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水平線のグラデーション ー光の射す地獄、影の落ちる天国ー  作者: いつろう


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3/3

3 慈悲という名の断罪、傲慢なエメラルド

はじめまして(お読みいただく前のお願い)

数ある作品の中から、このページを開いてくださり、本当にありがとうございます。

初めて「小説家になろう」に投稿させていただきます。右も左もわからない初心者で、操作一つひとつに緊張していますが、ずっと自分の中で温めてきた物語を形にしたくて、執筆を始めました。

不慣れなため、読みづらい点などあるかと思いますが、精一杯書き進めていきたいと思っています。


閲覧にあたっての注意点

本作は、絶望の淵に立たされた主人公の再生を描く物語ですが、テーマの性質上、以下のような描写が含まれます。

• 過去の辛い経験(性被害など)に関する回想や、心の葛藤

• 女子プロレスの試合等における、激しい痛みや流血、怪我の描写

• 精神的に追い詰められるような重いシーン

これらは犯罪や暴力を肯定する意図は一切ございませんが、読む方によっては強いショックを感じたり、お気持ちが沈んでしまう可能性があるかもしれません。

もし「少しでも辛いな」と感じた時は、無理をせず、すぐに閲覧をお控えください。


作品のテーマと設定について

• 本作はR15設定および**「残酷な描写あり」**の設定にしています。

• 物語の根底には**「被害者と加害者の境界線はグラデーションである」**という考えがあります。誰しもがどちらの立場にもなり得るという人間の多面性や、その果てに辿り着くそれぞれの場所を描きたいと思っています。

• 登場する人物や団体はすべて架空のものです。


執筆環境について(AIの使用明示)

本作は、執筆の補助として生成AI(AIアシスタント)をパートナーとして活用しています。

私自身、視覚障害や難聴といった体調面での制約があり、長い文章を一人で整えることが難しい場面があります。そのため、私が考えたプロットや言葉、込めた想いをAIに伝え、表現の肉付けや文章の整理を相談しながら原稿を作り上げています。

物語の核心はすべて私自身の経験や想いから生まれたものですが、AIという最新の補助具を借りて表現していることをご理解いただけますと幸いです。


感想・評価などの受付について

本作では、感想、評価、レビューの受付をすべて停止させていただいております。

まずは自分自身の心身を整えつつ、自分のペースでこの物語を最後まで書き抜くこと、そして一つひとつの言葉を大切に紡ぐことに集中したいと考えております。あたたかく見守っていただけますと幸いです。

更新は少しずつになるかもしれませんが、この物語がどこかの誰かの心に、微かな光として届くことを願っています。どうぞよろしくお願いいたします。

プロローグ:代償の天秤

試合後の控室は、いつも独特の停滞した空気に満ちている。鼻を突くのは、汗と、古びた湿布と、そしてわずかに混じり合う鉄のような血の匂いだ。いっちゃんはベンチに深く腰を下ろし、試合の熱気が冷めやらぬ身体を無理やり休ませていた。タオルを被り、荒い呼吸を整えようとしていたその時、薄い鉄製のドアが、暴力的なまでの勢いで蹴り開けられた。

「次の対戦相手が決まったぞ」

入ってきたのは、所属団体の代表だった。彼はねぎらいの言葉一つかけず、ドサリといっちゃんの膝の上に一枚の興行ポスターを投げ置いた。いっちゃんは震える指先で、その紙を手に取る。

『崖っぷち、人生をかけた究極の代償マッチ』

赤黒い毒々しい文字の下に写っていたのは、かつて「他業界からの転身組」として、いっちゃんと並び称された元人気アイドルのレスラー、「豊田麻子」だった。けれど、そこに写っている麻子の姿に、いっちゃんは言葉を失った。以前の、どこか幼さを残した可憐な雰囲気は跡形もない。身に纏っているのは、衣装というよりは、女の尊厳をあからさまに挑発するような、卑猥で無機質な布切れに過ぎなかった。

(これが……本当に麻子ちゃんなの?)

