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水平線のグラデーション ー光の射す地獄、影の落ちる天国ー  作者: いつろう


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5 エメラルドの純情と、紅蓮のマット

はじめまして(お読みいただく前のお願い)

数ある作品の中から、このページを開いてくださり、本当にありがとうございます。

初めて「小説家になろう」に投稿させていただきます。右も左もわからない初心者で、操作一つひとつに緊張していますが、ずっと自分の中で温めてきた物語を形にしたくて、執筆を始めました。

不慣れなため、読みづらい点などあるかと思いますが、精一杯書き進めていきたいと思っています。


閲覧にあたっての注意点

本作は、絶望の淵に立たされた主人公の再生を描く物語ですが、テーマの性質上、以下のような描写が含まれます。

• 過去の辛い経験(性被害など)に関する回想や、心の葛藤

• 女子プロレスの試合等における、激しい痛みや流血、怪我の描写

• 精神的に追い詰められるような重いシーン

これらは犯罪や暴力を肯定する意図は一切ございませんが、読む方によっては強いショックを感じたり、お気持ちが沈んでしまう可能性があるかもしれません。

もし「少しでも辛いな」と感じた時は、無理をせず、すぐに閲覧をお控えください。


作品のテーマと設定について

• 本作はR15設定および**「残酷な描写あり」**の設定にしています。

• 物語の根底には**「被害者と加害者の境界線はグラデーションである」**という考えがあります。誰しもがどちらの立場にもなり得るという人間の多面性や、その果てに辿り着くそれぞれの場所を描きたいと思っています。

• 登場する人物や団体はすべて架空のものです。


執筆環境について(AIの使用明示)

本作は、執筆の補助として生成AI(AIアシスタント)をパートナーとして活用しています。

私自身、視覚障害や難聴といった体調面での制約があり、長い文章を一人で整えることが難しい場面があります。そのため、私が考えたプロットや言葉、込めた想いをAIに伝え、表現の肉付けや文章の整理を相談しながら原稿を作り上げています。

物語の核心はすべて私自身の経験や想いから生まれたものですが、AIという最新の補助具を借りて表現していることをご理解いただけますと幸いです。


感想・評価などの受付について

本作では、感想、評価、レビューの受付をすべて停止させていただいております。

まずは自分自身の心身を整えつつ、自分のペースでこの物語を最後まで書き抜くこと、そして一つひとつの言葉を大切に紡ぐことに集中したいと考えております。あたたかく見守っていただけますと幸いです。

更新は少しずつになるかもしれませんが、この物語がどこかの誰かの心に、微かな光として届くことを願っています。どうぞよろしくお願いいたします。

第1章:エメラルドの休息と、甘い予感

1.始まりの光

初夏の柔らかな陽光が、遮光カーテンの隙間から差し込み、フローリングに細長い光の帯を描いていた。午前6時。目覚まし時計が鳴るよりずっと早く、いっちゃんこと市原いずみは目を覚ました。

いつもなら、激闘の余韻で鉛のように重い体を引きずるようにして起き上がる朝だが、今日だけは違った。シーツを蹴り上げ、ベッドから飛び出す。窓を開けると、都会の湿り気を帯びた初夏の風が、彼女の火照った頬をなでていった。「今日は、オフなんだ」――その事実を口にするだけで、胸の奥が小さく弾む。


2.鏡の中の「二人の自分」

シャワーを浴びた後、彼女は洗面台の大きな鏡の前に立った。

そこには、トップモデルとしての凛とした美しさと、プロレスラーとして刻まれた戦いの痕跡が同居していた。指先でそっと、鎖骨の近くに残る薄い痣をなぞる。紅との死闘、そして麻子から受けた熾烈な攻撃の記憶が、幻痛のように一瞬だけよぎる。

「……今日は、私は私として会いに行こう」

彼女は、いつもより時間をかけてメイクに取り掛かった。プロフェッショナルな「完璧な仮面」を作るのではない。痣を隠すコンシーラーを丁寧に乗せながらも、肌の透明感を生かしたナチュラルな仕上がりを目指す。チークを軽く乗せると、鏡の中の彼女は、ランウェイの上で見せる鋭い表情とは違う、年相応の、どこか幼さの残る「市原いずみ」という一人の女性に戻っていた。


3.揺れるクローゼット

クローゼットの前は、まるで嵐の後のようだった。

ベッドの上には、色とりどりの服が投げ出されている。モデルとして何万着もの衣装を着てきた彼女にとって、服は「自分を飾る武器」だった。しかし今日、彼に会うための服は、武器であってはならなかった。

