いっちゃんの抗う腕を封じると、露出した胸元を狙って容赦のない打撃を叩き込む。
(痛い……でも、それ以上に、恥ずかしい。見ないで……誰か、助けて……)
かつて路地裏で襲われたあの夜のトラウマが、現実の苦痛と混ざり合い、いっちゃんの心をズタズタに引き裂いていく 。溢れ出す涙を拭うことさえ許されず、その無惨な姿に向けて、地鳴りのような歓声とともに、無数のフラッシュが冷酷に焚かれた。
4.鎖の処刑
サトミの執拗さは、物理的な攻撃に留まらなかった。彼女はアクシデントを装い、いっちゃんのコスチュームの肩紐を強引に引きずり下ろそうとする。
「やめて! 離して!」
いっちゃんは必死に胸元を両手で押さえ、露わになるのを防ごうと抗う。しかし、その防御の姿勢こそが、サトミの狙いでもあった。両手が塞がれたいっちゃんのガードは穴だらけとなり、さらなる蹂躙を許してしまう。
「モデル様。麻子を地獄に落としたのは自分だと思ってる?」
サトミは吐き捨てる。
「そこにいる私を何だと思ってんの! あんたは、きれいなランウェイから私を見下してる! 舐めないでよ!」
サトミは隠し持っていた重い鉄の鎖を取り出すと、いっちゃんの細い首に幾重にも巻き付けた。そのまま、ぐったりとしたいっちゃんを場外へと突き落とす。
「死ねぇ……!」
いっちゃんの首は鎖によってロープを支点に宙吊りとなり、声にならない叫びを上げて悶え苦しんだ。
「ガハッ……、あ……っ、が……!」
会場全体が、フラッシュの光によって白く染まる。その閃光の中で、サトミはロープに鎖を括り付けると、吊り下げられたいっちゃんの「大切な場所」を狙い、集中攻撃を開始した。レフェリーの制止など、彼女の耳には届かない。
やがて鎖がロープから外れた。
場外のマットに力なく落下したいっちゃんの意識は、深い闇へと溶け去っていった。 リング上では、サトミが観客を誘惑するような卑猥なポーズを決め、会場は狂乱の渦に包まれている。
5.修羅の覚醒
(サトシさん……。ごめんなさい。私、もう……)
無意識の底で、いっちゃんは諦めの境地にいた。神の声も、愛する人の声も、この絶望の底までは届かない。 しかしその時、激しい衝撃がいっちゃんの肩を揺さぶった。
「……目を覚ましなよ。こんなところで、何やってんだ!」
聞き覚えのある、鋭い声。 うっすらと目を開けると、そこには松葉杖をつき、自身の怪我も厭わずに立ち尽くすサキの姿があった。いっちゃんの意識が戻らないのを見るや、サキは情け容赦なく、いっちゃんの頬を何度も、何度も張り飛ばした。
「立ちなよ、市原いずみ! 誰が待ってるんだよ! 誰のために戦ってるんだ!」
物理的な衝撃とともに、サキの怒号が、いっちゃんの魂に火を灯した。場外カウントが限界まで刻まれる中、いっちゃんはサキに背中を押し戻されるようにして、這うようにしてリングへと戻った。
その瞬間、彼女の脳裏に、病室のサトシの姿が鮮明に浮かび上がった。
『いずみさん。あなたがやるべきことに向き合っている姿を見ることができれば……僕は、それだけで幸せなんです』 。
(そうだ。サトシさんは、私の『綺麗』な姿が見たいわけじゃない。私が私の誇りを持って、最後まで戦い抜く姿を信じてくれているんだ)
その確信が、彼女の心に巣食っていた羞恥の霧を一気に晴らした。どんなに辱められようと、どんなに無惨な姿を晒そうと、サトシの瞳には、戦い続ける一人の人間としての「市原いずみ」だけが映っている。
6.エメラルドの咆哮
いっちゃんの瞳から迷いが消え、鋭い意志の光が宿った。 サトミの次なる挑発も、辱めを目的とした攻撃も、今のいっちゃんにはもはや通用しなかった。彼女は羞恥心を自身の誇りへと昇華させ、相手の攻撃を無効化するように、自身の技術を次々と繰り出していった。
焦りを見せ始めたサトミに対し、いっちゃんは元陸上選手の爆発的な跳躍力を活かしたドロップキックを、その顎へ向けて正確に放った。サトミがマットに沈むと、いっちゃんは迷うことなく彼女の片足を掴み、渾身の力で絞め上げた。
「あああぁぁぁっ!」
今度はサトミが、逃れようのない激痛に絶叫した。いっちゃんはさらにサトミの首を締め上げながらのバックブリーカーへと移行し、彼女の意識を混濁させていく。
(これで……終わりにする!)