「条件はこうだ。市原、お前が負けたらモデルを引退しろ。事務所との契約も即時解除だ。お前の戻る場所を、根こそぎ焼き払ってやる」

代表の声は、感情を排したビジネスライクな響きで、狭い控室に反響した。

「モデルもプロレスも、どちらも中途半端なんじゃないか? どっちつかずのまま、いつまでも『お嬢様』でいられると思うなよ」

いっちゃんは、何も言い返せなかった。図星を突かれた衝撃で、肺から酸素が逃げていく。

「……っ、そんな……」

「だが、そんな土俵際で勝利してみせろ。そうすれば、モデルのオファーも、失いかけた輝きも、すべてお前の元に戻ってくる。……だが、お前の代償なんて、向こうに比べれば可愛いもんだぞ」

代表は唇の端を歪め、死刑宣告を告げるかのような調子で続けた。

「豊田が負けた場合は、さらに厳しい。彼女はすでに、AVへの出演契約にサインしている。負ければ、その足で撮影現場行きだ」

いっちゃんの思考が、真っ白に塗りつぶされた。麻子。自分と同じように、別の世界で光を浴びていたはずの女性。その彼女に突きつけられたのは、人としての、女としての尊厳そのものを生贄に捧げる、あまりに非道な、逃げ場のない契約だった。

「断ればいい、と思うか? だがな、試合を見ている観客は、もうお前の『綺麗な笑顔』だけじゃ満足しないんだ。お前が絶望し、汗にまみれ、それでも這いつくばって、誰かの人生を地獄へ突き落としてでも勝ちに行く姿……それを見たいんだよ」

代表はそれだけを言い残し、冷たい足音を響かせて去っていった。一人残されたいっちゃんは、無意識のうちに自分の太腿を強く掴んでいた。エメラルドグリーンのコスチュームの下、かつて紅に踏みにじられたあの痣が、今も消えずにどす黒く、鈍い痛みを訴えている。

(モデルに戻るための、自分を取り戻すためのプロレスだったはずなのに……。負ければ、モデルですらなくなる)

いっちゃんは、割れた爪を手のひらに深く食い込ませ、声にならない悲鳴を喉の奥で押し殺した。次のリングは、単なる勝負ではない。

「自分を守る」ために、「相手を奈落へ突き落とす」儀式。その重すぎる天秤が、彼女の目の前で、不気味に揺れ始めていた。


第1章:煉獄(れんごく)の誓い

1. 悪意のフラッシュ

試合前日の記者会見場。天井の低い地下ホールは、焚き続けられる無数のフラッシュによって、不規則に白一色の世界へと塗りつぶされていた。その光の明滅は、これから始まる惨劇を予感させる不吉な予兆のようでもあった。

「ファンの皆さーん、麻子です! 今回はとっても特別な試合になります。私の再出発、しっかり見守ってくださいね!」

隣に座る麻子は、テレビカメラに向かって完璧なアイドルスマイルを振りまいていた。その表情、声のトーン。それはかつてモデルのいっちゃんが鏡の前で幾度となく練習した、隙のない「仮面」そのものだった。


けれど、机の下で起きていることは、その華やかさとは完全に対極にあった。

「……っ」

麻子の細いヒールの先が、いっちゃんのサンダルを執拗に踏みつけ、骨が軋むほどの力でグリグリと踏みにじっていた。逃げ場のない激痛にいっちゃんが頬をこわばらせると、麻子はカメラへ向けた笑顔を一切崩さないまま、マイクに乗らないほど低く、ねっとりとした声を漏らした。

「……目障りなのよ、おばさんモデル。あんたのその綺麗な顔、明日で終わりね」


さらに会見の合間、トイレに立ったいっちゃんを待ち伏せていた麻子の狂気は、さらに牙を剥いた。麻子はすれ違いざま、手にしていた熱いコーヒーをわざといっちゃんの白い腕にこぼしたのだ。

「あ、ごめんなさーい! 手が滑っちゃった。でも、明日の痛みからすれば、これくらい『予行練習』でしょ?」

赤く腫れ上がっていく腕を抑えながら、いっちゃんは何も言い返せなかった。謝罪の言葉を口にする麻子の瞳には、かつての輝きはなく、ただ「負ければ終わり」という逃げ場のない狂気だけが宿っていたからだ。