(派手すぎたらだめだし。でも、地味すぎて『市原さん』のままも嫌……)

迷いに迷い、彼女が手に取ったのは、清潔感のあるホワイトのVネックトップスと、彼女のテーマカラーでもあるエメラルドを彷彿とさせる薄緑のロングスカートだった。歩くたびに裾が揺れ、隠された脚の筋肉のラインを柔らかくぼかしてくれる。鏡の前でくるりと回ると、初夏の風を纏っているような軽やかさがあった。


4.サトシという存在

駅へと向かう道すがら、彼女の頭の中は彼のことを考えていた。

彼は、プロレス団体の雑用係、古河智サトシ。度の強いメガネをかけ、いつも少し猫背気味に歩く内向的な青年だ。ただし、彼女よりも2歳年上の30歳。団体の中では「透明な存在」に近かった。気の強い女子レスラーたちからは、「おい、メガネ」「ノロマ」と当たり前のように罵られていた。彼は雑用を押し付けられ、馬車馬のように働かされている。

それでも彼は、決して嫌な顔を見せなかった。誰に感謝されるわけでもない汚れたマットの清掃や洗濯など、彼はまるでお祈りでも捧げるかのように献身的に、そして丁寧に行っていた。

いっちゃんが彼を意識し始めたのは、ある惨敗を喫した後のことだった。

控え室で一人、自身の無力さとトラウマに押し潰されそうになり、暗闇の中に座り込んでいたいっちゃん。そこへ、彼がそっと現れた。

「……お疲れ様です。これ、甘いですよ」

差し出されたのは、温かい缶のおしるこだった。

実は、いっちゃんは餡子が苦手だ。けれど、冷え切った指先に伝わる缶の熱と、彼の不器用な優しさが、その時の彼女には何よりの救いだった。おしるこの甘さは、彼女の心に澱んでいた泥をゆっくりと流していくようだった。


5.心のスイッチ

学生時代やモデル仲間には、エスコートが完璧で、常に自信に満ち溢れた「輝く男たち」が大勢いた。けれど、彼らは皆、いっちゃんの「モデルとしての美しさ」を愛していたに過ぎない。

彼は違った。彼は、いっちゃんを「高嶺の花」として崇めることも、性の対象として下卑た視線を向けることもない。ただ一人の人間として、傷ついた彼女に寄り添ってくれた。

彼は、いっちゃんが一番不安な時に、魔法の言葉をくれる。

「市原さん、応援しています」

その一言があるだけで、リングに向かう足に力が宿る。彼は決していっちゃんに触れようとはしない。常に「市原さん」と敬称で呼び、一定の距離を保つ。そのもどかしいまでの誠実さが、今のいっちゃんには、誰よりも男らしく、そして愛おしく感じられていた。


6.踏み出した一歩

「今度、私の相談に乗ってくれない?」

道場で声をかけた時、彼は手に持っていた大量のポスターを落としそうになるほど驚いていた。その時の、驚きと戸惑いが入り混じった彼の表情を思い出し、いっちゃんは駅のホームで小さく吹き出した。

(私、自分から誘っちゃった。……あの日、路地裏で立ち止まったままだった私が、今、自分の足で誰かに会いに行こうとしてる)

電車がホームに滑り込んでくる。窓に映る自分の顔は、これから始まる「デート」への緊張と、言葉にできない喜びで、エメラルドグリーンの光を宿しているように見えた。


第2章:曇りなき瞳の深淵アビス

1.待ち合わせ――不器用な誠実さ

待ち合わせ場所は、多くの人が行き交う駅のシンボル、大きなデジタルサイネージの前だった。

いっちゃんは、予定時刻の15分前には着くように電車を選んだ。余裕を持って到着し、鏡でメイクをチェックしてから彼を待ちたい、という乙女心が働いたのだ。

しかし、雑踏の中に彼の姿を見つけたとき、彼女は思わず足を止めた。

彼はすでにそこにいた。いつもの少し着古したシャツとは違って、お世辞にもおしゃれとはいいがたいけど、清潔感のあるシャツをきちんと着こなしていた。

度の強いメガネを指で押し上げながら、落ち着かない様子で周囲を見渡している。

「サトシさん! ごめんなさい、待たせちゃった?」

いっちゃんが声をかけると、彼は弾かれたように彼女を見た。その瞬間、彼の顔がカッと赤らむのがわかった。彼は一瞬、言葉を失ったようにいっちゃんを凝視したが、すぐに弾かれたように明後日の方角へ視線を逸らしてしまった。

「あ、いえ……私も今来たところ、ではないんですけど。すみません、心配性なのが癖で。……市原さん、その、すごく……」

言葉を濁し、伏せられた視線の先で彼の指先が微かに震えている。

(あれ? 好みじゃなかったのかな。それとも、気合を入れすぎて浮いてる?)