いっちゃんは意識を失いかけたサトミを抱え上げ、コーナーの最上段へと駆け上がった。28歳、傷だらけの市原いずみの、究極の「エメラルド・ジャンプ」。
「いっけぇぇぇぇーー!!」
滞空時間の長い放物線を描き、そのまま後方へサトミの肉体を投げ飛ばすバックドロップが炸裂した。
「ドゴォォォォン!!」
サトミは意識を失ったまま、ピクリとも動かない。
「カン、カン、カン、カン、カン……!!」
いっちゃんの勝利を告げるゴングが、会場に響き渡った。
7.瓦礫のランウェイ
レフェリーによって、いっちゃんの右腕が天高く掲げられた。しかし、彼女の心にあるのは歓喜ではなかった。全身を襲う痛み、首に残る鎖の痕跡、そして汚されたコスチューム。 彼女は、泥濘の中を這いずり回り、自らの魂を削り取ってこの勝利を掴み取ったのだ。
リング上、観衆の野次と拍手が入り混じる騒音の中にいる。視界は腫れ上がり、足元はおぼつかない。いっちゃんの視界には誰もいなかった。大量のフラッシュに包まれ、レンズに映る自分は、あまりにも無惨で、傷だらけだっただろう。
しかし、レンズの向こう側の瞳だけは、これまでになく清らかで、強い光を宿していた。
(サトシさん……。私、やったよ。辱められても、壊されそうになっても、私は私のまま、ここに立っている)
いっちゃんは一人のレスラーとして、そして一人の愛する男を持つ女として、静かに、そして誇り高く涙を流した。
エメラルドの輝きは、地獄の業火に焼かれてもなお、その芯までは汚されることはなかったのである。
第4章:傷跡の連歌、そして深淵の門
1.控室の咆哮と涙
リングを下り、這うようにしてたどり着いた控室への廊下。いっちゃんの肩を支えていたのは、松葉杖をついたサキだった。サキの荒い息遣いといっちゃんの引きずる足音が、静まり返った舞台裏に虚しく響く。
控室の重い扉を閉めるなり、サキはいっちゃんの肩を突き放した。
「……この、バカ!」
乾いた音が響いた。サキの手のひらがいっちゃんの頬を烈火のごとく張り飛ばしたのである。
「何なんだ、あの無様な試合は!鎖で吊るされ、あんな恥知らずな女に好き勝手されて……。元国体選手、元トップモデルのプライドはどこへ捨てたんだ!」
いっちゃんは腫れ上がった頬を押さえ、黙って俯いた。サキの罵声は、自分自身のふがいなさを突き刺す刃であった。
しかし、罵倒を続けていたサキの肩が、不意に激しく震え始めた。
「……でも、あんた、逃げなかった」
サキの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。それは、絶望の淵で泥を啜りながらも立ち上がった戦友への、魂の叫びであった。
「あんな地獄を見て、それでも勝った……。あんたは、本物のプロレスラーだよ」
サキはいっちゃんを力一杯抱きしめた。血と汗、そして辱めの記憶が染み付いたコスチューム越しに、二人の震える魂が共鳴していた。
2.代表の冷徹な宣告
二人が抱き合ったまま、ようやく訪れた静寂を切り裂くように、扉がノックもなしに乱暴に開かれた。
「……感動の再会か。反吐が出るな」
無遠慮に足を踏み入れたのは、団体の代表だった。彼は、傷だらけのいっちゃんの姿を一瞥だにせず、冷酷な眼差しを投げかけた。
「勝ったな。だが、客はな、お前のその純情をさらに踏みにじる刺激を求めているんだ」
代表は、いっちゃんの首に残る鎖の痕跡を忌々しげに見据えた。
「次は、いよいよユイだ。お前があのアイドルの成れの果てにどこまで解体されるか……興行としては最高のカードだな」
ユイ。その名を聞いた瞬間、いっちゃんの全身に戦慄が走った。あらゆるレスラーを地獄へ送り、サキを破壊した「化け物」との対戦。
「豊田のようにはなるなよ」
代表はそう言い捨てると、凍りついた控室を後にした。
3.受話器越しの安らぎ
一人になった控室。いっちゃんは震える指先で、サトシが入院している病院へと連絡を入れた。
「……もしもし、サトシさん」
受話器越しに聞こえてきたのは、夜の湖のように穏やかな、愛する人の声であった。 「いずみさん? ……試合おわったんですね。お疲れさまでした」
いっちゃんは、堰を切ったように言葉を零した。
「勝ったよ……。でも、私、ボロボロなの。首を鎖で絞られて、みんなの前で……あんなに辱められて。私、もう、まともな顔であなたに会えないかもしれない……」
屈辱の記憶が溢れ出し、いっちゃんの声は嗚咽に変わった。
「いずみさん……」
サトシの声は、どこまでも優しく、そして力強かった。
「私は、いずみさんが勝ったか負けたかなんて……。ただ、無事でいてくれたこと、それだけで十分なんです。辱めを受けたことも、壊されそうになったことも……。……でも……あなたは、それでも自分を捨てなかった」
サトシは、包み込むような慈しみを持って言葉を紡いだ。
「いずみさんがどんな姿になっても、僕に見えるのは、誇りを持って戦い抜いた、世界で一番綺麗な『いずみさん』だけです。……すごいです」
その一言に、いっちゃんの心の堤防が決壊した。
「サトシさん……、うあぁぁぁ……っ!」
誰もいない控室で、いっちゃんは泣き崩れた。それは、戦いのための叫びではなく、愛する人にすべてを許された、一人の女性としての、魂の浄化の涙であった。
4.終焉への助走路
涙を拭い、いっちゃんは鏡の中の自分を再び見つめた。顔は腫れ上がり、コスチュームはボロボロだ。しかし、その瞳の奥には、サトシが守ってくれた「誇り」という名の残り火が、静かに、しかし消えることのない熱を持って燃えていた。
次なる相手は、ユイ。かつてないほどの深淵が、口を開けて彼女を待っている。けれど、今のいっちゃんには、帰るべき場所があり、信じてくれる人がいる。
(見ていて、サトシさん。私は、最後まで私でい続ける)
エメラルドの輝きは、さらなる地獄の門を叩くために、再びその翼を広げ始めた。
市原いずみの、真の「解体」か、あるいは「覚醒」か――。