2. 決戦の朝、震える指先

試合当日。午前6時。 都内マンションの寝室に差し込む朝の光は、冬の冷気を孕んで刺すように鋭かった。いっちゃんは重い瞼を開け、鉄のように動かない身体をゆっくりと起こした。背中には、以前の紅との激闘で刻まれた傷跡がまだ疼き、全身が鉛のように重い。キッチンで一杯の白湯を飲み、鏡の前に立つと、そこには数ヶ月前までの華やかなモデルの面影はどこにもなかった。


クローゼットから、修復されたエメラルドグリーンのコスチュームを取り出す。指先でスパンコールの冷たい感触を確かめると、それがまるで戦場へ向かう騎士の鎧のように思えた。

(私が勝てば、あの子は……AVに出ることになる)

その残酷な事実に、胃のあたりが重く沈む。同じ表現者として、その絶望は想像を絶するものだ。だが、自分が負ければ、モデルという唯一の「光」を失う。

(ごめんね、麻子ちゃん。でも、私ももう、あの日の自分には戻りたくないの)

会場へ向かう電車の中、周囲の乗客たちは何気なくスマホの画面を眺めている。この数時間後、自分たちがどのような泥沼に身を投じることになるのか、誰も知るはずがない。控え室に到着し、コスチュームに袖を通すと、肌を締め付ける布の感覚がいっちゃんを「レスラー・市原いずみ」へと変えていった。


3. 狂気のランウェイ

「第1試合――!」 入場曲がいっちゃんの背中を、地獄へと押し出す。花道を進む彼女を待っていたのは、怒号と期待が入り混じった、卑俗な熱気だった。リングに上がると、そこにはすでに「狂気」を纏った麻子が待ち構えていた。麻子は不敵な笑みを浮かべ、いっちゃんがコーナーでポーズをとる一瞬を狙って、隠し持っていた画鋲を投げつけた。

「あっ……!」

足に走る鋭い痛み。だが、いっちゃんはそれを決して顔に出さなかった。ここはもう、安っぽい涙を見せるためのステージではないのだ。


リング中央でマイクを握った麻子の声が、会場に響き渡る。

「おーい、いっちゃん! 聞いてる? あんた、モデル引退してどうするの? 体売る才能もなさそうだし、金持ちの愛人にでもなるわけ? あ、トラウマがあるんだっけ? 男が怖いんだもんねぇ! だったら、惨めに一生引きこもってなさいよ!」

浴びせられる下品な野次。麻子の言葉は、いっちゃんの古傷を抉るように、どこまでも残酷に研ぎ澄まされていた。

「私はあんたを地獄に送って、またアイドルの頂点に返り咲く。あんたはそのための生贄なのよ!」


いっちゃんは震える手でマイクを口元に寄せた。視界が熱くなるのを感じる。麻子の必死さ、そして自分自身の恐怖。そのすべてを飲み込む覚悟が必要だった。

「……麻子ちゃん。あなたは、自分の人生を賭けてここに立ってる。私のモデル引退なんて、あなたの覚悟に比べたら、まだ『逃げ道』があると思ってた」

いっちゃんは観客席を、そして冷酷に自分を見下ろす運営席を、真っ直ぐに見据えた。

「今の条件じゃ不公平だわ。……いいわよ。もし、私が今日この試合に負けたら、私もモデルを引退して、あなたと同じ……AV出演の契約にサインします」


一瞬の、静寂。次の瞬間、会場は地鳴りのような歓声と驚愕の叫びに包まれた。隣で勝ち誇っていた麻子の顔が、驚きと戦慄で白く強張る。

「は……? 何言ってんのよ、あんた、正気……?」

「正気よ。私も全部捨てる。逃げ道なんていらない。……さあ、始めましょう」


いっちゃんがマイクを放り投げ、鋭い視線で麻子を射抜く。激しいゴングの音が鳴り響いた。それは、二人の女が自らの「尊厳」をチップとしてテーブルに積み上げた、真の地獄の始まりだった。