いっちゃんは不安になった。モデルとして、男たちの熱い視線には慣れていた。けれど、こうして「一人の女性」として見られたときの反応には、どうしようもなく臆病になってしまう。

「……あ、レストラン、予約しておきました。行きましょうか」

彼は目を合わせないまま、けれど歩幅をいっちゃんに合わせ歩き出した。


2.琥珀色の時間

彼が選んだのは、大通りから一本入った路地裏にある、落ち着いた雰囲気のこじんまりとしたイタリアン・レストランだった。

店内はオレンジ色の温かな照明に包まれ、静かなジャズが流れている。華やかなレセプションやパーティーに慣れたいっちゃんにとって、その隠れ家のような静寂は、驚くほど心地よく感じられた。

テーブルを挟んで座ると、彼の持つ独特の「凪」のような空気が、いっちゃんの緊張をゆっくりと解きほぐしていった。

彼は饒舌ではない。けれど、いっちゃんが話す一言一言に深く頷き、まるで宝物でも扱うような慈しみを持って耳を傾けていた。

「不思議だわ。サトシさんと話してると、ずっと誰にも言えなかったことが、自然に口から出てきちゃう……」

気づけばいっちゃんは、砂場で跳んでいた少女時代の記憶、そして、あの路地裏で世界が暗転したあの夜のトラウマまで、ポツリポツリと話し始めていた。自分でも驚くほどの無防備さだった。


3.「心」を捉える視線

いっちゃんの話が終わると、彼はゆっくりとメガネを外し、レンズを丁寧に拭いた。その仕草には、彼女の痛みを受け止めるための「間」のような、静かな覚悟が宿っていた。

「私は、目が悪くて……」

彼は、少し困ったように目を細めて話し出した。

「人の細かい見た目とか、表情とか、実はよくわからないんです。市原さんが今、どんな顔をして僕を見ているのかも、実はぼんやりとしか見えていません」

いっちゃんはハッとして、彼の瞳を見つめた。

「でも、何となくなんですけど……、その人が纏っている『雰囲気』というか、心の震えみたいなものは、不思議と感じ取ることがあるんです。……私から見える市原さんは、とても辛い、暗い場所にいた人なのかなぁ、って思ってました」

彼の声は、夜の湖のように深く、穏やかだった。

「でも、市原さんはそこから逃げずに、前を、上を向こうと必死に足掻いている。……それが、私にはすごく素敵に見えます。」

「サトシさん……」

「あ、でも」

彼はそこで、少しだけ悪戯っぽく付け加えた。

「意外と、負けず嫌いで頑固ですよね。さっきの練習の話を聞いていても、やっぱりそう思いました。絶対に自分が納得するまで折れないタイプですよね」

「あはは! ひどい、それ褒めてるの?」

いっちゃんは思わず声を上げて笑った。その笑い声は、喉の奥に詰まっていた重苦しい澱を、すべて吹き飛ばしてくれるようだった。


4.衝撃の真実

これまでの人生で、多くの男たちが彼女を賞賛してきた。

「綺麗だね」「スタイルがいいね」「モデルの君を連れて歩くのは誇らしいよ」

彼らは皆、視覚情報としての「市原いずみ」に恋をしていた。彼女の心の中にどんな地獄があり、どれほどの傷跡が疼いているかなど、想像しようともしなかった。

けれど、目の前のこの青年は違う。

視力が弱い彼は、彼女の美貌というフィルターを通さず、その奥にある「魂の形」を直接捉えていた。それは、彼女の芯に直接突き刺ささる感覚だった。でも、いっちゃんは、それが不快なものではなく、むしろ悦びとなっていた。

見た目に左右されないからこそ、彼は彼女の強さも、脆さも、そして頑固な素顔も、すべて丸ごと肯定してくれたのだ。

(ああ、私、この人に会うために、あの地獄を歩いてきたのかもしれない)

テーブルの下で、いっちゃんは自分の指先をギュッと握りしめた。

彼が見せてくれる優しさは、かつて受けた暴力や屈辱を上書きしていくような、温かな慈雨そのものだった。いっちゃんは、彼との時間が一分一秒でも長く続くことを、心の底から願い始めていた。