第2章:散り際の硝子細工

1.恥辱の檻

試合開始を告げるゴングが、耳の奥で不吉な予鐘のように鳴り響いた。直後、主導権を握ったのは「狂気」を剥き出しにした麻子だった。

「どうしたの? 覚悟を決めた割には、体が動いてないじゃない!」

麻子の打撃は、アイドル時代のダンスで培われたしなやかさを土台にしながら、今は「負ければ終わり」という逃げ場のない恐怖が、それを鋭く、殺傷能力の高い凶器へと変貌させていた。いっちゃんは防戦一方となり、リング中央の冷たいマットに強引に組み伏せられた。

「いいもの見せてあげる。ファンが一番喜ぶやつよ!」

麻子はいっちゃんの細い身体を軽々と反転させ、頭をマットに押しつけたまま、無慈悲に腰を持ち上げた。そのまま、抵抗するいっちゃんの両足を、左右に大きく広げたのだ。

「や、めて……!」

無理やり開脚させられ、股関節が悲鳴を上げる。それ以上に彼女を打ちのめしたのは、会場を埋め尽くした観客の、粘りつくような無数の視線とレンズの砲列だった。女性としての、そしてトップモデルとしての尊厳が、一秒ごとに鉋で削り取られていく感覚。いっちゃんの顔面は、怒りと羞恥で鮮血のような赤に染まった。必死に顔を覆おうとするが、麻子はその腕さえも強引に引き剥がし、彼女の恥部を晒し者にする。

「いい顔よ、いっちゃん! 明日からの『撮影』の練習にぴったりじゃない!」

観客席から上がる、卑猥で容赦のない野次。麻子はその様子に陶酔したように頬を紅潮させ、勝利を確信した高笑いを上げた。その瞳には、かつて同じ「光」を求めた者への敬意など、微塵も残っていなかった。


2.一瞬の隙、逆転のバネ

だが、その慢心こそが、麻子の綻びとなった。

「満足……?」

いっちゃんが、砂を噛むような掠れた声で呟く。麻子が「え?」と力を緩めた、その一瞬の空白をいっちゃんは逃さなかった。

(跳べ……私の、脚……!)

いっちゃんは元陸上選手の爆発的な脚力を、一点に集中させた。腹の底から湧き上がる衝動とともに、麻子の胸元を力強く蹴り上げる。拘束が強引に引き剥がされ、いっちゃんは弾かれたように跳ね起きた。

「……プロレスは、見せ物じゃない。戦いなのよ!」

立ち上がったいっちゃんの瞳に、これまでの迷いは霧散していた。しなやかな体躯を獣のように躍動させ、走り幅跳びの助走そのままの加速で放たれたドロップキックが、麻子の顎を真っ正面から捉えた。衝撃で麻子の身体が宙に浮く。畳みかけるように、いっちゃんは腰の激痛を気力だけでねじ伏せ、麻子をコーナーへ追い詰めて、剥き出しのエルボーを何度も何度も叩き込んだ。

「嘘、なんで……あんなにボロボロだったのに!」

麻子の顔から余裕が消え、代わってどす黒い恐怖が這い上がってくる。いっちゃんは麻子の細い腕を搦め取り、一本背負いの要領でマットへ叩きつけると、そのまま容赦ない絞め技へと移行した。麻子の肺から酸素を奪い、その生存本能さえもじわじわと削り取っていった。


3.砕け散った「綺麗事」

「……殺してやる。殺してでも勝つ……!」

窮地に陥った麻子の表情は、もはや人間の尊厳を捨て去った、追い詰められた獣のそれだった。いっちゃんがトドメの一撃を食らわそうと、麻子の髪を掴んで引き起こした、その瞬間。麻子はレフェリーの死角を突き、コスチュームの隙間に隠し持っていた厚いガラス瓶を電光石火の速さで抜き取った。

「落ちなさいよぉぉ!!」

ガシャァァァン!!

耳を劈くような鈍い破裂音。次の瞬間、緑色の破片がキラキラと残酷にリングを舞った。 いっちゃんの脳天で、ガラス瓶が無惨に砕け散ったのだ。

「あ……、が……っ」

直後、熱い液体が額を伝い、いっちゃんの視界をドス黒く遮るように流れ落ちた。まばゆいエメラルドグリーンのコスチュームが、瞬く間にどす黒い赤に染まっていく。鉄の匂いがいっちゃんの意識を支配する。

「ははは! 綺麗な顔が台無しね!」

血の匂いと惨劇の光景に興奮を極めた麻子は、ふらつく意識の中で立ち尽くすいっちゃんを、トップロープ越しに場外へと、突き飛ばすように放り出した。


4.地獄の客席エリア

ドサッ! という、生命の重さを感じさせない鈍い音が、硬い床に響いた。麻子はいっちゃんの髪を掴んで無理やり引きずり回し、観客が悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う、客席エリアへと雪崩れ込んだ。

「さあ、ここがお前のランウェイよ!」

麻子は周囲のパイプ椅子をなぎ倒し、いっちゃんの無防備な身体を鉄製の座席へと叩きつけた。折り重なった椅子の冷たい感触と、いっちゃんの身体がぶつかり、ガシャガシャと耳障りな金属音がホールに反響する。

「ひ……う、あ……」

いっちゃんは瓦礫のような椅子と鉄屑の中で、血まみれになって震えていた。意識は朦朧とし、もはやどこが痛いのかさえ判然としない。ただ、頬を撫でる冷たいコンクリートの感触と、自分を屠ろうとする麻子の狂ったような笑い声だけが、遠い世界の出来事のように聞こえていた。

流血、乱闘。そして、逃げ場のない絶望。リングから遠く離れた客席の隅で、いっちゃんはまさに、彼女の二十八年の人生で最大の「地獄」の淵に、独り立たされていた。


第3章:泥濘でいねいの走馬灯

1.無慈悲な連鎖

場外はもはや、スポーツとしての体をなした試合会場ではなかった。そこにあるのは、剥き出しの殺意が支配する一方的な処刑場だった。狂気の色を一段と深めた麻子は、倒れているいっちゃんを嘲笑うように見下ろすと、近くにあった重量のある機材ケースを両手で持ち上げた。そのまま、いっちゃんの傷だらけの背中へと容赦なく叩きつける。

「がはっ……!」

鈍い衝撃が脊髄を突き抜け、いっちゃんは悲鳴を上げることさえできず、肺の中の空気をすべて吐き出した。麻子はその身体を執拗に実況席へと引きずり戻。

「ほら、しゃべりなさいよ! 泣き言でも、命乞いでもいいからさ!」

麻子は実況用の太いマイクコードを力任せに掴み取ると、抵抗する力も残っていないいっちゃんの細い喉に、蛇が絡みつくように幾重にも巻き付けた。


背後から強引に膝を押し付けられ、ゴム製のコードがいっちゃんの皮膚に深く食い込んでいく。酸素を完全に遮断されたいっちゃんの顔面は、瞬く間に赤紫に鬱血し、眼球が飛び出しそうなほどの圧迫感に襲われた。

「モデルの綺麗な喉が潰れる音……最高に気持ちいいわ!」

麻子の残酷な嘲笑が、遠のいていく意識の中で響く。レフェリーのカウントが十五を数えたとき、麻子はダブル失格によって地獄への契約が履行されるのを恐れ、いっちゃんをゴミのように床へ投げ捨てた。麻子はそのまま、勝ち誇った足取りでリングへと戻っていった。


2.走馬灯と、最悪の空想

冷たいコンクリートの床に転がったまま、いっちゃんの意識は底のない闇へと沈んでいった。朦朧とした意識の淵で、過去の断片が走馬灯のように、色彩を欠いた映像となって駆け巡る。走り幅跳びの助走、砂場に飛び込む瞬間のあの重力から解放された浮遊感。国体での挫折、希望を打ち砕いた大怪我。そして、すべての元凶となったあの雨の日の路地裏。自由を奪われ、冷たいレンズの前で絶望に震えたあの夜の記憶。

(ああ……私、また負けるんだ。あの日と同じように、また誰かに壊されるんだ……)