第3章:鼓動の残響と、もどかしい距離

1.夜の静寂に溶ける足音

レストランを出ると、夜の空気は心地よい涼しさに包まれていた。ネオンが遠くで瞬き、都会の喧騒が少しだけ遠のいた路地。いっちゃんとサトシは、適度な距離を保ちながら駅とは反対方向、彼女のマンションへと続く道を歩き出していた。

「今日は、本当にありがとうございました。こんなにゆっくり自分のことを話せたの、初めてかもしれません」

いっちゃんが隣の彼を見上げて言うと、彼は少し照れくさそうに、けれど優しく微笑んだ。

「私の方こそ、ありがとうございます。市原さんの大切な話を聞かせてもらえて、嬉しかったです」

彼の歩幅は、相変わらずいっちゃんのそれに合わせてゆっくりとしていた。視力が弱い彼にとって、夜道は昼間以上に神経を使うはずなのに、その足取りにはいっちゃんを安心させるような落ち着きがあった。


2.狭い路地の、予期せぬ衝撃

二人がマンション近くの、街灯が少し心許ない細い路地に入った時のこと。

背後から、低く重いエンジン音が近づいてきた。路地の入り口をヘッドライトの光が白く切り裂き、タイヤがアスリートの耳を刺すような音を立ててアスファルトを削る。

(……っ!)

その瞬間、いっちゃんの脳裏に、あの忌まわしい雨の日の記憶が鮮烈に蘇った。背後から忍び寄る影、逃げ場のない狭い場所、暴力的な音。心臓が早鐘を打ち、全身の血が引いていくような感覚。

身体がすくみ、呼吸が止まりかけたその時、彼女は無意識に隣にいたサトシの身体にしがみついていた。

「……あ、っ!」

ギュッ、と彼の胸元に顔を埋めるように抱きつく。その瞬間、いっちゃんは驚愕していた。

分厚いレンズのメガネの奥に隠された、内向的で控えめな青年のイメージからは想像もつかないような、厚く、逞しい胸板の質感。衣服越しでも伝わってくる腕の筋肉。

(えっ……? サトシさんの身体、こんなに……)

「大丈夫ですか、市原さん」

サトシの声が、彼女の耳元で低く、しかし驚くほど穏やかに響く。彼は無理に抱き返そうとはせず、ただ彼女が落ち着くのを待つように、優しくその場に立ち尽くしていた。


3.守られた境界線

車が通り過ぎ、静寂が戻っても、いっちゃんはしばらく彼の温もりから離れることができなかった。

「すみません、私……急に怖くなっちゃって……」

震える声で謝りながら顔を上げると、サトシは気遣わしげに彼女を覗き込んでいた。

「無理もありません。怖かったですよね。……もう大丈夫ですよ。私がいますから」

その言葉に嘘偽りはないと、彼の身体の安定感が物語っていた。けれど、彼はそれ以上いっちゃんに触れようとはせず、彼女が自分から手を離すと、静かにまた元の距離に戻っていった。

いっちゃんの中に、奇妙な動揺が広がっていた。これまで出会ってきた男たちなら、この隙を逃さず肩を抱き寄せたり、甘い言葉を囁いたりしただろう。でも、サトシは彼女の「震え」を尊重し、彼女の心の境界線を決して侵そうとしなかった。


4.勇気と、予期せぬ拒絶

マンションのエントランスに着いたとき、いっちゃんはまだ心臓がバクバクと言っているのを感じていた。それは恐怖のせいだけではなく、サトシという「男」を、肌で感じてしまったせいだった。

「ここで……失礼します。ゆっくり休んでくださいね」

彼が帰ろうとした時、いっちゃんは自分でも驚くほどの速さで口を開いていた。

「あの!……サトシさん。もしよかったら、私の部屋で……もう少しお話ししませんか?」

誘ってしまった。自分を襲った恐怖を払拭したかったのか、それとも彼のあの逞しい腕にもう一度触れたかったのか。モデルとして、プロレスラーとして、常に強くあろうとしてきた彼女が、初めて自分から一人の男を私的な空間へと招き入れようとしていた。