その瞬間、不意に脳裏をよぎったのは、単なる過去の再生ではなく、現実となる可能性を持った「最悪の未来」のビジョンだった。負けた後の自分。

冷たい無機質な照明の下、何人もの見知らぬ男たちに囲まれ、屈辱的な行為を強要されている無力な姿。カメラのレンズが、今の麻子のように自分を蔑み、好奇の視線で嘲笑っている。その映像は、麻子が振るうどんな凶器よりも鋭く、いっちゃんの心をズタズタに引き裂き、魂を凍りつかせた。


3.記憶の雫

(もう、いいかな……。痛いよ……。もう、立てない……)

すべてを諦め、安らかな闇に身を委ねようとしたその時、モノクロの記憶の中に一点だけ、あり得ないほど鮮やかな色彩が差し込んだ。それはモデル時代、ある華やかなファッションショーが幕を閉じた直後の出来事だった 。

「お姉ちゃん!」

出入り口で待っていた、一人の小さな女の子。その子の髪には、いっちゃんが先ほどまでランウェイで着ていたエメラルドグリーンのドレスと同じ色の、透き通るようなリボンが結ばれていた。

「お姉ちゃん、とってもキラキラしてた。私、お姉ちゃんを見て、病気の手術、頑張ることに決めたよ。……元気をくれて、ありがとう」

その子の小さく、温かい手の感触。自分はただ、美しく着飾って歩いただけだと思っていた。けれど、その姿が確かに、見知らぬ誰かの生きるための「勇気」になっていたのだ。

(……そうだ。私は、誰かの光になりたくて、ここに立ってたんだ)


4.覚醒、血塗られた帰還

「……十八!」

「……十九……!」

会場が絶望的なカウントに包まれる中、ピクリとも動かなかったいっちゃんの指先が、力強く、激しくコンクリートを掻いた。額から流れる血が目に入り、視界は真っ赤に染まっている。それでも、彼女は震える腕で鉄柵を掴み、泥と血にまみれた身体を必死に引きずり出した。

(負けられない……。私の人生を、誰かの勇気を……汚させてたまるもんか!)

「あ……あぁぁぁぁぁ!!」

魂を絞り出すような絶叫とともに、いっちゃんはマットへ這い上がった。

カウント19。滑り込むようにリングへ戻った彼女の姿に、会場全体から地鳴りのような「いっちゃん」コールが巻き起こる。勝ち誇っていた麻子の顔が、驚愕と、そして理解不能なものへの戦慄で歪んだ。

「嘘でしょ……!? なんで、なんで立ってるのよ、この化け物!!」

ふらつきながらも立ち上がったいっちゃんは、口内に溜まった血を吐き捨て、麻子を真っ向から見据えた。その瞳には、もはや恐怖も迷いもない。ただ、一人のプロレスラーとしての、凄まじいまでの「生」の執念だけが燃え盛っていた。

第4章:奈落の果ての3カウント

1.蹂躙のパレード

リングに生還したいっちゃんを待っていたのは、安堵の声ではなく、逃げ場のない追撃だった。

「死に損ないが! さっさと地獄に落ちなさいよ!」

狂気と焦燥に突き動かされた麻子は、いっちゃんの流血した頭部を狙い澄まし、容赦のない拳を何度も叩きつけた。傷口が開き、鮮血が再びエメラルドグリーンのコスチュームを汚していく。麻子はさらに、いっちゃんの細い肢体を執拗に極め、観客の歪んだ好奇の目にその無防備な姿を晒し続けた。


続いて放たれたのは、脊髄を軋ませる非情なバックブリーカーだった。麻子の硬い膝がいっちゃんの腰に食い込み、身体が逆「く」の字に折れ曲がる。

「あ、が……あぁぁぁぁっ!」

激痛にのたうち回るいっちゃん。だが、麻子の手は止まらない。かつて紅がいっちゃんを葬り去った「地獄の再現」――キャメルクラッチで、彼女の細い顎を力任せに吊り上げた。

「見てなさいよ! これが元モデルの、無惨な末路よ!」

麻子は悶え苦しむいっちゃんの顔を、誇示するように観客席へ向けさせる。何度もフォールされるが、そのたびにいっちゃんは折れそうな腕でマットを叩き、あるいは無意識にロープへ足をかけ、薄氷の差で死線を越え続けた。