しかし、彼は困ったように眉を下げ、一瞬だけ視線を泳がせると、静かに首を振った。

「……今日はやめておきます。市原さんは疲れていますし、私が今お部屋にお邪魔するのは、何だか……また、ちゃんとした時にお会いしたいです」

丁寧で、あまりにも誠実な拒絶。

「あ……。そう、ですよね。ごめんなさい、変なこと言って」

いっちゃんは顔が火照るのを感じながら、逃げるようにエントランスの中へと入った。


5.湯気の中の独白

熱いシャワーを浴び、浴槽に身を沈めても、いっちゃんの頭の中は彼のことでいっぱいだった。

自分から誘ったことに、これまでにないほど羞恥心が込み上げてきた。そして何より、彼がそれを断ったという事実が、彼女の心に大きな波紋を広げていた。

「……市原さん、か」

ふと、彼が最後まで自分をそう呼び続けたことに思い至る。「いっちゃん」とも「いずみちゃん」とも呼ばない。

彼は、彼女がどんなに無防備になっても、どんなに誘っても、最後まで彼女を一人の「自立した女性」として、敬意を持って扱い続けていたのだ。

(どうして……? 私はもっと、彼に近づきたいのに。名前を呼んでほしいのに)

サトシの不器用な誠実さは、彼女を守る鎧であると同時に、二人を隔てる透明な壁のようにも感じられた。

「もどかしいな……」

いっちゃんは、お湯を跳ねさせながら小さく呟いた。自分がこれほどまでに、一人の男の「呼び方」一つに戸惑い、一喜一憂している。そのことに戸惑いながらも、彼女の心には、春の芽吹きのような、新しくて温かな感情が確実に根を張っていった。


第4章:ひび割れた硝子と迫り来る影

1.復讐の化身・サキ

女子プロレス界に、凍りつくような戦慄が走っていた。

かつて青堀結衣ユイによって膝を文字通り粉砕され、再起不能とまで囁かれた吉川早紀サキが、地獄の淵から這い上がってきたのである。凄惨なリハビリと、狂気的なトレーニング。その果てにリングへ帰還した彼女は、以前の清々しい正々堂々としたファイティングスタイルを完全に捨て去っていた。

復帰後のサキが選んだ道は、相手の弱点を徹底的に、残酷なまでに蹂躙する「獲物の解体」だった。

先日の試合がその象徴である。対戦相手は、右肩の負傷からようやく復帰したばかりの若手レスラーだった。サキはゴングが鳴るやいなや、相手の右肩一点に狙いを定めた。

マットにねじ伏せ、容赦なくその肩を踏みつける。苦悶に歪む相手の顔など、彼女の目には入っていないようであった。

サキが繰り出すアームロックは、単なる関節技の域を超えていた。肉が引きちぎられるような異音さえ聞こえるほどに絞り上げ、さらに腕を背後に回してのハンマーロックで肩甲骨を限界まで突き上げる。

仕上げは、逃げ場を失った相手へのチキンウィングフェイスロックであった。

「あああああ! やめて、壊れる……!」

絶叫がホールに響き渡り、相手の顔面が屈辱と激痛でどす黒く鬱血していく中、サキは冷徹な眼差しでその肩を破壊し続けた。結局、相手は右腕が一切動かなくなり、再び長期離脱を余儀なくされたのである。今のサキにとって、リングは勝利を競う場所ではなく、自らが受けた絶望を他者に転嫁するための処刑場に過ぎなかった。


2.悲鳴を上げる身体

一方、いっちゃんのコンディションは最悪であった。

華やかな「エメラルド・クイーン」としての輝きの裏で、彼女の肉体は限界に達していた。

それは単なる精神的なトラウマだけが理由ではない。デビュー戦での麻子との死闘、門番・紅からの洗礼、そして二度目の麻子との地獄のデスマッチ。それらの激闘の中で、彼女の細い腰は執拗に、徹底的に狙われ続けてきた。

バックブリーカーで脊椎を逆「く」の字に折られ、キャメルクラッチで顎を吊り上げられながら腰を反らされる日々。その積み重ねが、彼女の脊髄に消えないダメージを刻み込んでいた。

ふとした瞬間に走る、電気のような激痛。朝、ベッドから起き上がることさえ困難な日が増えていた。かつて国体に出場したほどの自慢のバネは影を潜め、ダイナミックな跳躍はもはや過去の遺物となりつつあった。

勝利を掴むことはあっても、そこにはかつてのような「光」はなく、ただ泥沼を這いずるような消耗だけが残っていた。


3.代表の宣告

ある試合の後、いっちゃんは控え室で重い身体を休めていた。

エメラルドグリーンのコスチュームを脱ぎ、薄い肌着一枚になったその時、ノックもなしにドアが乱暴に開かれた。

「……っ!」

いっちゃんは慌ててタオルで自身の身体を隠し、入り口を睨みつけた。そこに立っていたのは、団体の代表だった。彼は、羞恥に震えるいっちゃんの様子など一瞥だにせず、冷酷な言葉を投げかけた。

「次のカードが決まった。相手はサキだ」

いっちゃんの喉が、恐怖でひきつった。今の自分に、あの破壊神と化したサキを止める術があるのだろうか。

「次、負けたら……わかっているな。お前のその『綺麗なだけ』のコスチュームでは、もう客は呼べないんだよ。ファンが求めているのは、お前が惨めに、無残に壊される姿だ」

代表の瞳には、レスラーへの慈悲など微塵もなかった。

「豊田のようにはなるなよ」

去り際に放たれたその言葉が、控え室の冷たい空気の中に重く沈んだ。

敗北の先に待つのは、麻子のように、女としての尊厳をすべて剥ぎ取られ、暗い密室で男たちの視線に晒される「地獄」である。

いっちゃんは、ガタガタと震える手で、自身の肩を強く抱きしめた。

サトシと過ごした温かな時間の記憶が、遠い幻のように感じられる。

ランウェイの先にある、底なしの泥濘。その淵に、彼女は再び立たされていた。


第5章:修羅の螺旋と、不純なる飛翔

1.前夜の深淵

決戦前夜。いっちゃんは、マンションの浴槽で熱い湯に身を沈めていた。

立ち上る湯気の中で、脳裏をよぎるのは、かつての宿敵・麻子が辿った無残な末路や、ユイが身に纏っていた卑猥なまでの露出度の高いコスチュームだった。負ければ次は、自分がその「生贄」になる。その冷酷な真実が、心臓の鼓動を不規則に早めていた。

ふと、自身の「大切な場所」に指先が触れた瞬間、身体に電流のような拒絶反応が走り抜けた。

(……っ!)

ビクッと肩が跳ねる。路地裏で自由を奪われたあの夜のトラウマが、熱い湯の中でも彼女の身体を芯から冷やしていく。震える手で自身の身体を抱きしめる。しかし、その電流の源には、あの日触れたサトシの温かな胸板の感触が、かすかな救いとして残っていた。


2.言霊の魔法

試合当日。控え室の空気は、まるで刃物のように張り詰めていた。

いっちゃんは震える手でエメラルドグリーンのコスチュームを身に纏う。鏡に映る自分の顔は、死を待つ囚人のように青ざめていた。

(怖い。負けたら、すべてが奪われる……)

その時、控え室のドアが控えめにノックされた。サトシであった。

「市原さん。……自分を信じてください」

その静かな、しかし確信に満ちた一言が、彼女の乱れた心拍を魔法のように鎮めていった。

「サトシさん……。ありがとう。今日の試合に勝ったら、また私とデートしてください」

口を突いて出たのは、自身の本心でもあり、生還するための「呪い」のような言葉であった。無意識の告白に自分自身が驚いたが、彼の驚愕した表情を見届ける余裕もなく、彼女は戦場へと向かった。


3.無慈悲な解体

リング中央で対峙したサキの瞳には、かつての光は微塵もなかった。

ゴングが鳴るやいなや、サキは電光石火の速さでいっちゃんの背後を取った。その動きには一点の迷いもない。

いっちゃんは、サキの古傷である膝を攻めることを躊躇した。正々堂々とぶつかり合いたいという、モデル出身ゆえの「綺麗事」を捨てきれずにいたのである。

しかし、サキにそんな甘えは通用しなかった。彼女はいっちゃんの最大の弱点である「腰」を、蛇のように執拗に狙い定めた。

まずは逆エビ固め。サキがいっちゃんの腰に深く膝を押し当て、両脚を強引に引き上げる。

「あ、がぁぁぁーーっ!」

反り繰り返る脊椎が、ミシミシと不快な音を立てる。いっちゃんの指先が、逃げ場を求めてマットを掻きむしった。

続いてサキは、いっちゃんをうつ伏せに固定し、顎を力任せに引き上げるキャメルクラッチに移行した。 喉が圧迫され、酸素が途絶える。腰から脳天へ突き抜ける激痛に、いっちゃんの視界が火花を散らす。