2.狂気の綻び

しかし、時計の針は残酷に回り続け、試合はすでに三十分を超えていた。 麻子の呼吸が、目に見えて荒くなっていく。一撃を放つごとにその肩は大きく揺れ、完璧だったはずのアイドルスマイルは、もはや見る影もなく崩れていた。先に恐怖に飲み込まれたのは、攻め続けていた麻子の方だった。目の前にいる、血まみれになりながらも何度でも、何度でも立ち上がってくるこの「化け物」は何なのか。自分の人生を、尊厳を奪いに来るこの死神は何なのだ。


麻子がトドメの投げ技を狙い、最後の手応えを求めて強引にいっちゃんの腰を抱え上げた、その瞬間だった。

(今……!)

いっちゃんの、血に染まった腫れ上がった瞼の奥で、瞳が一点を鋭く射抜いた。それは、獲物を捉えた獣の光だった。


3.自爆覚悟の最終飛翔

いっちゃんは残された最後の気力を爆発させ、麻子の身体を突き飛ばした。よろめく麻子を置き去りにし、彼女は震える脚でコーナーポストへと駆け上がる。一段、また一段。それは天国へ続く階段ではなく、地獄の深淵へと飛び込むための助走路だった。


二十八歳、傷だらけの元アスリート。彼女が狙ったのは、練習でも成功率が極めて低く、失敗すれば自らの首や背骨を粉砕しかねない、超高角度のムーンサルト・プレスだった。

「いっけぇぇぇぇーー!!」

魂を削り出すような叫びとともに、エメラルドグリーンの閃光が宙を舞った。空中で描かれた完璧な放物線。それは、麻子の腹部を、そしていっちゃん自身の身体をも等しく破壊する衝撃を伴って、無慈悲にマットへ叩きつけられた。

ドゴォォォォン!!

鈍く重い衝撃音が、ホールの壁を震わせた。

「……っ!!」

二人とも、悲鳴すら上げられない。いっちゃんの意識は白く飛びかけ、自分の肋骨が軋む不吉な音が耳に届く。内臓を突き上げるような衝撃に、麻子は胃液を吐き出しながら白目を剥き、その場で硬直した。


4.魂の3カウント

静寂が、リングを支配した。二人の女が、物言わぬ死体のように重なり合って動かない。レフェリーも、観客も、その場にいる全員が呼吸を忘れ、ただその光景を注視していた。

(動け……動け、私……!)

いっちゃんは、もはや感覚の失せた腕を、底なしの泥沼から引き抜くような思いで動かした。それを、ゆっくりと、麻子の身体の上に乗せる。もはや意識はそこにない。ただ、あの日見たエメラルドのリボンの少女の笑顔と、二度と汚されたくない自分の誇りだけが、その腕を動かす唯一の燃料だった。

「ワン……!」

会場全体が、一つになった拍動のように時を刻む。

「ツー……!」

麻子の指先が、微かにピクリと動いた。だが、運命を覆す力は、もう彼女には残っていなかった。

「……スリー!!」

カン、カン、カン、カン、カン……!!


怒涛のようなゴングの音が、いっちゃんの勝利を告げた。その瞬間、いっちゃんは麻子の身体の上に、力尽きて崩れ落ちた。モデルの引退を回避し、そして――対戦相手を引き返せない地獄へ突き落とした、あまりにも重く、あまりにも残酷な勝利だった。


歓声と、そしてどこか冷ややかな沈黙が混ざり合う中、血まみれのエメラルド・クイーンは、二度と戻らない「清らかな日々」と引き換えに、プロレスラーとしての真の産声を上げたのだった。


第5章:硝子のランウェイ、血の勲章

1.終焉の静寂

狂乱のゴングが鳴り止んだ直後のリングを支配したのは、地鳴りのような歓声でも、勝者を称える拍手でもなかった。それは、二人の女が人生そのものを削り合って辿り着いた、あまりにも重苦しく冷たい、終焉の静寂だった。