サキの追撃は止まらない。膝の上にいっちゃんの腰を叩きつけるバックブリーカー。さらに、岩のような肩にいっちゃんを担ぎ上げるアルゼンチン・バックブリーカー。

「やめてぇ!!……お願い、壊れちゃう……!」

大量のフラッシュが焚かれる。カメラがとらえているのはいっちゃんの絶叫し、苦悶している表情。

白目を剥き、口端から泡を吹くいっちゃんの姿を、サキは冷徹な眼差しで見下ろしていた。そして最後は、全体重を腰一点に集中させるカナディアン・バックブリーカー。脊髄が一つずつ外れていくような地獄の感覚に、いっちゃんの意識は闇へと沈みかけた。


4.執念の覚醒

(もう、だめ……)

諦めかけたその時、観客席の怒号を突き抜けて、サトシの声が届いたような気がした。

その声はいっちゃんの意識を、泥沼から力ずくで引き戻した。

(私は……デートの約束、したんだから!)

いっちゃんは「綺麗事」を捨てた。

朦朧とする意識の中で、彼女はサキの右膝を死に物狂いで掴んだ。指先がサキの皮膚に食い込む。

「……そこ、だッ!」

いっちゃんは持てる全力を込め、サキの膝を関節の逆方向へと捻り上げた。

「ぎゃあぁぁぁぁっ!!」

今度はサキが絶叫し、悶え苦しんだ。 だがいっちゃんは手を緩めない。サキの膝を、自分の人生を賭けて踏みつけ、ねじ切り、破壊し続ける。


5.終焉の飛翔

お互いの肉体が悲鳴を上げ、視界が血の色に染まる。壮絶な潰し合いが続く。

お互いが絶叫し、苦悶の表情を見せるたびに、多くのフラッシュが焚かれる。それは、技を収めるそれではなかった。時には、顔ではないどこか別の部分を標的にしていることもあった。


いよいよ、二人とも意識が朦朧としてきた。

サキは、膝を抱えて倒れていた。

いっちゃんは震える脚で立ち上がり、フラフラになりながらコーナーポストへと這い上がった。

サキをコーナートップから見下ろす。視線の先には先が抱えている膝があった。

28歳、傷だらけの元アスリートの最終飛翔。

「いっけぇぇぇぇーー!!」

いっちゃんは宙を舞った。エメラルドグリーンの閃光。

それは狙い通り、サキの剥き出しの右膝に直撃した。

ドゴォォォォン!!

衝撃で、いっちゃん自身の肋骨も軋む。サキは絶叫と共に、そのまま気を失って硬直した。

「レフェリーストップ!」

怒涛のようなゴングの音が鳴り響く。

勝ち名乗りを上げられても、いっちゃんはピクリとも動くことができなかった。マットに突っ伏したまま、担架で運ばれていくサキを、虚ろな瞳で見つめることしかできなかった。


6.残酷な勝利

控え室。セコンドに肩を貸され、ようやく椅子に座ったいっちゃんの前に、団体の代表が音もなく現れた。

「勝ったな。だが、まだ崖っぷちであることに変わりはないぞ」

代表はいっちゃんの腫れ上がった瞼を見据え、冷酷に告げた。

「客を呼ぶには、今のままでは足りない。……何か考えないとな」

代表が去った後、いっちゃんは震える手で自身の顔を覆った。

勝利の歓喜などどこにもない。ただ、彼との約束だけが、壊れかけた彼女の魂を繋ぎ止めていた。


第6章:泥濘でいねいの先の薄明

1.喧騒の中の等身大

死闘から数週間。激痛の記憶を日常の忙殺で塗りつぶしながら、いっちゃんは再びサトシと向かい合っていた。場所は、巨大な総合レジャー施設。ボーリングやゲームセンターだけではなく、カラオケやあらゆるスポーツ設備がある。プロレス団体の殺伐とした空気とは無縁の、若者たちの歓声とゲームの電子音が交錯する、眩しいほどの極彩色に満ちた空間であった。

彼は相変わらず、分厚いレンズのメガネを指で押し上げながら、少し所在なさげに立っていた。

「球技は……あまり得意ではないんです。動くものを追うのが難しくて」

申し訳なさそうに零す彼を、いっちゃんは強引にアミューズメントの海へと連れ出した。今日だけは、過酷な「地獄」の住人であることを忘れ、ただの28歳の女性として、彼と笑い合いたかったのである。


2.鋼の腕と、隠された真価

予想通り、テニスやバドミントンではサトシの空振りは続いた。距離感が掴めないのか、ラケットは虚しく空を切る。しかし、ピッチングゲームの「ストラックアウト」に立った瞬間、彼の空気が一変した。

サトシがボールを握り、マウンドの白いラインに足をかけた。その瞬間、いっちゃんは息を呑んだ。

唸りを上げて放たれた一球。それは、内向的な彼の性格からは想像もつかないような、地を這う豪速球であった。

ドォォン!!