いっちゃんは、麻子の身体の上に覆いかぶさったまま、長い間ピクリとも動くことができなかった。レフェリーに強引に腕を掲げられても、彼女の四肢は糸の切れた人形のように力なく垂れ下がっている。ようやく混濁した意識が戻り、自分が「勝者」であることを理解したとき、腕の中にあったはずの麻子の感触は、すでに消えていた。


リングの下では、冷徹な空気を纏った黒いスーツの男たちが、泣き叫び暴れる麻子を両脇から強引に抱え込み、引きずるようにして暗闇へと連れ去っていく。

「嫌だ! 嘘よ、放して! お願い、もう一回、もう一回だけチャンスを……!!」

かつてのトップアイドルの絶叫は、観客たちの無慈悲な怒号と、皮肉にも勝者を称えるまばらな拍手にかき消されていった。彼女が向かう先は、華やかなステージではない。数時間後には、自分の身体を、尊厳を、すべての未来を売り渡す「地獄」が待つ密室だ。

いっちゃんはその光景を、血の混じった涙のカーテン越しに見つめるしかなかった。

(私が……あの子の人生を、木っ端微塵に壊したんだ)

その重みは、全身に負ったどの裂傷よりも深く、いっちゃんの魂の奥底に消えない刻印として刻まれた。


2.再生の瞬き

季節は巡り、都内の一角にある撮影スタジオ。天井の高いその空間では、かつてと同じように無数のフラッシュが焚かれ、そのたびにモデルの輪郭が白く浮かび上がる。レンズの前に立っているのは、市原いずみ。いっちゃんだ。

「いっちゃん、いいよ! その表情、最高だ。今までになかった凄みがある!」

カメラマンの熱を帯びた賞賛が響く。彼女の背中やしなやかな腕には、あの日の激闘を物語る傷跡が、今もかすかな隆起となって残っていた。厚いメイクでも隠しきれない、戦いの痕跡。しかし、かつて「傷」を嫌ったクライアントや編集者たちは、今やその痕跡さえも、今の彼女にしか出せない「深み」や「魂の強さ」として、熱狂的に受け入れていた。


そこにいるのは、以前のような、ただ可憐で無知な「いっちゃん」ではない。地獄の底を這い、他人の人生を背負い、それでも自らの足で立ち続けることを選んだ、一人の孤独な表現者の顔。撮影の休憩中、彼女はふと手に取ったスマホの画面で、ネットニュースの片隅を眺めた。そこには、ある「新作映像」のリリースを告げる、あまりに無機質で卑猥な告知が踊っていた。虚ろな瞳で、何も映さないカメラをただ見つめる「元アイドル」の姿。いっちゃんは何も言わず、静かにスマホを閉じると、スタジオの窓から見えるどこまでも高い青空を、ただじっと仰いだ。


エピローグ:エメラルドの決意

その夜、いっちゃんは再び、後楽園ホールのリングサイドに立っていた。 モデルとしての日常は、以前よりもずっと順調に回り始めている。 けれど、彼女の魂の半分は、今もこの血と汗と、むせ返るような鉄の匂いがする場所に取り残されたままだった。

「戻ってきたか、モデル」

背後から聞こえた、氷のように冷たく、けれどどこか重みのある声。振り返ると、そこにはあの女子プロレス界の「鬼」・紅が、腕を組んで立っていた。紅はいっちゃんの顔に残ったわずかな傷跡を、どこか満足げな、同志を認めるような瞳で見つめる。

「いい面構えになったな。……次の相手、私でいいか?」

いっちゃんは、かつての怯えたような、その場しのぎの笑顔を見せることはなかった。 腫れの引いた美しい、しかし何者も寄せ付けないほど鋭い瞳で紅を真っ向から見据え、静かに、重厚に頷いた。

「ええ。……次は、負けませんから」

彼女はもう知っている。このランウェイの先には、常に底なしの地獄が口を開けて待っていることを。けれど、その地獄を知った者だけが、その闇を通り抜けた者だけが掴み取れる「真の輝き」があることも、今の彼女は、その痛む肉体で理解していた。


二十八歳。市原いずみ。トップモデル、そしてプロレスラー。彼女の本当の戦い――自分自身を奪い返すための旅路は、この地獄の底から、今、再び始まったばかりだ。

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