「これならできるかも。決まった標的なら、身体の感覚でわかります」

重低音と共に、標的のパネルが次々と射抜かれていく。

「すご……!」

いっちゃんは思わず声を上げた。彼は運動神経が悪いのではない。ただ、その強大な力を振るう術を、日常の謙虚さの中に隠しているだけだったのである。

いっちゃんもまた、負けじとマウンドに立った。元陸上選手のバネ、そしてレスラーとしての体幹。彼女が放つ一球もまた、鋭い弧を描いてパネルを射抜いた。

「お互い、全然『普通』じゃないね」

そう言って笑い合う二人の間には、いつしか自然な身体の接触が生まれていた。汗を拭くために渡したタオルの上で、指先が触れ合う。ハイタッチを交わす際の手のひらの熱。その一つひとつが、いっちゃんの冷え切っていた心を、穏やかに溶かしていった。


3.鏡の中の「春」

化粧室の鏡の前で、いっちゃんは火照った頬を冷やしていた。

乱れた前髪を直し、メイクの崩れをチェックする。そこには、数週間前まで絶望に震えていた女性の姿はなかった。瞳には潤いがあり、表情には生命力が宿っている。

(私……今、すごく『女の子』の顔をしてる)

この感情は、いつぶりだろうか。かつての男たちが求めてきた「市原いずみ」を演じるのではない、ありのままの自分。サトシという静かな存在が、彼女の中に眠っていた純粋な心を、ゆっくりと呼び覚ましていた。


4.宵闇よいやみの告白

夜になり、二人は川岸の遊歩道を歩いていた。対岸には、夜空を突き刺すようにそびえ立つ日本一高いタワーが、鮮やかな光を放っている。水面に反射する光が、ゆらゆらと揺れ、二人の歩みを優しく包んでいた。

「サトシさん」

いっちゃんは立ち止まった。胸の奥が、熱く脈打っている。今、言わなければ、再び自分は戦場という名の孤独な闇に引き戻されてしまう。そんな予感が彼女を動かした。

「……私と、もっと一緒にいてほしい。仕事のときだけじゃなくて、一人の女性として、あなたと向き合いたい」

勇気を振り絞った言葉。しかし、彼はすぐには答えなかった。彼はメガネを外し、視界のぼやけた夜の川を、寂しげに見つめた。

「……私は、目が悪いんです。誰かを助けることも、守ることもできない。自信もなくて……自分のような人間が、市原さんの隣にいるのは、相応しくないと思うんです」

その言葉は、彼がこれまでの人生で抱えてきた、静かな絶望そのものだった。

いっちゃんは、何も言わずに彼に抱きついた。先ほど感じた、胸板の温もり。逞しい腕。けれど、その内側で震えている、脆くて繊細な魂。

「……それでも良い。弱くて良い。……私と一緒にいてくれるだけで、それだけで良いの」

耳元で囁く言葉に、いっちゃんはありったけの祈りを込めた。地獄のリングで誰よりも強さを求められ、壊され続けてきたいっちゃんにとって、彼のその「弱さ」こそが、何よりも信頼できる光であった。

サトシは、しばらく沈黙した後、いっちゃんの背中にゆっくりと腕を回した。そして、消え入るような声で、静かに頷いたのだった。

タワーの光が、二人の影を長く伸ばしていた。


5.ほどけた呪縛

のちに分かったことだが、サトシはこれまで女性と交際した経験が一度もなかった。

女性と話をすること自体、彼にとっては未知の恐怖であり、だからこそ、いっちゃんのことを「市原さん」と呼び続け、一定の距離を保つことで自分を守っていたのだという。

「初めてのデートの時……。いずみさんの私服姿を見たとき、あまりにも素敵で、どうして良いか分からなかったんです。直視することさえ、怖くて」

自室のベッドで横になる。スマーフォンの画面に映る彼との写真。

彼がぽつりと零した告白に、いっちゃんの顔は自然と綻んだ。

(私に、春が来たのかな)


ランウェイの先にあったのは、底なしの地獄だけではなかった。

泥濘を這いずり回った果てに、ようやく掴み取った、ささやかで温かな救い。

28歳。市原いずみ。

彼女の本当の戦いは、ここから始まる。愛する者を守るため、そして、守られる自分を許すための戦いが。

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